加賀藩の話・南砺物語⑨
「南砺物語」のはずが、あちこちへ飛んでしまい、焦っておりますが、
もう少し、お付き合いのほどを。
「ばんもち」は北陸地方特有の力石の呼び名です。
その呼称が、どこに伝播し今はどうなっているかというお話です。
斎藤氏の調査では、
石そのものに「ばんもち」と刻まれたもの(切付け・刻字)はわずか1個。
じかに石にペンキで書いたもの(書付)も、やはり1個。
意外な結果です。
と、前回、ご報告しましたが、斎藤氏、念には念を入れて再確認したら、
新たに、「刻銘(切付け)」石を1個、「書付」石を2個発見。
斎藤氏、全国の力石を全部調べ直したので、
すっかり「目がショボショボおじさん」になっちゃったそうです。
でもやっぱり、「刻銘(切付け)」も「書付」も少ないですね。
ならば碑文や説明文ではどうかというと、12府県にありました。
ダントツなのが石川県で、104か所。
師匠の高島先生もこう言っています。
「石川県で力石を訪ねると、「ああ、バンモチ石かね」と答えられる。
県全体でバンモチ石という名称が通り名になっていた」
こちらは能美市の「バンモチ石」です。
「碑文 盤持ち石」

石川県能美市金剛寺町・富樫八幡神社
加賀(石川県)といえば百万石の大大名。さすがに保存も立派です。
江戸時代は越中(富山県)をも支配していたそうで、
日本海の西回り航路の先鞭をつけたのも、加賀藩だったとか。
なんでも当時、年貢米を大阪へ輸送するには琵琶湖の水運だったが、
運賃が高額なうえ、船に乗せたり馬の背に移し替えたりで俵が痛む。
そこで考えたのが下関経由の輸送。
島原の乱鎮圧のため、このルートで軍隊を送ったことがヒントになったとか。
こちらは昭和9年の「磐持大会奉納額」です。

石川県長浜市佐味町・長浜神社
「北前船」と聞けば、大きな一枚帆の美しい大型船体を思い浮かべますが、
ここまで来るには大変な苦戦を強いられた、ということが、
「人づくり風土記・富山」に書かれていました。
最初、上方への航海に、琵琶湖で使っていた「北国船(ほっこくぶね)」
という平底船で運行していたそうです。
これは帆がムシロで漕ぎ手が櫓をこぐというもので、海難事故も多かった。
こんな船では櫓を使わず帆で走る上方の「弁才船(べざいせん)」には勝てません。
上方の人たちは、この貧相な船を笑って、
「北前船(きたまえぶね)」と軽蔑の意味をこめて呼んでいたというのです。
つまり、「北前」とは「日本海」を指した言葉で、
「いなかっぺ」という意味で、差別的に使っていたと思われます。
関西人はけしからん!
こちらは観光ガイドブックに載った力石(左下)です。
こういう本に載せていただくと嬉しいですね。

石川県加賀市塩屋町・八幡神社の力石
バカにされて意地になった加賀藩では上方の船を雇い、
それ以外の地方(じかた)の船を排除。
「この加賀藩の了見の狭さが、
北陸の海運全般を上方依存にさせてしまった」
と、「人づくり風土記」の著者は静かに抗議。
こうした状況のもとで越中(富山)の船主たちは、弁才船の建造を試み、
船頭たちは天文、気象、海流などの新しい航海技術を学んだ。
そうした懸命の努力で、やがて黄金時代を迎えます。
北海道開拓でも、この北前船でも感じ取れるのは、
北陸の人の我慢強さや勤勉さです。
こちらは、今も続いている小松市の「磐持大会」です。

石川県小松市浜田町・菟橋神社
この北前船の船頭の中に、明治の南極探検隊の一員になった人がいます。
羽咋市の野村直吉で、
明治45年、白瀬中尉の南極探検隊の船長として加わります。
わずか204トンの機帆船で5万8000キロを航海。
一人の死傷者も出さなかったそうです。
北前船の船員の航海技術はそれだけ高かったんですね。
刻苦勉励といえば、息子が高校生の頃の先生の話が思い出されます。
先生、ため息をつきながらこう言いました。
「進路相談のとき、長野や北陸の親は、
「この大学に入れなかったらあきらめて働いてもらいます」と言うのに、
静岡の親は、
「入れるところならどこでもいいよ」と言う。甘いんですよ、ここの親は」と。
そういえば、静岡から総理大臣は一人も出ていないしなあ。
覇気がないから小粒が多いんだよね。ふう…。
気を取り直して、小松市の「磐持の由来碑」をご覧に入れます。
静岡県にはこういう立派なものもない。当県は力石の貧困県なんです。

石川県小松市向本折町・白山神社
それにしてもみなさま、
コロナで外出もままならない日々、どうされていますか?
私はついに暴発!

とはいえ、火薬のない火縄銃では暴発もなにもないですけど。
それにこれ、3年前に県西部の郷土館で写したもの。
ああ、こんなふうに自由に出歩きたい!
※参考文献/「北前船ー寄港ガイド」加藤貞仁 無明舎出版 2018
/「北前船‐日本海こんぶロード」読売新聞北陸支社 1997
/「江戸時代 人づくり風土記16 富山」「越中七浦と北前船」
高瀬保 農山漁村文化協会 組本社 1993
ーーーーー◇ーーーーー
高島先生ブログ(1・22)
「福井県今立郡池田町千代谷・八幡神社」
足羽川ダム、豪雪地帯、能楽、そして力石。

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もう少し、お付き合いのほどを。
「ばんもち」は北陸地方特有の力石の呼び名です。
その呼称が、どこに伝播し今はどうなっているかというお話です。
斎藤氏の調査では、
石そのものに「ばんもち」と刻まれたもの(切付け・刻字)はわずか1個。
じかに石にペンキで書いたもの(書付)も、やはり1個。
意外な結果です。
と、前回、ご報告しましたが、斎藤氏、念には念を入れて再確認したら、
新たに、「刻銘(切付け)」石を1個、「書付」石を2個発見。
斎藤氏、全国の力石を全部調べ直したので、
すっかり「目がショボショボおじさん」になっちゃったそうです。
でもやっぱり、「刻銘(切付け)」も「書付」も少ないですね。
ならば碑文や説明文ではどうかというと、12府県にありました。
ダントツなのが石川県で、104か所。
師匠の高島先生もこう言っています。
「石川県で力石を訪ねると、「ああ、バンモチ石かね」と答えられる。
県全体でバンモチ石という名称が通り名になっていた」
こちらは能美市の「バンモチ石」です。
「碑文 盤持ち石」

石川県能美市金剛寺町・富樫八幡神社
加賀(石川県)といえば百万石の大大名。さすがに保存も立派です。
江戸時代は越中(富山県)をも支配していたそうで、
日本海の西回り航路の先鞭をつけたのも、加賀藩だったとか。
なんでも当時、年貢米を大阪へ輸送するには琵琶湖の水運だったが、
運賃が高額なうえ、船に乗せたり馬の背に移し替えたりで俵が痛む。
そこで考えたのが下関経由の輸送。
島原の乱鎮圧のため、このルートで軍隊を送ったことがヒントになったとか。
こちらは昭和9年の「磐持大会奉納額」です。

石川県長浜市佐味町・長浜神社
「北前船」と聞けば、大きな一枚帆の美しい大型船体を思い浮かべますが、
ここまで来るには大変な苦戦を強いられた、ということが、
「人づくり風土記・富山」に書かれていました。
最初、上方への航海に、琵琶湖で使っていた「北国船(ほっこくぶね)」
という平底船で運行していたそうです。
これは帆がムシロで漕ぎ手が櫓をこぐというもので、海難事故も多かった。
こんな船では櫓を使わず帆で走る上方の「弁才船(べざいせん)」には勝てません。
上方の人たちは、この貧相な船を笑って、
「北前船(きたまえぶね)」と軽蔑の意味をこめて呼んでいたというのです。
つまり、「北前」とは「日本海」を指した言葉で、
「いなかっぺ」という意味で、差別的に使っていたと思われます。
関西人はけしからん!
こちらは観光ガイドブックに載った力石(左下)です。
こういう本に載せていただくと嬉しいですね。

石川県加賀市塩屋町・八幡神社の力石
バカにされて意地になった加賀藩では上方の船を雇い、
それ以外の地方(じかた)の船を排除。
「この加賀藩の了見の狭さが、
北陸の海運全般を上方依存にさせてしまった」
と、「人づくり風土記」の著者は静かに抗議。
こうした状況のもとで越中(富山)の船主たちは、弁才船の建造を試み、
船頭たちは天文、気象、海流などの新しい航海技術を学んだ。
そうした懸命の努力で、やがて黄金時代を迎えます。
北海道開拓でも、この北前船でも感じ取れるのは、
北陸の人の我慢強さや勤勉さです。
こちらは、今も続いている小松市の「磐持大会」です。

石川県小松市浜田町・菟橋神社
この北前船の船頭の中に、明治の南極探検隊の一員になった人がいます。
羽咋市の野村直吉で、
明治45年、白瀬中尉の南極探検隊の船長として加わります。
わずか204トンの機帆船で5万8000キロを航海。
一人の死傷者も出さなかったそうです。
北前船の船員の航海技術はそれだけ高かったんですね。
刻苦勉励といえば、息子が高校生の頃の先生の話が思い出されます。
先生、ため息をつきながらこう言いました。
「進路相談のとき、長野や北陸の親は、
「この大学に入れなかったらあきらめて働いてもらいます」と言うのに、
静岡の親は、
「入れるところならどこでもいいよ」と言う。甘いんですよ、ここの親は」と。
そういえば、静岡から総理大臣は一人も出ていないしなあ。
覇気がないから小粒が多いんだよね。ふう…。
気を取り直して、小松市の「磐持の由来碑」をご覧に入れます。
静岡県にはこういう立派なものもない。当県は力石の貧困県なんです。

石川県小松市向本折町・白山神社
それにしてもみなさま、
コロナで外出もままならない日々、どうされていますか?
私はついに暴発!

とはいえ、火薬のない火縄銃では暴発もなにもないですけど。
それにこれ、3年前に県西部の郷土館で写したもの。
ああ、こんなふうに自由に出歩きたい!
※参考文献/「北前船ー寄港ガイド」加藤貞仁 無明舎出版 2018
/「北前船‐日本海こんぶロード」読売新聞北陸支社 1997
/「江戸時代 人づくり風土記16 富山」「越中七浦と北前船」
高瀬保 農山漁村文化協会 組本社 1993
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高島先生ブログ(1・22)
「福井県今立郡池田町千代谷・八幡神社」
足羽川ダム、豪雪地帯、能楽、そして力石。

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