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力持ち、華の競演

三ノ宮卯之助
10 /01 2021
卯之助の顕彰碑にまつわる話、いよいよ最終回です。

やれ、「家斉御上覧」などなかっただの、
弘化4年の「足持石」をなぜ、碑から落としたのかとか、
詰めがまったく足らないよ、などなど、

碑の建立に関わったみなさまには、さぞ耳障りな連載だったか、と。

最後にシュルシュル、パンとネズミ花火をお見舞いしたいと思います。

卯之助最期の場面です。

「嘉永7年7月、卯之助はさる関西の大名の江戸屋敷で、
東西力持ちの力比べをした」

あり得ません。

前年の嘉永6年6月、
浦賀(横須賀市)へ、ペリー率いる4隻のアメリカ艦隊「黒船」が入港。

「横浜売物図絵」唐物店之図 五雲亭貞秀・画(銅板油絵)
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「泰平の眠りを覚ます上喜撰(お茶のこと。蒸気船とかけた)、
たった四杯(4隻)で夜も寝られず」

と狂歌に歌われた、あれです。

民衆は暢気なもので、これから日本に大変革が起きることなど夢にも思わず、
物珍しさに大挙して見物。

下の絵は少し時代が下った文久の頃。

井伊大老暗殺,生麦事件勃発と、血なまぐさい事件が続き、
攘夷だ、佐幕だと大騒ぎしているのに、庶民はのんびり稲荷参り。

なにしろ大政奉還した慶喜さんが大阪から逃げ帰ってきたというのに、
庶民は無関心。門松立ててお屠蘇気分だったというんですから。

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「千代田稲荷之図」一川芳員・画

しかし、幕府はそれどころではなかった。

各大名たちに芝から品川、上総、安房の江戸湾の沿岸警備を命じ、
町火消し、大名火消しまで総動員。

武具のない武士は古道具屋から急きょ、購入。

そんなさ中、将軍家慶が死去。

ペリーから「開国せよ」と突き付けられた老中・阿部正弘は、
大名たちに意見を求めた。

品川沖に台場を築造したのが8月。

翌・嘉永7年1月、ペリー再来日。

2月、アメリカ船に米を献上。力持ちの鬼熊も加わった(右から3人目)。

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この時、力士小柳がアメリカ水兵3人と相撲を取り、勝ったという。

上の絵の左端が相撲に勝った「小柳常吉」です。

小柳常吉
小柳常吉

巨漢の小柳がアメリカ水兵3人を投げ飛ばしても、アメリカは強かった。
とうとう開港を約束させられた。

3月、日米和親条約に調印。

下の絵は、横浜港におけるペリー提督の上陸記念式です。

右側にぎっしり並んでいるのは、見物の群集だろうか。

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5月、富裕商人たちへ御用金を申し付ける。
6月、大砲用の火薬庫が次々爆発して、被害甚大。死者が多数出た。
同月,関西大地震。11月には安政の大地震。

こういう緊迫した情勢から見ても、卯之助生家の当時のご当主が言った
「7月、大名屋敷で東西力持ちの力比べ」なんて、

あり得ないでしょう。

それでなくても、大名たちは日ごろから、「武家諸法度」で統制され、
特にこの時期、「酒や遊びは慎むように」と言い渡されていたのです。

また、「その晩、祝宴の帰り、悶死。毒殺の疑い」と言いますが、
これ、生家のご当主から高崎氏、そこから研究会の面々拡散。

拡散に従い、さらに興行師の名前や師の肥田文八の出身地が変わったり、
果ては、卯之助の道場が東京都中央区の水天宮の近くにあったなどと、
道場まで作られて、
そこへの帰路に悶死したなど、珍説、奇説、新説が流布してしまった。

それがまた、「位牌」と称する「戒名」の解釈にまで及んでしまった。

歴史研究を標榜する方々の論文としては、ちょっと問題だと思います。
論文は歴史小説やドラマとは違いますよ。

卯之助の偉業に傷がつきます。

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兵庫県姫路市網干区宮内・魚吹八幡神社の卯之助像。

さて、この「悶死」について、私が抱いた疑問は、これです。

「毒殺」にしろ「食中毒」にしろ、
祝宴に同席したはずの興行師はなぜ、無事だったのか。

もう一つ、

江戸時代は旅人が旅先で死んだら、ただちにその宿場の役人に届け、
遺体は現地の寺へ埋葬。

故郷へ飛脚が走り、生家へそのことを知らせるという制度があった。

江戸と越ケ谷なんて目と鼻の先なのに、
同郷の興行師は、なぜ、それをしなかったのか。

卯之助のエピソードには、
「講釈師、見て来たようなウソを言い」の臭いがしないでもないけれど、

たとえそうでも、
なにしろ、610㎏もの大石を足差しした三ノ宮卯之助です。

下の絵は、没する2年前に差した610㎏の「大盤石」です。
卯之助、この時、45歳。

卯之助の最期を語るにふさわしく、
地元・紅花の大商人たちが世話人として、おおぜい名を連ねています。

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埼玉県桶川市寿・稲荷神社 酒井正・画

この日本一の石を差した、日本一の力持ちを「世間に知らしめたい」という
生家の主の「先祖を誇る気持ち」は、充分、理解できます。

そして、少々、無理があったけれど、

ひたすら「愚直に生きた男」卯之助を、今に蘇らせたのは、
まぎれもなく生家の主と、それを支援した高崎氏を始め、
地元の人たちの熱意です。

英雄伝説が生まれること自体、英雄であったと言う証しかもしれません。

卯之助の石は、文化財にもなった。

卯之助生地・三野宮神社の「大磐石」の拓本です。
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そして東京では、浅草奥山で興行したときの「足持石」が、
斎藤氏により見いだされ、越谷市民が説明板を立て、
台東区の「史跡」にまでなった。

三ノ宮卯之助は、大江戸・浅草の地で、とうとう鬼熊に並んだ。
それを追い越す勢いにまでなった。

片やプロに生き、一方はアマチュアに徹した
この江戸を代表する二人の物語を、

六代目神田伯山さんに、新作の講談として作っていただけたら、
と、私は心から願っております。

題して、

「浅草奥山、卯之助・鬼熊 力持ち、華の競演」


私の本棚にある「講談本」です。
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「評判講談全集」大日本雄弁会講談社 昭和6年

余談です。

「足持石」があった合力稲荷神社には、こんな話が…。

俳優で芸能研究者だった小沢昭一氏の
「ぼくの浅草案内」(筑摩書房 2001)に、師の正岡容(いるる)が、
この神社でつぶやいた言葉として、

殺された妓の三味線があるという、おいなりさんの前で待とうよ」

どこまでも、謎めいた神社です。


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コメント

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No title

卯之助顕彰碑に端を発した「卯之助物語」。

隠された部分、新たな史実など大変興味深く読みました。
もう遅いですが、事前の固定観念に囚われない再度の
検証が必要であったことを物語っています。

夏目さんへ

吠えまくってしまいました。
偉そうなことは言えませんが、でも、言っておかなければと思いました。

毒殺といえば、誰もが関心を持ちます。それを「○〇氏のこれこれから引用しました」で逃げて、自分では検証しないままネットへ載せて拡散する。

例えば埋葬場所は不明と言いながら、「卯之助の道場」なんて話、どこから出てきたのかと驚きました。力持ちで道場を持ったのは神田川徳蔵だけです。しかもそれは重量挙げの道場です。力石は神社や辻、自分の練習用をただ地面に置いてあっただけです。馬鹿も休み休み言えと、無性に腹が立ちました。

香具師が連れて歩いたとしても、専属の香具師というのが本当にいたのか、もう少し調べて見ないとわかりません。それこそが地元の研究者の仕事だと思うのです。それから、江戸時代の荷揚げ人足や芸人の地位の低さ、差別などもしっかり踏まえないとダメだと思います。卯之助の位牌については、某寺のご住職の助言で言及をやめました。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞