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「御上覧」を検証してみた

三ノ宮卯之助
09 /13 2021
「江戸力持 三ノ宮卯之助」の引札には、
4種類あることを前回、お伝えしました。

そのどれにも、「御成先 御上覧仕候」、つまり、
「御成先(出向いた先)で、ご上覧いただいた」という文言が入っています。

その文言のもとになったのがこちら、
「御上覧力持」の文字が入った天保4年引札番付です。

img20210908_19375866 (2)
どの資料にも掲載されているものの、この引札と番付だけ出典や所有者は
書かれていない。唯一、「見世物興行年表」に「報條」「古書目録」とあるのみ。

これを卯之助は後の引札、「江戸力持 三ノ宮卯之助」に、
「御成先 御上覧仕候」と書き入れて宣伝に使った。

それをさらに自分たちのこととして、ちゃっかり流用したのがこちら。

この3人、天保4年の番付にも載っていないのに、
卯之助の名前を消して、自分たちの名前を書いています。

img20210719_18563747 (2)

さて、そのもとになった天保4年の「御上覧」番付、

卯之助研究者の高崎力氏は「将軍家斉」の御上覧と明言していますが、
それはあり得ないということを、下記の記事(青文字)で少し触れました。

今回はもっと踏み込みます。

この「御上覧」の目玉になる力持ちは、卯之助大木戸仙太郎の二人だけ。
あとは肥田文八を除けば、利根川辺の雑魚ばかり。

なんていうと、越谷市民から石つぶてが飛んできそうですが、

まず、この「御上覧」では、卯之助は「江戸力持」を名乗ってはいません。
つまり、まだ、
「岩槻三ノ宮」しか名乗れなかったということだと思います。

また、この番付には「甲府」「石和」の地名があったり、
「御成先」が「□□川八幡」とあって、場所が特定できないことなど不明な点が多く、

ときの将軍様が自ら出向いて行くほどの興行とは、とても思えないのです。

「卯之助には悪いけど」

参考までに、明治3年生まれの風俗研究家・三田村鳶魚の著作から、
「家斉将軍の子供相撲上覧」をご紹介します。

「家斉将軍の相撲上覧は5回。そのうち子供相撲が2回あった。
この子供相撲は見世物ではなく、

裕福な町人や商人たちが市中の10歳から14,5歳の者を4,50人集め、
百両、二百両ものお金をかけて化粧まわしから幟まで立て、
本場所通りやらせた本式の相撲だった。

これを家斉は14歳のときと30歳のとき召し寄せて、
吹上の苑中で相撲をお取らせになった」

では、出先で見る「御成ご上覧」はどうだったかというと、
まず、力持ちから見ていきます。

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「我衣」加藤曳尾庵 日本庶民史料集成十五巻 三一書房 1971

「我衣」文政7年(1924)の記事です。

「当春、深川八幡の開帳ありし時に、江戸所々の酒屋抱えの者、5,6人
かしこに至りて酒樽の曲持ち、重き貫目の大石等を担ぎて、
諸人に見物させしより、往々所々の開帳に出てこれを見せしむ。

9月中より高田南蔵院に於いて開帳ありし節は、大いに見物群集す。
木戸銭は取らず見物の勝手次第。相撲の如き番付を売り歩く。

10月5日、雑司ヶ谷の御鷹部屋でこのことありとて、続々と人が行く」

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著者はそのあと、
「近日高田馬場にて、清水公のご上覧ありとかや」と記し、

その「高田南蔵院力業」の者たちとして、
芝土橋久五郎(久太郎の間違い)、飯田町萬屋金蔵、本所四ツ目久蔵など、
当時の江戸の有名力持ち13人の名を記しています。

ちなみに久太郎や金蔵はこの前年、
木更津市の観蔵寺にある「五拾五貫余」の石を担いでいます。

ここに出てくる「清水公」を、この本の校注では、
「清水徳川家の斉順(なりゆき)」としていますが、

斉順はこの年の8年も前に紀州家へ養子に入り、
この文政7年には藩主になっていますから、
これは次の当主で、当時14歳の斉明(なりのり)でしょう。

二人とも、将軍家斉の子供ですが、
斉明は南蔵院でのご上覧の3年後、わずか17歳で早逝。

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3枚すべて、「我衣」の著者・画

三田村鳶魚の著書に戻ります。

鳶魚も清水家のことに触れています。

「文政5年5月26日、田安家、清水家お揃いで、
日暮里の浄光寺で子供相撲をご覧になった」

このときの清水家当主も12歳の斉明(なりのり)。
「浄光寺」は、歴代将軍の鷹狩の時の休憩所です。

この相撲見物も、
「御鷹部屋をご覧になる」というのにかこつけての見物だったそうです。

一方、将軍家はどうだったかというと、
家斉が大人の相撲を3回、子供相撲を2回、吹上御所で上覧し、

家斉の二男・家慶は10歳の時、浅草観音堂で子供相撲を「御成ご上覧」。
大人の相撲は12代将軍の地位にあった51歳の時、吹上御所で上覧した。

将軍二人とも上覧したのは、すべて吹上の苑中で、
一流の力士と華美な子供の「相撲」のみ。「力持ち」は一度もない。

残念ながら当時の力持ちは、「我衣」の著者が言う
「誠に下賤のことといえども」という存在でしかなかった。

これは最近、越谷市中央市民会館に建立された卯之助の顕彰碑です。

へいへい3
へいへいさん撮影

これには、

「天保四年、
江戸深川八幡境内において徳川第十一代将軍家斉御上覧の栄を受ける」

と刻まれています。

しかし、
家斉の吹上御所での相撲上覧でさえ、天保前の文政期が最後です。

まして、天保4年にはまだ征夷大将軍太政大臣を兼務しており、
(じいさんが権力の座にいつまでも居座っていた)

二男の家慶に将軍職を譲ったのはその4年後の65歳のとき。
そのまた4年後の天保12年、69歳でこの世を去ります。

今まで大々的に吹聴し、碑にも書き入れた「家斉御上覧」の証拠は、
本当にあるのでしょうか。

いくらなんでも、

子供時代ならまだしも、老境に差し掛かった最高権力者が、
今まで一度も吹上の苑に召し寄せなかった「下賤」の力持ちを、
わざわざ「深川八幡」くんだりまで、見に出かけたりはしないでしょう。怒!

行ったとしたら、あの「藤岡屋日記」「我衣」の著者や三田村鳶魚
黙ってはいなかったでしょうし、番付売りのヨミウリも大騒ぎしたはず。

記事や番付を売り歩くヨミウリ
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また、「□□川八幡」を「深川八幡」にしている根拠も示さず、
「家斉ご上覧の根拠は天保4年に将軍だったから」というのでは、
あまりにも短絡的で非学問的。歴史の検証としてはお粗末です。

「御上覧」=将軍ではないのです。

たかが石碑一つに、
なにもそんなに目くじらを立てなくても、と思われるかもしれませんが、
それなりに権威ある人や研究会の名において、一旦、流布されてしまったら、

それが間違いでも、いつの間にか正しいこととしてまかり通っていきます。
すでに「高崎論文」を引用した論文が長年月の間に数種類、出回っています。

この顕彰碑も、
「2004年の「高島愼助・高崎力論文」を元に制作した」と聞きました。

紙の資料は興味のある人が見るだけですが、公共の場での石碑は、
様々な人の目に触れ、そのまま刷り込まれて定着していきます。

事実、顕彰碑建立では、各メディア「家斉将軍ご上覧」と記事に書き、
それを見たブロガーなどがブログやフェイスブックで拡散。

発信元が同じですからどこの社も同じ記事になります。
「新聞記事」

こうなると、修正はもう困難でしょう。

紙の資料にも言えることですが、特に石に刻むときは、
古い資料のみを無条件に踏襲するのではなく、また権威にとらわれず、
新しい視点で多人数で再検証を重ねるなど、もっと神経を使ってほしかった。

もし、「家斉ご上覧」を証明する新資料が出てきたら、私は潔く降参します。

書いているうちに、やたら腹が立ってきた。短気は損気だよね。

ふうー…


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞