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迷走するにもほどがある 怒!

三ノ宮卯之助
10 /13 2021
「筆子塚」に刻まれた「向佐夘之助」が、
どのように解釈され、それがどのように迷走していったかを見ていきます。

「筆子」とは、寺子屋に通う子供たちのこと。
「筆子塚」とは、筆子たちが師への報恩のために建てた碑のこと。

多くは、師が没した時や数年後に、成人した筆子たちが建立。

さて、三野宮香取神社の「筆子塚」です。

今から11年前の2010年9月、
斎藤氏は、この神社の「筆子塚」台座に、卯之助の名を発見。

これは例の「足持石」発見の翌年のことです。

そのときの苦い経験から、卯之助研究者のT氏への問い合わせは、
同氏と親交がある、さいたま市在住の酒井正氏に依頼した。

だが回答はT氏ではなく、石仏に詳しいK氏からきた。

優しい酒井さんの手紙には、斎藤さんへの気遣いが端々に。

T、K氏のお二人とも新たな卯之助ファン=研究家が現れて、
詳しくお調べのことと喜んでおられましたよ」と。

酒井さんです。
以前、ブログに載せたいと伝えたら、この写真を送って下さった。
img20210419_10172153 (2)

さて、酒井さんからの手紙です。

2010年9月14日、越谷市郷土研究会の副会長(現・顧問)で、
石造物の悉皆調査をされたK氏からの回答として、
次のような伝言がありました。

①台座の向佐多次郎が夘之助の何にあたるか判らない。
 ただ、K氏は年代的に見て卯之助本人であるのは
ほぼ間違いないと言いながらも、断定はできないとのこと。

※私の独り言=「年代的に見て卯之助本人」、もうここからおかしい。
           理由は後述。

②現在、「生家」といっている向佐家は、卯之助の生家ではなく、
 兄弟姉妹の子孫らしい。

③卯之助が江戸、三野宮…、どこかで、
 自分の家庭を持っていたかどうかもわからない。

この「家庭」なる言葉、旅がらすの卯之助には似合いませんが、
斎藤氏からの問い合わせに呼応したものでしょう。

斎藤氏の調査では、
「多次郎の名は文献・資料からは見いだせなかった。
生家のおばあさんも、全くわからないとのこと」

この手紙から10日ほどして、再び、K氏からの追伸が届いた。

中に、K氏の手になる
平成9,10年(1997,8)の「石造物調査報告書」のコピーがあった。

これです。

「天神像」とあります。左側赤丸に向佐多次郎 同 夘之助とあります。
img20211007_18561478 (4)

台座正面に、
卯之助の出身地とされる三野宮村の筆子たちの名前が並んでいます。
しかしこの中に「向佐家」はありません。

台座右側(調査書では左側)の村名は「大森村」。
「向佐」名があるその隣はただ「村」とだけ。大森村の枝村の意か?

上部に句が刻んであります。
寺子屋の師匠の辞世の句でしょうか。

問題は次の調査書です。右寄りの中ほどをご覧ください。

「夘之助の名前が刻まれているが、これは、
この頃活躍した日本一の力持ちの三ノ宮卯之助
指すものと思われる」

おいおいおい

「この頃活躍した」って、卯之助はこの安政5年にはもういないはずでしょ?
没年は4年前の嘉永7年だって公表したのは、あんた方じゃないの。

img20211007_18561478 (3)

追伸では13年前の調査書の、この個所をトーンダウン。

「過去帳などの消失により、確証は得られない現在は断言できない」

しかし、直接話を聞いた酒井氏は、その時の様子をこう補足している。

K氏は、天神像の夘之助は三ノ宮卯之助を指すものと思うものの、
それを活字にするのはご慎重のようでした」

「ご慎重」と言ったって、13年も前に活字にしてるじゃないですか。
それに、13年たってもまだ、「卯之助本人」だと、思い込んでいる。

寺子屋の師匠と子供。「稚六芸の内 書数」 歌川国貞・画
寺子屋

寺子屋が増加し始めたのは、天保期(1830~1844)といわれていますから、
文化四年(1807)生まれで、地方の片田舎にいた卯之助が、
寺子屋へ通えたかどうかさえ疑問です。

酒井氏がどんなにK氏を、
「石造物に関しては凄いとしか言いようのない方」と褒め、
「推測の範囲で楽しむのがよろしいようで」とフォローしても、

間違いは間違いです。

だって、卯之助はすでにこの世にいなかったのですから。

調査報告書の編集委員や研究会内部から、
「それはおかしい」と言う声は挙がらなかったのでしょうか。

私如きが言うのはおこがましいですが、私はこう思うのです。

「歴史には間違いがある。しかしそれは決して恥ずべきことではない。
歴史の考察は、先人の業績を踏み台にして、
それに次世代が新事実を積み上げていくこと。
ただし、最も大事なのは、自説の間違いを認める潔さ」だと。

img20211007_18593303 (2)
斎藤氏撮影

さて、とりけらさんがご自身のブログに書いた
「筆子塚の夘之助は(三ノ宮)卯之助の子供らしいという話があるとか」の、
その典拠にしたのが、

K氏と同じ越谷市郷土研究会の会員のブログ、
「越谷探訪」の記事です。それには、こうありました。

K氏の「大袋地区の石仏」(平成9,10年度調査/平成27年12月改定)に、
「(筆子塚)の夘之助は、三ノ宮卯之助(嘉永7年没)の息子であろうか」とある。
この息子であろうかというK氏の考察には信ぴょう性がある。

おいおいおい

先輩のみならず後輩までも。

1997年には「卯之助本人」と書き、
2010年の斎藤氏からの問い合わせには
「本人と推測しているが断言できない」といい、
それから5年後に今度は、「卯之助の息子」とは、

そのどこに「信ぴょう性がある」といえますか!

K先生、「本人説」から「息子説」へ大変換。

もし、証拠もなく、
卯之助の没年とのズレに気づいて、慌てて「息子」に変えたのなら、

失礼な言い方ですが、それは「改定」ではなく、「偽装」です。

権威ある方の発言や著述は信用度が高い。
読み手の知らない分野のことならなおさらです。だから責任は重いのです。

「推測を活字にするのは慎重に」と言いながら、18年後にまた
活字にしていることも、その根拠が必要と私は思います。

「仮説を立てて真相に迫る」ことと、「推測で断言」は、別モノですから。

img697 (3)
三ノ宮香取神社 酒井正・画

ブログ「越谷探訪」のこの記事、
「三野宮香取神社の力石と石仏など境内風景」は、今年4月ですからまだ新しい。

ブログ主さん、「三ノ宮卯之助の息子説は信憑性がある」とした確たる証拠を
お示しいただけたら、ありがたいです。

さて、

「家斉将軍が上覧した」と碑に刻み、100年後に死亡報告と位牌が届いたといい、
死因は食中毒か毒殺で悶死と、これまたおどろおどろしい話を世間に流布。

そして今度は「卯之助には息子がいた」という新説。

センセーショナルなエピソード満載です。

同会では市民対象の歴史探訪を行っている。
ここへ来て、「この人は三ノ宮卯之助の息子らしいなんて説明されたら、
たまったもんじゃない。

耳から入る情報、特に初めて聞く人には、
「らしい」なんかすぐ取れて、「息子」とのみインプットされるのは、よくあること。

世間受けする話題こそ、広がるのも定着も早いのです。

「推測の範囲で楽しむ」?

冗談じゃない! それこそ歴史への冒涜です。

なんだか卯之助は、地元でおもちゃにされているような気がして…。

考えすぎかなぁ。「迷走」に翻弄されて、めまいがしてきた。


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コメント

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No title

ちから姫さんこんばんは!

待ってましたぁ!これは面白い。
(怒り心頭のちから姫さんには申し訳ありませんが)

なるほどなるほど、う~ん、期待以上の面白さです。
いつもの通り、姫さんの分析には頭が下がります。
実に明快です。

そうなると、さらに疑問が膨らんで来ますね。

向佐多次郎とは誰なのか?卯之助の息子が卯之助???

何故三野宮村ではなく、「村」のところに彫られていたのか?

卯之助は寺小屋に通えていたの?

姫さんの疑問点がストンと落ちてきました。
いやぁ、真相は何なのでしょうか?
楽しいなぁ。

torikeraさんへ

torikeraさんに「うちの地元の悪口言うなんて」と怒られるかとビクビクしてました。膨らんだ疑問はそっくり、地元へお返しです!

「卯之助の息子が卯之助?」については、よく先祖などに偉い人が出ると、それにあやかろうと同じ名前を付けるでしょ。そういうことも考えられるかも、ですね。昔、田中角栄さんにあやかろうと、子供に「角栄」と付けたら、その後、お縄になって子供が学校でいじめられたという話があります。

歴史は謎解き。楽しみたい!

石造物の原位置についての疑問

はじめまして、ちから姫学姉
そもそも天神社の石祠が三野宮村香取神社境内に造立されたものか疑問があります。「原位置」ではなく三野宮村以外の「村」に造立された可能性が考えられます。おらが村内に造立された筆子塚なので自村の名を刻まずにただ「村」としたのではないでしょうか。何らかの都合で現境内に遷座されたのではありませんか。

凹石さんへ

コメント、ありがとうございます。
「筆子塚」は、よそから持ってきたということもありえますね。筆子塚は供養塔として墓地に多いですし。

ただこれは「天神像」なので、この香取神社には天神も祭られているらしいので、(私は現地へ行っていないので、わからないのですが)、最初からここだった可能性もあるような気がします。また、正面に「三野宮村」が刻まれていることなどからも、そんな思いがいたします。

大森村は今のさいたま市にあったそうですが、三野宮村とは隣同士なので、両村の筆子は共通した寺子屋に通っていたのかなあとも思っています。寺子屋なら寺院かなとも思いますが。

この三野宮村の香取神社は、昭和40年代に上智大学の伊東先生が訪れたときは荒れ放題だったそうで、卯之助石は車止めに使われていたそうです。
斎藤氏が「指石」を土中から見つけたのが2005年。2016年になって文化財指定となり、ようやく整備されたのですから、関心を集めるようになったのはごく最近と言えるかと思います。

凹石さま、お近くにお住まいなら、遷座や「村」の謎を追いかけていただけたら有難いです。「遷座」という考えは思い浮かばなかったので、そうか、そういうこともあるかも、と目を開かれました。

村=当村

ちから姫 学姉
早速の返信ありがとうございます。「石造物は動かない」という固定観念が一般的にあると思われますが、意外に造立者の意思と違って、後世の人の都合で移動されていることが多いようです。ところで、自分の村のことを具体的な村名を記さないで「当村」と表現することがよくあります。未だ推量の域ですが、本件の「村」=「当村」である可能性があるのではないかと、思いつきました。「当村」て書かれると困るんですよ。どこの当村か微妙な場合があるんですよ。

凹石さんへ

確かに、石造物は動かないという固定観念、私にもあります。でも、明治の神社合祀や廃仏で動いた石造物も多かったと思いますし、地蔵さんの盗難も聞きますし。この筆子塚も再考する必要があるかもと改めて思いました。

力石で言うと、盛んに担いでいたころは、担げたら盗んでもよいという暗黙の了解があったそうです。でも盗まれたら村の威信を掛けて取り戻しに行ったという話も残っています。また、夜中にこっそり盗んで石の下敷きになる事故が起きて、禁止されたという話も。

近年、大阪の某地蔵堂が壊されて防災倉庫に変身。その前にあった立派な刻字の力石2個が忽然となくなってしまったんです。地元に聞くと盗まれた、と。しかし、石はコンクリートで固められていてそう簡単に盗めません。突き詰めていったら、工事を頼んだ四国の石屋さんが持って行った。石屋さんの住所はわからない、と。

第三者があれこれ言える立場ではないのですが、江戸の頃の若者たちが心を込めて奉納した石です。地蔵堂は昔から地元で大切にされてきた心の拠り所。それがこんなふうに、という思いがあります。また、四国へ渡ったらもうその石の由来など、うやむやになりますし。どこかの料亭に売られたら、と思ったら、残念でたまりませんでした。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
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