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いつのまにか「傘寿」㊸

いつの間にか傘寿3
02 /27 2024
母は私の入院中、
「旅行に行きたいからここに2週間でも3週間でもおいてもらえ」といい、
退院したら「あそこの前で車に轢かれた人がいて死んじゃった」などと、
私を動揺させるような言葉ばかり吐いた。

だがそうした言葉とは裏腹に、家に帰れば部屋は掃除も行き届き、
生まれたばかりの二男の寝場所もきちんと整えてくれていた。

テーブルにはおむつと新生児用の真新しい産着が用意されていて、
孫と娘を迎える温かい心遣いがそこここにあって、
優しい祖母像そのものが垣間見えた。

長男がここにいたころの母は、店番をしながらタロウを膝に乗せ、
商品のお菓子を手に持たせて、何やら楽し気に話していたし、
客が来ると「これ、私の孫」と嬉しそうに見せていた。

それが姉のW子が帰宅すると、たちまち別人になった。


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不安を抱えながら退院した初日の夜を迎えた時だった。
二男が泣き出したと同時に隣の部屋のふすまが開いて、
なぜか姉の部屋から母が怒鳴り込んできた。

「うるさい! 泣かすんじゃないよ! W子が眠れないじゃないか!」

慌てておっぱいを含ませると、母は夜叉のような顔のままふすまを閉めた。

新生児は2、3時間おきにお乳が欲しくて泣く。
泣くとまた母が怒鳴り込んできた。
私はあたふたして赤ん坊を抱いた。

赤ん坊が泣いて、母が鬼の形相で怒鳴り込んできて、
また2、3時間すると赤ん坊が泣いて母が怒鳴り込む。

朝までそんなイタチごっこが続いて、私はふらふらになった。
母乳は一日で出なくなった。否応なくミルクに変えた。

だが、ミルクを作るのに時間がかかる。
そのかかる時間だけ母の怒鳴り声は今までより長く大きくなった。

「泣かすな! W子が眠れないじゃないか!
明日の授業に差し支えるじゃないか! ダメな母親だね、あんたは!」


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そう言われ続けて私は途方に暮れた。

二男が泣く前に授乳するしかないと思い、みんなが寝静まった中、
足音を忍ばせて台所に入りミルクを作った。

作ったミルクを手に部屋へ戻ると、泣き出しそうになる頃合いを見計らい、
まだ眠っている二男の口に哺乳瓶の乳首を無理やり押し込んだ。

ほとんど眠らなかった。
神経を張り詰めていたせいか全身がピリピリして目が冴え、
頭の中が空洞みたいになって眠気も食欲も忘れたようになった。

感情というものさえどこかへ吹っ飛んでしまい、
何日たったのかもわからなくなった。

そんな状況の中、助産婦のとらさんが訪ねてきた。
昼にはまだ早い時間だった。
とらさんは自宅から20分ほどかけて坂道を上ってやってきた。

「どうかね」

とらさんがドアから顔をのぞかせた途端、私はハッと我に返った。
開けた部屋の中に憔悴しきった私を見て、とらさんは異変に気付き、
「何かあったのか」と聞いてきた。

私は一気に母の仕打ちを打ち明けた。
聞いていたとらさんの顔が、みるみる驚きと怒りの顔になった。

私は力が抜けて涙が止まらなくなった。あとは涙で何も言えなくなった。


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「大丈夫。心配しなくていい」

とらさんはそう言い残して部屋を出て行き、しばらくして戻ると、
きっぱりとこう言った。

「今、あんたのお母さんを叱ってきたから。うんと叱ってきたから。
〇〇さん、アンタ、5人も子供を産んどいて、
新生児がどんなものか知らないわけがないだろう。
忘れたのかい。赤ん坊は泣くもんじゃなかったのかい。
おっぱいが欲しくて泣くのは当たり前じゃないか、そう言ってきたからね」


それからとらさんはあの優しい顔になって、
「だからもう心配しなくていいよ」と、微笑んでくれた。

そしてそのまま二男のベッドに近づいて顔を覗き込むと、
「おお、おお。よく育ってる」。そう言って帰っていった。


とらさんの優しさに触れて、正気が甦ってきた。
ここにいてはダメだ、なんとしてもここから逃げよう、そう思った。

頼みは、
子供の頃の惨めな私を気にかけてくれていた長兄しかいなかったから、
すぐ東京の兄の元へ電話を掛けた。

火渡り

「おお、元気か」

幸い兄は会社にいた。
「なにかあったのか」と聞くので、「迎えに来て欲しい」と告げると、
兄は一瞬、押し黙り、それから何も聞かずにこう言った。

「わかった。すぐ行くから。荷物をまとめて待ってろ」

兄は電話を受けてすぐ車を飛ばしてきたのだろう。
日没にはまだ充分間がある時間に到着すると、
玄関からいきなり「清子、いるか」と声を掛けてきた。

車の止まる音を聞きつけて母が廊下を走ってきたが、
兄は何も言わず、母を見ることもしなかった。


私は生まれてからまだ2週間もたたない二男を抱いて、
荷物を下げていく兄のあとを追った。

廊下に立ち尽くしていた母が突然、背後から声を掛けてきた。

「お産のあとは、3週間は寝ていないとあとあと体に障るから」

なにを今さら。
私はその声を無視したまま、兄の車に乗り込んだ。

父は倉庫の隅で、自責の念に駆られつつ泣いているだろうと思いながら。

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いつの間にか「傘寿」㊷

いつの間にか傘寿3
02 /24 2024
出産予定日に、この町に古くからあるM医院に入院した。

M医院は内科を標榜していたが先生の専門は産婦人科で、
この人は同級生のK子さんのお父さんでもあった。

彼女は色白の少しふくよかな物静かなお嬢さんで、
お医者のお父さんもゆったりした優しい人だった。

子供の頃、医院の前を通るとよくピアノの音が聞こえてきた。
きっとK子さんが弾いているのだろうと思いつつ、歩いたものだ。

そのころ貴重な玉子焼きがK子さんのお弁当にはいつも入っていると、
みんなが羨ましそうに話していた。


助産婦さんは「野村とら」さんといった。
母から「あんたを取り上げてくれた人」と言われてびっくりした。

28年前、母から赤ん坊の私を取り上げてくれた人が、
今度はその私の子供を取り上げてくれる、
母子二代が同じ人のお世話になる、とらさんがすごく身近に感じられた。

入院した部屋は8畳ほどの畳敷きで、
そこで私は、M医師と助産婦のとらさんの二人に見守られて出産した。

元気な男の子だった。


今、手元にある「臍帯」を納めた小箱を見ると、
私の小箱には「産婆 野村とら」、
二男の箱には「助産婦 野村とら子」とある。


左から私、二男、長男のへその緒。
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都会の病院で生まれた長男の小箱には「産毛」はなかったが、
とらさんは私と二男の箱には産毛も真綿にくるんで納めてくれていた。

ちなみに出生時の私の体重は940匁、身長は「三壁」とある。
この「壁」とは何を指すのか、お分かりの方ぜひ教えてください。


さて、当時すでに老境に入っていたとらさんだったが、
深夜の出産にも関わらず、テキパキと手際よく処置してくれたので、
私はなんの不安もなく二男を産んだ。

長男の時は大きな病院での出産だったが、
そのときの医者よりとらさんの技量の方が格段に勝っていたし、
なによりも私に掛けてくれるひと声ひと声が優しく甘美に響き、
産みの苦しみも遠のいて、母になる喜びが自然と沸き上がってきた。

こんな安らぎは故郷に戻って初めて味わうものだった。

今までとらさんの手で産声を上げた赤ちゃんは、何千人にもなるだろう。
片田舎の一隅で、とらさんはそれを一人でこなしてきた。
すごいな、尊いなと思った。

生後4か月の二男。あんなにお世話になったのに私は「とらさん」に、
その後を一度も報告しなかった。今さら悔やんでももう遅い。
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翌日夫のSが来たが、そのままとんぼ返りで東京へ帰った。

夜、母が来た。怖い顔をしていた。
とらさんが遠慮して席を立ったのを確認すると、
生まれた孫を見ることもなく枕元に座り、声を押し殺して言い始めた。


「あんたが来たお陰で、
W子と行く予定だった旅行に行けなくなったじゃないか」

旅行! 思いもしなかったことを言い出した。


母は寝ている私の頭の真後ろに座っていたので姿が見えない。
姿を見せないまま、声だけが落ちてきた。

「今からでも行きたいから、2週間でも3週間でもここに置いてもらいなさい」

頭に血が昇りそうになったが堪えた。

それにしても母は、出産したばかりで身動きの出来ない娘に、
なんでこんな酷い言葉を平気で浴びせられるのか。

姉からそう言えと言われてきたのだろうが、今この場に姉はいない。
人形遣いがいないのだから自分の本心に従えばいいものを。

現代の言葉に置き換えるなら、「洗脳」という状態だったのだろうが、
あまりにもひどすぎる。

お母さん、私、子供を産んだばかりだよ。胎児が産道を通るとき、
全身の骨が砕けてしまうのではないかと思うほどつらかったよ。

今、その大役を無事終えて、私は力尽きた体をこうして横たえている。
それを一番知っているはずのなのに、それなのにお母さん、あなたは…。

産室の黒々と広がる天井が、今にも覆いかぶさってくるような気がした。

姉は来なかった。
勤務先の学校はすでに春休みだったから家にはいるんだろう。

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父は来た。父は毎日来た。
隣町への仕入れの帰りだろう、毎日同じ時刻に部屋のふすまを開け、
そこから顔だけのぞかせて私と赤ん坊をかわるがわる見た。

部屋には一歩も入らないまま、
これ以上ないというほど顔をほころばせて赤ん坊を見ると、
喜びを顔いっぱい浮かべたままそっと襖をしめて立ち去った。

入院中の一週間は、助産婦のとらさんとの幸せな日々になった。

とらさんはご自分の知恵を惜しみなく与えてくださり、
毎日、こまごまと赤ん坊と私の世話をしてくれた。

授乳の指導、産後の過ごし方、体調の変化。
「おお、よく出る。でも初めの母乳は汚いからこれは飲ませてはいけないよ」

今でもそのときの情景が昨日のことのように浮かんでくる。

退院後の不安はあったものの、乗り切れると思った。
母親の私がこの子のそばにいる限り、姉だって変な手出しはできないだろう。

その姉に洗脳された母だって孫と接しているうちに、
祖母としての愛情が自然と出てくるだろう、そう思った。

だが、その望みはすぐに砕かれた。

姉と母からの「いじめ」は退院後、すぐ再開された。
父にはそれを止める力がなかった。

父は最大限、私に気を遣ってくれた。
依頼してあった授乳用のミルクの缶を差し出して、
「これでいいかね?」と。

父のあんな明るい声は初めて聞いた。

兄と弟
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「一人ぐらい家で孫を産んで欲しい」という父の気持ちは本心で、
それに応えた私に父はできる限り心を配ってくれた。
だが、次々と「いじめ」を考え出す姉やそれを実行する母を止める力は、
残念ながらそのときの父にはなかった。

いじめの実態が見えていなかったのか、それとも、
姉のあの自制心を失くした「狂気」の前ではどうしようもなかったのか。

入院中、こんな出来事があった。

夕方だった。
医院の玄関の方角から「うーん、うーん」といううめき声が微かにして…。
しばらくすると救急車のサイレンが聞こえてきて、
慌ただしい気配がしたが、すぐまたいつもの静けさに戻っていった。

8畳間の真ん中に寝ながら、
私は何か大変なことが起きたんだなと思っていたが、
とらさんは何も言わなかった。

だが退院後、母は私の顔を見るなり言い出した。
田舎ではめったにないビッグニュースを聞かせるように。


「あんたの入院中、M医院の前で交通事故があったけど、
知らなかったのかい。
〇〇さんとこのお母さんだったって。
出産した娘の家にお祝いに行く途中、車に轢かれちゃったんだって。
死んじゃったんだって」

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いつの間にか「傘寿」㊶

いつの間にか傘寿3
02 /21 2024
あれは出産のため実家へ来てから3、4日目ごろのことだった。
夜、帰宅したW子姉が突然、台所に入ってきた。

この家に来たあの日以来、私の前に全く姿を見せなかった姉が、
手に食品トレーを持ったまま入ってくると、
「タロウちゃんにいいもの買ってきたよ」と、息子の名を呼んだ。

次の瞬間、異常事態が起きた。


姉はトレーのラップを引きちぎると中の物を手で掴み、
呼ばれて姉の前に立っていた息子の口にねじ込んだのだ。

息子の口から黄色い液体が滴っているのを見て、
私は咄嗟に抱きかかえ指を入れて吐き出させた。

黄色い液体と一緒に口から出てきたのは豚か何かの臓物だった。


「これは焼かなければ食べられないものじゃないの!」と怒りで震える私に、
姉はヘラヘラ笑いながら、
「そんなに神経質だと子供は育たないよ」と言い放ち、
フンと横を向いて部屋を出て行った。

そのすきに、母が黙ってトレーごとゴミ箱に捨てるのがチラッと見えた。


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暗澹とした。狂っているとしか思えなかった。
しかし本当の恐怖は翌日起きた。

朝、息子がいなくなっているのに気づいて母に聞くと、
「W子が遊びに連れて行った」と言う。

夕べあんなことがあったのに、なぜ止めてくれなかったのかと責めたら、
私に背を向けたまま、「あんたものんびりできるからいいじゃない」と言う。


胸騒ぎがして食事どころではない。
ひたすら息子の帰りを待ったが、昼が過ぎても夕飯時にも二人は帰らない。
とうとう夜になった。

隣町にもその先の町にも動物園はおろか遊園地も水族館もない。
そんな場所でまだ5歳にもならない幼子を10数時間も連れまわすなんて、
一体どこで何をしているのかと、不安と怒りが全身を駆け巡った。

玄関の戸がガラガラと音を立てたのは、時計が9時をまわったころだった。
私は身重なことも忘れて玄関へ走った。
そこで姉の腕の中でぐったりしている息子を見た。

脱水症状を起こしているのが一目でわかった。
その息子を夢中で姉の腕から奪い取ると、
大声で「タロウ」と呼び掛けたらうっすら目を開けて、
「おかあさん」とかすれた声を出した。


「水」というので、母が急いでコップを差し出すと、
咳込みながらガブガブ飲んだ。母がご飯を目の前に置いたら、
朦朧としながら茶碗に手を突っ込んだ。

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背後から見ていた姉が、なんか文句ある?とでもいうように言った。

「朝出がけにお腹が痛いというから、水一滴も飲ませなかったからね。
お腹に悪いと思ったから、食べ物も食べさせてないからね」


母が「あんたはどうしてたの? おなかがすいただろうに」と聞いたら、
姉はあっけらかんと返した。
「私は食べたさァ。この子の目の前で食べてやった」

「今までどこにいたんだい」とまた母が聞いたら、
「鈴川の海岸」と言い、アッハッハーと笑いながら部屋を出て行った。


「鈴川の海岸!」 恐怖が全身を突き抜けた。
電車を乗り継がなければ行けないあんな遠い海まで、なんのために。

このままでは殺される、本気でそう思った。
息子を抱きかかえたまま電話機に飛びつくと夫に電話を掛けた。

「すぐタロウを迎えに来て!」
Sは私の切迫した声によほどのことが起きたと察したのか、
ただ一言「わかった」と言って電話を切った。

その夜は息子を抱いて寝た。

人家も街灯もない、ただ浸食された砂浜と荒い波が打ち寄せるだけの
あの鈴川の海岸で、姉は何をしようとしたのか。
この子を海に放り込もうとしたのか、
海岸に置き去りにして迷子を装うつもりだったのか。

冷たい風の吹く真っ暗な海岸に連れていかれて、どんなに怖かったことか。
よくぞ無事に帰って来てくれたと息子の背中を何度も撫でた。


7、8年前母から、姉が不妊治療を受けたがダメだったと聞いたことがあった。
私と息子がここへ来た日、母は仁王立ちしたまま、
「子供を産みたくても産めない姉さんがいるのによくも来れたね」と怒鳴った。
あれは姉の本心で、「こんなところへ来たらとんでもないことになるよ」
という母からの警告だったのか。


私は底知れぬ恐怖を覚えた。

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母は自叙伝に「W子は何事にも徹底的に納得のいくまでやる努力家で、
成績も抜群。皆の先頭を務める」と姉をベタ褒めし、さらに、

「小学2年生のW子が先生は高子さんをえこひいきすると訴えたので、
抗議に行って先生を屈服させた。先生はW子が何でもできるので
意地悪をしたようです」と臆面もなく書いている。


その無敵のW子姉が「子供を産む」ことだけは、妹に「負けた」。
母に罵られ殴られるしかなかったダメな妹のこの私に。

きっと姉はこう思ったに違いない。

かつて母がこの妹を虐待しているのを周囲に知られないよう、
「この子は空想好きで物語を作るのが得意な子だから、
この子の言うことは信じないで」と吹聴してうまくいったのに、
その間抜けな妹がこともあろうに、この自分を出し抜いて母親になった。


なんでも一番で、つねにみんなの先頭にいて、
母からW子に不可能はないとのお墨付きをもらってきた自分にとって、
これほどの屈辱はない、と。

その屈辱は嫉妬となり嫉妬は形になって、
抵抗できない幼い息子がターゲットにされてしまったのだ。

翌日、Sが息子を迎えに来た。母は店に引っ込んだまま出てこなかった。

その日以来、姉はまた私に姿を見せなくなった。
姉の部屋とはふすま一つだけの隣り同士だから気配はあった。
だが物音一つしなかった。


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東京へ戻った息子は父親ともどもSの実家で暮らし始めたが、
来て早々喘息の発作を起こしたと、電話で伝えてきた。
目まぐるしい環境の変化とこちらでの恐怖で疲れ果てていたところへ、
義兄も義姉もSもヘビースモーカーだから、ひとたまりもなかったのだろう。


「ゼーゼーしてばかりいるのでこんなに弱い子じゃあと思って、
鍛えようと走らせたら呼吸困難になって病院へ担ぎこんだ。
医者からひどい状態だと言われてしまった。タロウは喘息持ちだったの?」
と、Sが聞いてきた。


子供と遊ぶことはほとんどなく、
喘息発作で苦しむ息子のそばで、平然とタバコをふかす父親だものね。
そう思いつつ、
「よろしくお願いします」とだけ伝えた。


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いつの間にか「傘寿」㊵

いつの間にか傘寿2
02 /18 2024
私的な暗部を人さまに見せる、
恥ずかしいことなのか、不快感を与えるだけなのかは正直、わからない。
ただ書きたいという衝動は消しようもなく、
ひとつ書くごとにそれが自分自身の浄化に繋がる、そんな気がした。

80歳になったとき、やけに過去が甦ってきた。
その過去の映像を記憶の引き出しからひとつひとつ引き出してみたら、
意外にも冷静に見ることができた。

まるで他人事みたいに。


私は終戦の2年前に生まれた。
子供の頃の楽しみはラジオだった。

♪ お父さんは青い空 いつもそっと見てるよ きっと
  お母さんは白い雲 いつもそっとささやく きっと
  ワンココロわんわん コーロコロ 
  ワンコロわんわんコーロコロ わん わん わん


これはみなしごになった子犬の「コロ物語」。

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コロは一人になってもたくましく生きた。
ラジオから流れる声優の声を聞いているだけで、
目の前にそのシーンが連続して見えて、私はコロのために泣いた。

「少年探偵団」も楽しみだった。
テーマソングの「♪ ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団」が聞こえてくると、
ラジオにかじりついた。


「浪曲天狗道場」では浪花節を覚えた。真似て唸ると爽快だった。

NHK紅白歌合戦はもちろんラジオで聞いた。
大晦日、父と母の餅つきを見ながら、みんなで聞いた。

こうして記憶の奥から過去の映像を引き出して見ていると、
次から次へ思い出が溢れてきた。


観客席には私一人がいて、
遠い日の風景の中で父や母や姉や兄たちが、
サイレント映画みたいに動いていた。
不思議なことに映像には私自身はいなかった。


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つらいことなんかなかったではないか、そんな気持ちになった。
そして見終わって映像を閉じたとき、
自分がすっかり浄化されているのに気が付いた。

近所の農家のおばさんから「あんたはシンデレラみたいな子だね」と
言われた日もあった。「あんたのお母さんは姉さんたちばかり可愛がって」


私は母からの仕打ちより、
自分が置かれた現実を周囲に知られていることの方が恥ずかしくて、
「そんなことはない。私のお母さんは素晴らしい人なんだ」
と自分にいい聞かせてきた。

それでも私の背負っていたものは隠しきれなかったのだろう、
「寂しそう」「暗い」と言われ、M編集長からは「尖がっている」と言われた。


後年、お世話になった新聞社では「元気印」と言われていたが、
支局長だけは心配そうに忠告してくれた。

「そんなに周りに遠慮するな。
あなたは人に気を遣い過ぎる。もっと自分を大事にしたほうがいいよ」


フリーの記者だったから超がつくほどの安い稿料だったが、
やりがいはお金では買えないものだった。
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母の虐待から逃れるために夕食を作ったら、虐待は止んだ。
そのとき私は「人に優しくすればその恩恵は自分に返ってくる」と思った。

だがそれは結果的に間違っていた。
そうした行為は場所や時代や人が変わっても、
さらにいじめを受けやすくするといういびつな人間関係を作った。

私はそれを人に媚びへつらう卑屈な態度と認識しないまま、
「気を遣い過ぎる」大人になった。そのことを支局長は見抜いたのだ。


息子からも言われた。
「お母さんはなぜそんなに周りに遠慮ばかりしているんだ。
おかげでぼくらまでつらい思いをしているじゃないか」と。


そういえば夫のSも言っていた。
「お前が優しすぎたから俺がダメになった」

身勝手な責任転嫁だが、一理あるなとも思った。


人に気を遣い過ぎることはさらなるいじめを誘発してしまう、
そのことに気付いたのはずっとあとになってからのことだ。
だが、気づいても修正できなかった。

間抜けな人生だなあとつくづく思ったが、努力はした。

二男の出産の折、母から「妊婦は汚いから風呂は最後に入れ」と言われた。
浴室にはシャワーがなく、入浴は数日おきで以前の風呂の追い焚き。
そのどろんとした湯に耐えかねて、妻が妊娠中だった次兄に助けを求めた。

兄はピーナッツか何かをボリボリ食べながら、
電話の向こうでけだるそうに言った。
「ふーん。うちでは一番先にいれるけどね」


あの食糧難の時代、母はこの兄だけに玉子掛けご飯を食べさせた。
「私も食べたい」と言ったら、「兄ちゃんは今、成長期だから」と。
たった3つしか違わない兄は私の目の前で、
勝ち誇ったようにそれをかっ込んでいたではないか。
その兄に助けを求めるなんて、バカだなと思った。


出産から間もなくして実家から逃げ帰ってきた。
二男にミルクをやりながら、戦時下、母乳が出ず玄米を粉にして私に与え、
苦労して育ててくれた母を複雑な気持ちで思いつつ。
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努力しても虚しさだけが返ってくるということをこのとき知ったが、
それでも私はあきらめなかった。

つらいことから目を逸らすと見えてくるものがある。それを信じた。
そちらから助けに寄ってくることはなかったけれど、
確かに別の世界があると思った。それも複数。


そのとき思った。
「なあんだ。苦境からほんのちょっと体をずらせばよかったんだ」と。

苦境に落ちたまま潰れるか、叩かれても這い上がるか、
今風に言えばサバイバーになれるかなれないかは、
被虐待者が「助けてくれる人」や「場所」に気づくかどうか、
そして自ら行動に移せるかどうかということだと私は思う。


「愛着崩壊」岡田尊司 KADOKAWA 平成24年という本に、
こんな一文があった。


「子供のときどんな体験をしたかということよりも、
その体験をどう受け止め振り返ることができるかが重要」

「安定型の人では逆境的な体験であっても、
それと折り合いをつけ、前向きに振り返ることができる」
「それはポジティブの意味のもとに自己考察する能力と関係する」


そして著者はこう付け加える。
「親以外の人が安全基地となってくれる場合があるかどうかが重要」と。

私はそれを10歳の時、自分で見つけた。
それが適切でなかったにしても、とにかく切り抜けた。


ただ「やる」「やられる」の関係は、
「やる」ほうに反省や懺悔がない限り解消できないことを、
二男の出産のとき、身をもって知った。


「弟が生まれたよ」。長男、このとき4歳8か月、次男生後1か月。
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実家の母から「家で産んだらどうか」と言われたとき、私は28歳だった。

そのころ実家には教師のW子という7歳上の姉がいた。
離婚して実家に出戻っていた。


このときW子から受けた仕打ちは、
44歳の時夫・Sから受けた仕打ちに匹敵するほどひどいものだった。
どちらも命に係るものだったから、
この二つだけは「記憶の映像」を、ずっと見ることができないままだった。 

家族と縁を切ってはいけないと思い込んでいた私だったが、
自分が還暦を迎えた時、「もう終わりにします」と母に伝えた。
もう充分子としての務めは果たした、これからは自分のために生きるんだと。


それから10数年後の母の死後、「力石」の情報を得て故郷を訪ねた時、
初対面の情報提供者から突然「実家」の話を突き付けられた。

「あなたは〇〇さんの家の人ではないですか?」

即座に否定したら、不審げな顔で「絶対そうですよ。似てますもん」と言い、
「お姉さんはあんなに立派な方なのに」と非難するような口ぶりになった。

その数年前にも同様のことがあった。まだ母が生存中のときで、
この町に用事で立ち寄った際、見知らぬ女性から声を掛けられた。
女性は険しい顔で言った。
「あんた、あそこの家の人でしょ。お母さんどうしてる?
姉さん一人に押し付けていい御身分ね」


JR東静岡駅から見た富士山。左側に新幹線、右側を在来線が走っている。
東静岡駅

母は百歳で死んだ。W子姉は半世紀をこの母と過ごした。
その孝行ぶりは小さな町だから、隅々にまで評判になっていたのだろう。
「苦労を姉さん一人に押し付けて」という言葉を付して。


かつてW子姉は親戚の伯父や伯母がくると、幼い私を指してこう言った。

「この子は空想好きで物語を作るのが得意ですから、
この子の言うことは信じないでください」
「この子は心がいじけた、ひねくれた子ですから」

そしてこの言葉は実家と縁を切ったあとまで、形を変え吹聴された。
一人で老母を介護している感心な元・教師の言葉を、
誰もウソとは思わないだろう。


「二人は共依存母娘ですから」などと、反論するつもりはさらさらない。
「立派な方」に見えていたのなら、それはそれでいいではないか。

だってあの恐怖は私以外知る人はいないのだから。
だから話しても理解されないだろうとずっと封印してきた。

だが傘寿を迎えて思い直した。


あのときの映像を今一度、巻き戻して見よう、そう思った。
自分のために。浄化して禍根を残さないために。

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いつの間にか「傘寿」㊴

いつの間にか傘寿2
02 /15 2024
次兄から言われたことがある。
「お前は昔のことを克明に覚えているから怖い」

そう言われて初めて気が付いた。
私は映像で記憶するという、兄とは違う記憶の仕方をしているらしい、と。

だから過去を振り返る時、そのときの映像を巻き戻せば表情や匂いと共に
記憶が鮮明に蘇ってくる。ただしこの記憶装置は、
感情を揺さぶられたり衝撃的、印象的な出来事に限られていたから、
苦手な学校の勉強にはほとんど役に立たなかった。

持って生まれたこの記憶装置、
40代半ばで入った新聞社でもごく自然に活用していたから、
取材の時、メモもテープへの吹き込みもしなかった。

そんな私を見てデスクが忠告した。


「あとで取材した人から、
そんなことは言ってないと苦情が来た時困るから証拠を残してくれ」


取材中の自分の写真はわずか。これはその一枚。
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もっともだと思ったものの不遜にも私は、
テープレコーダーは買ったものの使わずメモもいい加減だった。
だが幸いにも、記者時代の14年間、苦情は一度もなかった。


第一、テープ起こしに時間を取られるなんて愚の骨頂だし、
そうした記事は往々にしてダラダラとして、
一体何を言わんとしているのかという意味不明な記事になりやすい。

実際の取材の現場で要点をすばやく掴み記事にする方が、
よっぽど正確な記事になる。
それに目の前で録音されれば緊張して、よそ行きの会話になりがちだから、
本音が出ない。つまらない記事になる。


今は記者会見の場で各社一斉にパソコンに打ち込んでいるが、
あれはデスクへの送信なのか、あとから記者自身が読んで記事にするため
なのだろうか。今の私にはわからない。


画家修業にイタリアへ旅立つ若者へインタビュー。若い友人たちも一緒に。
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幸い私の担当は文化面で、
事故や事件のような緊急を要するものではなかったし、企画も取材対象も
全部私の自由だったから事前調査にたっぷり時間を使うことができた。

演劇人なら伊豆半島の先端から遠州の山奥まで足を運んで芝居を観、
アーティストなら展覧会場へ出かけたり画集を見たり、
著作があれば読んで、可能な限りの情報を頭に入れてから取材に臨んだ。


そうして情報収集をしているうちに人物の輪郭がおぼろげに浮かび上がり、
その人のクセや主張、趣味、家族、経歴などが見えてくるから、
取材当日は相手との対話が以前からの知己のように弾んだ。

勉強不足や事前の調査不足は、
記者の思い込みや何を言いたいのかわからない記事になる。

今はそういう記事が多くなったと思うのは、私だけでしょうか。

「寄り道・回り道ー大井川を訪ねて」の取材で。1993年。
かつて就航していた高瀬舟の船宿など大井川流域に暮らす人々を訪ねた。
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元・夫のSは人生の大半を雑誌のライターとして生きた。
ただ彼はアンカーライターだったから、取材経験はない。

アンカーライターというのは室内にいて、
取材記者が現場で取材してきたデータや資料を元に、
雑誌の掲載用の記事に仕立てるライターのこと。

彼が20年勤めた雑誌で一度現場取材をしたものの編集長から、
「君には無理だ」と言われたと、正直に自分の著作に書いている。


アンカーライターにはそれなりの才能がいるだろうが、
現場を見ずに書くという臨場感に乏しい仕事で、
想像力を働かせすぎると事実とかけ離れた記事になる。

「講釈師、見てきたようなウソを言い」の状態で記事を書くのは、
なんだか気の毒だなとも思った。


俳優の橋爪功氏率いる演劇集団「円」と地元の人たちたちが一つになって、
菜の花が咲き乱れる野外で「菜の花舞台」を演じた。
その第一回目の公演(1994年)を取材した。写真は練習風景。
風邪を引いて鼻水が止まらず、難儀した取材だった。現在も存続とのこと。
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静岡県伊豆市小土肥

彼は作家志望だった。
38歳の時、ある新人賞に応募したが落ちた。
そのときのことを彼自身が後年、自著にこう書いている。

「ほとんどフィッシュオンしていたのに、土壇場で逃げられた」


しかしそれは事実ではない。

応募も通常の形ではなく、その出版社にいる友人に頼んで予選を飛ばし、
いきなり最終候補作5編の中にいれてもらったという特別な扱いだった。
だから「もう受賞したのも同然」と、彼は浮かれていた。

だが落ちた。私はそのとばっちりを受けて、
「お前が俺の才能を潰した。お前のせいで落ちた」と散々罵倒された。


どんなものを書いたのか気になって本屋で雑誌を求めたら、
選者のこんな酷評が目に飛び込んできた。

「これは小説とは呼べない。週刊誌記事の拡大に過ぎない」


Sの叔父は芥川賞候補にもなった戦前の作家だった。
生い立ちや生きざまをこれは絶対書かねばという強い動機に立ち、
技巧におぼれず淡々と書いていたが、Sの文章にはそれがなかった。

作り過ぎていたし、知ったかぶってもいた。
面白いだろう?凄いだろう?という自意識が先走っていた。

彼が還暦になって出した最後の本を今、読んでみたら、
「屈折」や「言い訳めいたもの」ばかりが目に付き、その根底に、
叔父の作家が指摘していたSの亡父の「えべったん笑い」と同じ、
えへらえへら笑ってごまかす「逃げ」みたいなものが感じられて、
やっぱり「文は人なり」だよなぁと、哀しいような寂しい気持ちになった。


私には、
「現場に立っての取材なくして物は書けない」というこだわりがあった。

写真家が「その場の動きを切り取って静止画像にする」ような、
そうした個人技に魅せられていたから、
元旦でも休日でも現地を飛び回っていた。

未知の人を掘り起こして新聞紙上で知らしめるという醍醐味もあった。
そして、たくさんの人に出会い、その出会った数だけの人生を知った。

静岡支局にて、掲載紙を前に。
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まだ記者になりたてのころ、
一人の県立静岡農業高校・園芸科の生徒さんに会った。

「高校生輝きコンクール最優秀賞」(産能大学主催)を受賞した
17歳の高村直登君。


早いものですね、この取材からすでに30年余たちました。
あのとき「夢はオランダ留学。品種改良がケタ違いに進んだ国ですから」
とおっしゃっていましたが、きっと実現されたことと思います。
高校生バラ

彼が言った。
「バラは改良に改良を重ねて大輪の美しいバラになりました。
でもその陰で失ったものがあります。
香りです。
バラは美しさと香りが揃ってバラなんです。

香りを失ったのは、
色と形ばかりを重視した育種家の考え方にあることに気づき、
色、形、香りの三つ揃った本物のバラを作ろうと決意。
僕は今、その香りを取り戻そうと実験を重ねています」

その後私は偶然にも、全く別の方からまた別の「香り」の話を聞いた。

マスクメロンの品質・生産額で日本一を誇る袋井市の、
その基礎を作ったメロン研究者で、
元・静岡大学教授の鈴木英治郎氏
(1908年生まれ)がその人だった。

私は1994 年から一年かけて静岡県内の旧東海道二十二宿を歩き、
「今」と「過去」をつなぐ「ぶらぶら旅日記」を書いた。
魅力的な場所・人だらけで私はしょっちゅう街道を大きく外れて歩き回った。

88回の連載で100人ほどの方にお会いした。
その中のお一人が鈴木先生だった。

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いろいろお話を伺ってそろそろおいとまを、と思っていたとき、
先生が「メロンの香り」についてポツリと話された。


「マスクとはジャコウ(香り)を意味しています。だが見た目や甘さを重視
するあまり、香りをおろそかにする傾向にあります。
僕はそれを懸念しています。香りの研究をしてくれる人がいれば…」と。

鈴木先生のご著書「メロン考・1991」鈴木英治郎 1991 私家本
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そこでバラの香りの研究をしている高村君の話をしたら、
「えっ、そんな若者がいるんですか」と、鈴木先生の顔がパッと輝いた。


先生の優しいお顔は今も忘れがたく、落ち込んだ時助けられています。
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同著より
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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞