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いつの間にか「傘寿」㉞

いつの間にか傘寿2
01 /28 2024
実家の母から、お宮参りの祝着が送られてきた。

長兄のとき使った祝着だった。


母は21歳で結婚。年子で長姉と長兄を出産した。このとき23歳。
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夫のSが「宮参り? くだらねぇ」と言うかもしれない。
そう思いつつ祝着を見せたら、意外にも「行く」と言う。

さっそく、近くの氏神さまと思しき無人の神社に出かけた。

母のように正装してという訳にはいかなかったが、
神さまにこの子が生まれた報告と無事成長を願うことができて安堵した。


お宮参り

Sの態度も少しずつ変わってきた。

だが珍しく抱っこして「ねんねんよ」をやれば、
振り回し過ぎて柱に赤ん坊の頭をぶつけて大泣きをさせてしまうし、
相手をしてもすぐ飽きてほっぽり出す。

元日を過ぎてからSの実家へ挨拶に行ったら、
義姉から「夫の実家には元日に来るものだ」と言われた。

赤ん坊を連れての外出は大変だった。
生後4か月の息子を背負い、おむつやミルクを持って出かけたが、
Sはなぜか私と離れて電車に乗った。


綿入れのねんねこ半纏に大荷物を持った私を気の毒に思ったのか、
中年のおじさんが「ここに座りなさい」と席を譲ってくれたが、
Sは遠くにいて知らん顔でいた。

息子が動物園や遊園地を喜ぶ歳になったときも、
「人のいない日なら行ってもよい」なんて言っていたから、
父親として見られることに抵抗があったのだろう。

家では息子と自分にヒゲをつけて面白がったりしていたが…。
父と

翌年、私たちは出来たばかりの団地に引っ越した。

職場からまた遠くなったが、風呂もトイレもダイニングキッチンもあり、
部屋数も増えてやっとまともな暮らしになった。

意外なことに、
結納のとき「うちは形式的なことはしませんから」と言っていた義姉から、
初節句の五月人形が届いた。

実家の両親からは鯉のぼりが送られてきた。


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生後11か月になりました。あんよはお上手でごきげんです。

今年のお正月、次男のところの生後1年の孫に、
この「あんよはお上手」をやってあげたら、大喜びでもっとやれとせがまれた。

だが傘寿の腰が痛みだして、長くは続けられなかった。


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私たちの建物は一番はずれにあった。
出来立ての大団地で立派な商店街も交番も診療所もあった。

ただ私は買い物には難儀した。

まだスーパーマーケットのない時代で、店主に注文しなければならず、
私は団地の主婦たちの勢いにはじかれて取り残され、
誰もいなくなってからようやく買い物が出来たという体たらくで、
あまりにも帰りが遅いのでSが見に来たこともあった。


父親としての風格がだんだん出てきて、息子と自然に接するようになった。
ホッとするものの、「階段から落ちて流産してくれ」と言った言葉を、
私は払拭できないままでいた。

それは決して息子に漏らしてはならないことだと、固く心に誓っていた。


団地

向かいは沖縄出身のご家族だった。
ちょうどベトナム戦争のときで、ご主人は米軍の輸送船に乗っていた。
目の大きな美人の小学生が二人いて、息子をよく可愛がってくれた。


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その息子が沖縄に一家を構えて永住。

不思議なご縁だと思った。


    ーーーーー中丸明氏ーーーーー

徳間書店にいた「栗原裕」さんが、その後スペインに渡り、
中丸明というエッセイストとして活躍していたことを最近知った。


新入社員研修の時の栗原氏。
栗原裕

私たち一家が団地に住み始めたころ、その栗原さんがぶらっと訪ねてきた。
「あれ、栗原さんもここに?」と聞いたら「そうだ」という。
私と同期で夫・Sの一年先輩だったが、これまで親しく話す機会はなかった。

朝、ぶらりとやってきて昼飯にカレーを出したらそのまま畳にごろり。
すっかりくつろいで星が出るころやっとお帰りになった。


スペインが大好きで「絵画で読む聖書」「ハプスブルク一千年」など、
スペインに関連した著作があるという。
そういえば家に来た時、フラメンコギターを弾くんだと言っていた。


Wikiで「中丸明」を見たら、「登場人物に名古屋弁をしゃべらせる」
「非常に下品な下ネタが多い」とあって驚いたが、それなら図書館には
ないだろうと思ったら、ちゃんとあったので二度びっくりした。

そして著作を読んで三度目の「びっくり」をした。
スペインへの情熱と家族愛。見事な生きざまだった。


「スペインひるね暮らし」中丸明 文藝春秋 平成9年
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「東京の某所の、公衆便所の真ん前の」「大小便と酔っ払いのゲロの悪臭が
いつもたちこめていて」「乞食が日溜りで昼寝をむさぼっている」
(同著より)
そういう環境にあった「小さな出版社」で30年勤めて退職。
そんなひどくはなかったよ!

27歳のときから毎年渡っていたスペインに、退職を機に住み始めた著者。
酒飲みで女好きでスペイン狂いだが、
常に心にあるのは家族を路頭に迷わせまいとする責任感だった。

日本に残してきた女房・子供と愛猫へも絵はがきを書いたというくだりに、
なんともいえない温かさを覚えた。
2008年没、享年67歳。

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いつの間にか「傘寿」㉝

いつの間にか傘寿2
01 /25 2024
生まれたばかりなのに息子は結膜炎になった。
目をひっかかないようガーゼで手袋を作って両手にはめた。

目薬でかぶれたのか、頬に湿疹。
パンパンに太って平家ガニみたいな顔で、ニコニコとよく笑う。

いただいたベビー服を箱から出して息子の体に合わせてみた。
一歳児のものだったから、ダブダブで潜水服みたいで笑った。

早く大きくなることばかり祈って、カレンダーの日付を消していった。

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抱き上げて一緒に鏡の前に立ったら、ふと不思議な気持ちに襲われた。

「お前の顔はお前自身のものなのに、
横顔はまぎれもなくSの母親のものだし、真正面は従姉妹の〇〇ちゃんだ。
お前はお前の体を流れる何百年もの先祖の血を、
なぜそんなにも体現できるの?


みんなは私に似ていないと言う。似てなんかいなくていい。
なによりもお前自身であって欲しいから。
自分に誠実に生きてほしい。素敵な恋をしてほしい」


M編集長が言った。
「結婚してお前が素直な生き方に入ったのは良かった」と。

これが素直な生き方? そうじゃないよ。

M編集長は「お前さんはいつもトンガってていけねぇや」って言ってたから、
「平穏な」「普通の」と言いたかったんだろうけど、
そういうことじゃないんですよ。

私はとんでもない間違いをしてしまったんじゃないかって、そればっかり。


産後の出血が止まらない。左目までかすんできた。
奥歯まで痛み出したので歯医者へ行ったら、「全く異常なし」と言われた。

でも歯痛は収まらない。「抜いてください」と医者に言ったら、
「健康な歯を抜くことはできない」と。
「構わないから抜いてください」と懇願して抜いてもらったら、すっきりした。


医者が言った。「疲れているんだね。ストレスだよ」
私もそう思った。これは一種の自傷行為だ、と。


「ちゃーちゃん(おかあさん)、疲れちゃった」。
息子は私も父親も「ちゃーちゃん」と呼んだ。

「オイ!」という声でハッとしたら、茶碗と箸を持ったまま眠ってた。
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つくづく思った。
私は自分の若さの使い方を知らなかったのではないかって。

何をやっても中途半端で。飽きたのでもなく夢を失くしたのでもないのに、
続けることを止めてしまう。

怖くて恋などできなかった。飛び込んでいく勇気がなかった。

小学一年生の時の私はそうではなかった。
あのとき私は「とおるくん」に恋をして、猛烈なアタックをかけた。


休み時間になるとあの小さな木の椅子に二人で座った。
密着した腰と腕からとおるくんの体温が伝わってくるのが嬉しかった。

周りなんか見えなかったから、
級友たちに嗤われても先生からイヤらしい目で見られても平気だった。


でもある日、悲喜劇ともいうべき出来事が起きた。
いつものように二人でぼーっと座っていたとき、
溜まりに溜まったおしっこに気づいて慌ててトイレを目指したが、
時すでに遅く廊下で大洪水。恥ずかしさで泣き泣き家へ帰った。


それから間もなく、とおるくんはいなくなった。
風の又三郎みたいに消えた。
先生は「お父さんの転勤で遠くの町へ引っ越した」と言ったが、
私のせいだと思った。


母が送ってくれた安産守り。
上に載っている輪は「赤ちゃん取り違え防止」の足環。
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それから15年。22歳になった私は、
ようやく新たな「とおるくん」を見つけた。Kさんといった。

「とおるくん」がいなくなったのは自分のせいだと、
ずっと罪悪感を背負ってきたのに、Kさんを見たら、
たちまち小学一年生のときのあの熱情に包まれた。

でも、風の又三郎になって風のひゅーひゅー吹く晩、
また私から去っていくのではないかと怖気てもいた。

部署が違うKさんとはなかなか会えない。Kさんからなんのアプローチもない。
私なんかに関心がないのかもと思い悩みつつも、恋しさばかりが募る。

悶々とした日々が続いたある日、ポエムの友人に打ち明けたら、
「ちゃんと告白しなさい。でないと一生後悔するよ」ときつく叱られた。

だが、とうとう告白する勇気も機会もないまま、
私はSの申し出を受けて結婚した。

結婚式の披露宴で祝辞が始まった。その何人目かにKさんが立った。
Kさんは直立不動のまま、口ごもりつつ言い出した。

「僕はあなたを憎からず思っていました」

結婚式の最中に花嫁の私への愛の告白だった。

「お前、何言い出すんだよ」と、
友人が慌ててタバコに火をつけて煙を吹きかけた。
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いつの間にか「傘寿」㉜

いつの間にか傘寿2
01 /22 2024
私たちは横浜の私鉄沿線のアパートの一部屋で、新生活をスタートさせた。
そこは田んぼが広がる農村だった。

トイレが共同だったことは覚えているが、
風呂はどうしていたのか記憶にない。
ただ部屋が西向きだったため夏は蒸し風呂だった。

部屋にあるのは私が独身時代に使っていたソファベッドと箪笥と三面鏡と
本箱。それにコンロに鍋釜に食器類。
18歳で買った鉄製のフライパンも捨てずに持ってきた。


結婚祝いにM編集長からいただいた「輪島塗の椀」
今回の能登半島大地震で、輪島塗や九谷焼の店舗や工房が焼失したり、
破損したりの被害が出ていることを知りました。
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真新しいものはと言えば、
母が送ってくれた布団二組と客用の座布団、母手作りの二人の綿入れ半纏。
それに食器も送ってきた。

食器は家にあった見慣れたものばかりで、
私はガチャガチャと粗雑に使っていたが、
それらは代々、父の家に伝わってきた古九谷などの古いものだったことを、
ずいぶんあとになってから気が付いた。


Sは勉強机と衣類だけ持ってきた。
写真は高校時代のものだけで、それ以前を語るものは何もなかった。

かなりあとから義姉から「これしかないけど」と言って手渡されたのは、
5㎝四方にも満たない割れ目だらけのSの幼児時代の写真だった。


女性社員一同から茶びつに入った日本茶セットをいただき、
かつてご一緒した銀行頭取の令嬢からコーヒーカップのセットが届いた。
令嬢はすでに会社にくることもなくなり、ほんの短いお付き合いだったのに、
どこからか聞きつけて送ってくださった。
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新婚生活は生活費を全く渡してくれないという、困惑から始まった。

当時はまだ現金を給料袋に入れて支給されていたが、
その袋さえ見せず、請求するとこう怒鳴り散らした。

「おれが稼いだ金を俺が使って何が悪い!」


仕方なく私の失業保険金でまかなうという思ってもみなかった事態になった。
その保険金が切れたとき、Sからようやく現金を手渡された。
と同時になにやら書類も渡された。

「俺の奨学金の書類だよ。姉貴がこれからはそっちで払えってサ」


結婚してすぐ、私は妊娠。出産はSの実家に近い病院で。男の子だった。
入院中も退院後も義母の世話になった。息子を私に触らせず黙々と育児。
母乳をやることも出来ずとうとう母乳は出なくなった。
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そうか、そうだったのか。
Sは結婚前から給料は袋のまま義姉に渡していたんだ。

私との結婚後もそれはそのまま続いていたのだろう。

貧しい中で弟を私大にやった。しかも一浪までさせて。
ようやく卒業して有名企業に入って、
さあ、これで貧しさから抜け出せると安堵した矢先、
私という「トンビ」に貴重な現金収入の「油揚げ」をさらわれたのだ。


赤ん坊と同じ布団で寝る義母に「危ないからベビーベッドに」と頼んだら、
「私は寝ないから大丈夫」と言い、昼も夜も片時も離さなかった。
無口な人だったので、おむつ替えも湯浴みも黙って手本を示してくれた。
義母と心を通わせられたのはあの時だけだったが、素直に有難かった。

おかげで赤ん坊の体を洗うのにもすぐ慣れた。
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Sの給料袋は義姉に手渡され、そこから新婚生活分として、
お金をもらっていたのだろう。
Sはそれを「自分が稼いだ金だから全額自分が使って当然」として、
結婚前と同じ気持ちで使っていた。


だがさすがにおかしいと気づいたのだろう。
義姉へ渡すのを拒んだら、義姉から「それなら奨学金はそっちで払え」と。

こういう「家庭」があることを私は予想だにしていなかったし、できなかった。
M編集長の「彼は育ちがいい」という言葉が虚しく蘇ってきた。

妊娠を告げた時、Sは「階段から落ちれば流産できる」と。
予定日を10日ほど過ぎた夜、突然破水。さすがのSも慌ててタクシーを呼んだ。
産科が満員で婦人科へ。ところが真夜中に大破水、陣痛が始まった。
東北なまりの中年の看護婦がベッドを汚したと怒鳴ったのを、
同室の付き添いの人が抗議。他の看護婦が車いすを持って飛んできた。
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結婚前、初めてSの実家を訪れた帰り、Sは私にこう言った。

「俺、あの家いやでいやで。わかっただろう? あの異常な雰囲気。
兄貴はね、何かあるとすぐ姉貴やおふくろに泣きつくんだよ。
この前も駅員にひどいことを言われたと言って、二人に泣き泣き訴えて。


そしたら姉貴もおふくろも、うちのせいちゃんになんてことをと怒って、
すぐ抗議しなさいと。
兄貴は駅に電話を掛けると、大声でバカヤローと怒鳴って電話を切った。
せいちゃん、よくやったねって。40男にそう言うんだよ。あの無職男に…。
バカじゃないかと思うよ。
あいつら、そうしてしょっちゅうつるんでるんだ」


次姉からもらったベビーベッドで眠る息子。
Sは泣いても知らん顔で抱くこともしなかったが、写真だけはよく撮った。

当時の日記に私はこう記している。
「産後、2か月たっても出血が止まらず通院。夜は泥のように眠った。
Sから「ポンコツ」と言われて、産卵を終えてポッカリ白い腹を見せる魚と
同じような気がしてつらい」
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私は返事のしようがなく、ただぼーっとなった。
そんな私に構わず、Sはさも愉快そうに明るく言い足した。

「だから俺、早くあの家出たくてサ。
そしたら結婚っていう方法があったんだよな」

結婚っていう方法?


会社のあの集会の席で唐突に、
「金襴緞子の帯締めながら」と泣き泣き歌ったのは何だったのか。

あれは演出だったというのか。
Sが家を出るための手段に私は使われたってことなのか。


「Sが酒を口にしない日は少ない。ひっきりなしにタバコ。
息子が生まれてから彼はよく苛立つ。
どんなことがあっても、育てて見せるからね」
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だが不思議なことに、
結婚後もSは何かにつけてその「異常」な実家に帰った。

「おふくろがサ。今日は泊って行けってうるさいんだよ。
わざわざあっちへ帰ることもないんじゃないのってサ、ハハハ」

そう言ってカラカラ笑った。

結婚前、母は手紙に書いてきていた。


「とにかく結婚の相手はよくよく調べてくださいね。
盲目にならないようにお願いします」

父の胸騒ぎ、母の心配がこんなに早く的中するとは思ってもみなかった。

そして愚かにも、がんばればなんとかなるという自信過剰が
このときも私を奮い立たせていた。

子供の母親になったことがその後押しになった。
Sはきっと変われる、
だって我が子を可愛いと思わない親なんていないだろうからと。

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いつの間にか「傘寿」㉛

いつの間にか傘寿2
01 /19 2024
10月、私たちは結婚式を挙げた。
人生に一度の晴れ舞台です。

花嫁っていい響きですもの。

Sの「あんなものを指になんてみっともねぇ」のひと言で、
婚約指輪も結婚指輪さえもらえなかった花嫁だったが、
当時の私は強いて欲しいとは言わなかった。


父と母の懸念や忠告も上の空。何が起きてもどこ吹く風です。
何がそうさせたのかって、つらつら考えてみると
一度決めたことはやり通すという忍耐力と自負。

式も滞りなく済み披露宴会場でお客さまのお出迎え。父も母も並んでくれた。
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私は今までどんな困難にも打ち勝ってきた。
母からの理不尽な虐待も逆転の発想で、夕食を作って母を助けて乗り越えた。
だから自分には不可能はないなんて、まあ、自信過剰だったんですけど。


でも人並みに花嫁になれたことには、心底嬉しかった。
式場の手配から招待状、衣装合わせなどすべて一人でやり遂げた。

出しゃばったわけではない。Sは何もせず動かず、何一つできなかったから。

今まですべて一人でこなして自活してきた私と、
一度も家を離れることもなく、すべてを義姉に任せっきりで、
「誰かがやってくれる」ことを当然のように思ってきたSとの差。


これがこののち私をずっと苦しめることになるとは、
その時は思い至らなかった。

花嫁衣装は二着。


式にはウエディングドレスを、お色直しには着物。
こう決めたのはこの形の方が安かったから。
でもすごく気に入った。

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ハプニングがあった。
美容師さんから「化粧道具は?」と言われて、「持ってこなかった」と。

私はてっきり式場で花嫁独特の化粧を施されるとばかり思っていたが、
化粧品は自前だという。
「このままでも、ま、いいか」と、二人の美容師さん。


だから家を出てくるときほんの少し白粉をはたいてきただけで、
私は皆さんの前へ。

ただ式終了後、母からこっそり叱責された。
「せっかくきれいに産んでやったのに、なぜ化粧をしなかったのか」と。

受付や司会進行はSの友人たちが受け持ってくれた。


私の方は姉や兄たち、親戚の伯母、ポエムの知人、
私の短大時代の恩師などが出席。
会社からゆかりの社員たちが大勢、出席してくれた。

徳間社長もずっとお付き合いくださり、祝辞もいただいた。
内容は覚えていないが、なんだかボソボソ喋っていた印象だった。
徳間社長

佐高信氏の「飲水思源」に、社長のこんなエピソードがあった。

側近の社員の結婚式で祝辞を頼まれた徳間社長、
立ち上がるといきなり、


♪ 逃~げたァ 女房にゃ 未練はなァーいいがァー

と、「浪曲子守歌」を歌い出して、みんなのけぞったという。

これを読んで私はすっかり忘れていたことを思い出し、今になって赤面した。
それは入社して間もなく開かれた新入社員歓迎会でのことだった。


一人ずつ壇上に立ち出身地や出身大学、これからの抱負などを語った中、
どんじりに控えていた私はいきなり浪曲を唸った。

♪ 旅ィーゆけばァ ァあ 駿河の~国にィ 茶の~香りィッ

途中でぺペン、ペンと口三味線。

子供の頃のラジオ番組に「浪曲天狗道場」というのがあって、
聞くともなく聞いていたら覚えてしまって…。


壇上に立ってマイクを前にしたら急に唸りたくなって、いい気持で続けた。

♪ 街道一の親分はァ 清水み~なァ~とオオオの 次郎長オオオ~

みんな呆気にとられ、シーンとなった。
その静寂を破るかのようにヤジが飛んだ。

「おーい! 今のはシャンソンかい!」 会場は大爆笑。

双方の親に感謝の花束。予算が足りなくなって私の手作りの花束で。
父の寂しそうな顔を見たら、ああ、父の分をどうして用意しなかったか、と。
父3のA

結婚後、初めて帰った実家で母から思いがけないことを言われた。
「お父さんは親の代表として感謝の言葉を用意していたのに」

父は毎晩、原稿書きに取り組み、夜遅くまで練習していたと母が言った。

「あんたのためにあんなに一生懸命だったのに、
なぜ、そういう機会を作ってやらなかったのか」と母は語気鋭く私を責めた。

あのとき親族の代表として長兄がしゃべった。
長兄は自分の会社の宣伝ばかりで、私はハラハラしどうしだった。

でもなぜ、母は黙っていたのか。
受付や進行係に伝えていれば父の言葉は実現したではないか。

私は聞きたかった。
原稿を何度も書き直し、暗記するほどまで練習を重ねた父の肉声を。

しかし、その後たくさんの年月があったにもかかわらず、
私はとうとう詫びることなく、父と永遠の別れをしてしまった。


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いつの間にか「傘寿」㉚

いつの間にか傘寿2
01 /16 2024
「おーい、アメちゃん」

M編集長が呼んでいる。

「あのな、結婚式のときの引き出物、決まったか?」
「引き出物。あ、そうか。全然考えてなかったです」
「そうか。なら、焼き物はどうだ」

M編集長は石川県のご出身。友人が九谷焼の窯元だという。


「とっくりなんかどうだ。一輪挿しにもなるし。かさばらないしな。
名前とか余計なものは書かないでサ」
「あ、いいですね。おしゃれです。よろしくお願いします」

というわけで、M編集長の故郷の友人に特注してもらった。

結婚式の費用などは全部二人でまかなうと決めていたから、
それを知って、編集長は格安で頼んでくれた。


それがこれ。
引き出物

在職は2年半という短い間だったけれど、
M編集長にはずいぶん可愛がられ、守っていただいた。

でもこのあとの言葉に「なぬっ!」と思った。

「Sクンには育ちの良さが見える。裕福で立派な家庭で育ったんだろうな。
そこへいくとお前さんはガラッパチでいけねぇや」

確かにね。

Sはいつも柔らかい笑顔でいるし、ヌーボーとしているから、
それが「育ちの良さ」に見えてしまうのかも。

でも人は表面だけではわからない、
他人の見方って当てにならないものだとつくづく思った。

式場は「日本出版クラブ」に決めていた。
出版社の社員なら格安で利用できるから、ペーペーの二人の懐に優しいし、
巷の結婚式場のあのゴテゴテしさは避けたかったので、
ここは私たちにはピッタリだった。

当時は新宿区袋町にあった。平成30年、神田神保町に移転。
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結婚したら退社するのが、当時の暗黙の決まりだったから、
私もそれを当然みたいに受け入れた。

今思えば、当時でも頑張っていた女性がそれなりにいたようで、
同年齢の方がずっと職業婦人としてがんばってこられたことを知るにつけ、
私は羨望と共に拍手せずにはいられなかった。

独身時代の私は一時もじっとしていなかった。
休日は神社仏閣巡りや食べ歩き。

平日の退社後はシャンソン喫茶やフラメンコのクラブなどへ入り込んだ。
シャンソン喫茶は2か所。確か一つは「雪子の店」という名ではなかったか。
当時、丸山(三輪)明宏さんや菅原洋一さんなんかがここで歌っていた。

アパートでは買ったばかりのレコードプレーヤーで、
イブ・モンタンの枯葉なんかを繰り返し聞いて悦に入っていた。


当時はジャズ喫茶が大流行りだったが、ジャズはよくわからなかった。
ただマーサ・三宅さんだけは「いいな」と思っていた。
内容はわからなかったが、あの声に引きずり込まれた。


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食べ歩きのガイドブックを片手に、あちこちの店へ入った。
バナナのてんぷらを食べたのもこのとき。

この店は地下にあって、東南アジアの人たちがやっていた。
言葉がわからずメニューを見て指さしたら、バナナのてんぷらが出てきた。

食べ歩きのガイドブックは今年初めまで持っていたのに、
断捨離でエイヤッと捨ててしまった。惜しいことをしました。

ポエムの友人がお仲間に紹介してくれたこともあった。
彼女はみんなに私を紹介するとき、決まってこう言った。

「この人はもう売約済みですから」


詩人の高橋睦郎氏のところへも連れて行っていただいた。
このとき購入した「愛の教室」
-女性のためのギリシャ神話-は、
今もまだ持っている。


目次に「さあみんなで愛のレッスン」とある。
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そのころの母の手紙が残っている。

「無事婚約も調いお目出とう。
ここまでもってくるのにさぞ大変な事だったろうと思います。
娘をくれてやるという観念から抜けきれないお父さんにしてみれば、
平静を保ってゐるのは、これ又大変だったのでせう。


結婚は両性の合意に基づきなんて講義する気にもなれず、
良きに計らっていますから、案じる事はありません。
あなた方も出港まで短い期間でいろいろと準備が大変と思いますが、
がんばってください」


父があの結納の日、
「平静を保っているのに苦労していた」と母は言ってきたが、
これは母自身の気持ちでもあったはずだ。

しかし、本当の理由は別にあった。

上級学校へ行けなかった父と母の共通の願いは、
男女の区別なく教育を受けさせ自立した人間に、というものだったから、
子供達の自主性を重んじ、進学や結婚に口を挟むことなど一度もなかった。

だから二人には元から、
「娘をくれてやる」などという通俗的な考えは全くなかった。

ずいぶんあとになって、ようやく気付いた。
この手紙で母は「この結婚は止めた方が」と遠回しに言ってきたのだ、と。


父は何も言わず、結婚式にはにこやかに頭を下げていた。
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だが当時、この手紙を読んだ私は、
「ああ、そうなの」ぐらいに聞き流していた。

旧家に育った父にしてみれば、そしてまた大事な娘を嫁がせる身であれば、
上目遣いで喋りまくる義姉や親なのに他人事のように終始無言の義母、
ヘラヘラ笑うSの未熟さに不信感を抱いたのも当然だと今にして思う。

だが、当時の私の中に、
父の「重み」に反発したい気持ちも少なからずあったことは否めない。

江戸から明治へという変革の波を受けて生家が没落、
その家を支えるために上級学校を断念して製粉所の小僧になった父は、
貧しさと屈辱をいやというほど経験してきた。
だからたとえ彼らが貧しくても無学でも、父は気にならなかったはずだ。

ただ、苦境に落ちても誇りを失わず、どんなときにもウソがつけない、
真面目に真っ直ぐ生きてきた父には、
この一家に垣間見える卑屈さや不自然さが耐えがたく、
「娘が不幸になる」と見抜いていたのだろう。

Sもまた父に近寄りがたいものを感じたのか、
私との29年の結婚生活の間に、Sが私の実家を訪れたのは、
この結納の時と父の葬儀の時の2回しかない。

父がS一家に違和感を持ったように、
Sもまた父が醸し出す旧家の人ならではの重々しさに戸惑い、
反発しつつ逃げていたのだろう。その鬱憤をSはしょっちゅう、私に向けた。

「オレをバカにしやがって。謝れ!」

印象深かった言葉に、こんなのがあった。

「ウソをつき過ぎて、どれが本当の自分かわからなくなった」


父がこの世を去ってからすでに42年。
母も10年前にいなくなり、自分自身も老いた今、
あの日の父と母の硬い表情が鮮明に浮かんできて仕方がない。


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寡黙な父は何も言わず、私の離婚を知る前に逝ってしまったが、
今、私は父に懺悔する。

お父さんの危惧した通り、私、苦労してしまいました。
努力すれば乗り切れると思って頑張ったけど、
ダメなものはダメ、合わないものは合わないんですね。

で、思ったんです。

それはきっと、
「平静さを保つのに大変だった」あなたの胸騒ぎを知ろうともしなかった、
そういう愚かな娘への罰だったんだろうって。


ーーーーー九谷焼の徳利の絵柄についてーーーーー

この徳利を気に入られた方がいて、絵柄について質問がありましたので
お答えします。

徳利の二面はストライブで、あとの二面の一つには冒頭出した「花」
もう一面には「竹」が描かれています。

これです。
20240116_184428.jpg

銘は入っていませんが、腕のいい職人さんが描かれたのではないかと
思っています。余った3個が手元にありますが、
四角い形も面白く、絵柄もシンプルで味があって私もすごい好きな徳利です。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞