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奈落の底 …㉗

田畑修一郎
01 /31 2022
夫の武雄から「金ねえんだよ。自分でなんとかしろ」と言われても、
病気は待っていてくれない。

手術は12月の初めと決まった。

入院の際、持って行かなければならないものはたくさんあった。
遅延可能な支払いを後回しにして、お金を工面した。

病院から渡された印刷物を片手に入院準備をしているとき、
孤独という言葉がふと浮かんだが慌てて消した。

医者から告げられた入院期間は「まず一週間」だった。
しかし医者はこうも付け足した。「もしかしたらもう少し長くなる」

とにかく今の目標は「1週間を無事、通過すること」だ。

だが、最大の心配事があった。
母のいない家で息子たちは二人だけで暮らさなければならない。

DSC03949.jpg

ひどいことになったと思ったが、心配しても仕方がない。
留守を頼む子供たちのために食料を買い、留守中の注意事項を書いた。

ガスの不始末が一番気がかりだったが、
退院後、それが現実に起こっていたことを長男から知らされて愕然となった。

ガス漏れ報知器の音で目を覚ました長男が、ガスの臭いに気づいた。
弟がやかんをコンロに掛けたがコンロの火を確認しないまま眠ってしまい、
漏れて流れ出したというのだ。

受験勉強に疲れていたのだろう。
長男の冷静な対処で爆発も中毒死も免れた。

せっかくガンが治っても、二人を失ってしまったらなんの意味があろう。

私は二人に、親の不甲斐なさを詫び、生きていてくれたことへ感謝した。

手術をしたこの年を境に、私は変わり始めていた。
これ以上、不毛の暮らしをする意味がない。

人間、落ちるところまで落ちたら後は這いあがるだけじゃないか。
その奈落の底が「今」なのだと思った。

病院での説明は一人で聞き、手術の同意書のサインも一人でやった。

看護師さんが「ご主人は?」と聞いたので、「仕事で来られない」と言ったら、
「いくら忙しいっていったって。あなた、普通の病気じゃないじゃないの」
と呆れたけれど、私はただ、笑い返すしかなかった。

ふと、隣りの夫婦の会話が聞こえてきた。

DSC03632.jpg

「心配するな」

そう言った夫の横には、青い顔をした妻らしい人がぼんやり座っていた。

看護師さんには見慣れた当たり前の光景だろうが、
私にはひどく贅沢なものに映った。

妻の手術の説明にも来なかった夫に、もはや何も望みはしなかったけれど、
それでも私の心のどこかに、
手術当日ぐらいは駆けつけてくれるだろうという微かな希望はあった。

だが、それも叶わなかった。


※写真撮影は斎藤氏


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。