地域の人に守られて
消えた間宮一族
「間宮家は、絶えてしまった家だからねぇ」
幸手市郷土資料館の学芸員さんも、地元の方も、
菩提寺だった宝聖寺のご住職も、みんなそう言った。
「絶えてしまった家」
なんて悲しい響きだろうと思った。
明治期の地図には存在のマークがはっきりついていたのに…。
その間宮家の4番目の墓所は意外なところにあった。
ここです。鳥居の扁額に「香取神社」とあります。

この神社は明治44年の合祀で消えたはずなのに、と思っていたら、
「幸手市史」にこうありました。
「外郷内の氏神だった香取神社がなくなってしまったため、代わりに、
そのころ神社総代をしていたM家の屋敷神だった香取神社を
屋敷の内側から表に出し、株(外郷内株)で祀ることになった」
時の権力者から神社統合を強制されて、集落の氏神は消滅したけれど、
氏子には今まで通りの精神的な拠り所が必要だったんですね。
※平須賀村は六つの集落の集合体で、集落ごとに「株」と呼んでいた。
さて、
地元の方からM家の現・当主がここでは一番の長老だと聞いて、
早速、訪問した斎藤氏、そこでM家の奥さまからこんな話を聞いた。
「先々代はこんな墓石もここに移したの」
なんと、神社の庭に墓石が…。
それを見た瞬間、斎藤氏は「もしや、間宮家のでは」と思ったという。
奥さまの話では、昭和55年(1980)ごろ、
道路の拡張整備で路傍にあった墓石が撤去されることになり、
それを不憫に思った先々代が、
自分の屋敷内の香取神社の脇に移設したのだという。

共同墓地にも入れてもらえず、
道路わきにポツンと取り残されていた光景に、
「絶えてしまった家」ならではの無念さ、寂しさを感じます。
平成九年発行の「幸手市史」によると、
平須賀の戸数はわずか「145戸」。
外郷内は六つある集落のうちの一つだから、戸数はさらに少ないはず。
ここへ移設したM家の先々代は、事情をよくご存じだったに違いない。
でも今はもう知る人もなく、M家の奥さまでさえ、
「天明とか明和とか書いてあるけど、どこのだれのだかわからない」と。
そこで墓石の前の花台を動かしたら、出て来たんです。
「間宮氏」とくっきり。
奥さま、思わず「へぇ~!」

この墓石には、宝永三年(1706)から寛政十年(1800)の94年間の年号と、
13人の戒名が刻まれていた。
この一世紀にも及ぶ年月には、
本因坊察元も間宮昌仙先生も、力石を奉納した間宮左門も存在していた。
でもこの墓石は、「幸手市の石造物調査報告書」に掲載されてはいなかった。
墓石の4面にびっしり刻まれた間宮家の人々です。

だれもが、「絶えてしまった家」と言ったけれど、
不思議にも、4か所ある墓所のどこもきれいに整備されていた。
花を手向けたり板塔婆を納めたりもしていた。
消えてしまった一族を地元の方々が手厚く祀っている。
今もみんな繋がっているんだと思いました。
力石に刻まれた間宮左門さんが間宮家の一族だったのか、
一族だとしてもどんな地位にあったかはわからずじまいになったけれど、
私は地元の方々のこうした優しさに触れることができた。
それだけで充分だと思いました。
※参考文献「幸手市史 民俗編」生涯学習課市史編さん室 平成9年
ーーーーー◇ーーーーー
高島先生ブログ(12・8)
「岐阜県郡上市大和町古道・白山神社」
出ました! 大江誉志氏の登場です。
当事者ならではの大江ご夫妻の俳句が紹介されています。
美男美女のお二人、本当に素敵なカップルです。
また私がお会いしたもう一人の力持ちに浪速の長州力さんがいます。
体力、年齢の限界まで挑み、
ずっと力の人生を歩んでこられた浪速の長州力さんは、
ご夫妻共に力持ち大会へ出場という、これまた息の合ったお二人です。
関西へ出かけた折には大変お世話になりました。
その浪速の長州力さんと大江誉志さんのご活躍の様子を、
「力持ち大会」
で、ぜひご覧ください。

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幸手市郷土資料館の学芸員さんも、地元の方も、
菩提寺だった宝聖寺のご住職も、みんなそう言った。
「絶えてしまった家」
なんて悲しい響きだろうと思った。
明治期の地図には存在のマークがはっきりついていたのに…。
その間宮家の4番目の墓所は意外なところにあった。
ここです。鳥居の扁額に「香取神社」とあります。

この神社は明治44年の合祀で消えたはずなのに、と思っていたら、
「幸手市史」にこうありました。
「外郷内の氏神だった香取神社がなくなってしまったため、代わりに、
そのころ神社総代をしていたM家の屋敷神だった香取神社を
屋敷の内側から表に出し、株(外郷内株)で祀ることになった」
時の権力者から神社統合を強制されて、集落の氏神は消滅したけれど、
氏子には今まで通りの精神的な拠り所が必要だったんですね。
※平須賀村は六つの集落の集合体で、集落ごとに「株」と呼んでいた。
さて、
地元の方からM家の現・当主がここでは一番の長老だと聞いて、
早速、訪問した斎藤氏、そこでM家の奥さまからこんな話を聞いた。
「先々代はこんな墓石もここに移したの」
なんと、神社の庭に墓石が…。
それを見た瞬間、斎藤氏は「もしや、間宮家のでは」と思ったという。
奥さまの話では、昭和55年(1980)ごろ、
道路の拡張整備で路傍にあった墓石が撤去されることになり、
それを不憫に思った先々代が、
自分の屋敷内の香取神社の脇に移設したのだという。

共同墓地にも入れてもらえず、
道路わきにポツンと取り残されていた光景に、
「絶えてしまった家」ならではの無念さ、寂しさを感じます。
平成九年発行の「幸手市史」によると、
平須賀の戸数はわずか「145戸」。
外郷内は六つある集落のうちの一つだから、戸数はさらに少ないはず。
ここへ移設したM家の先々代は、事情をよくご存じだったに違いない。
でも今はもう知る人もなく、M家の奥さまでさえ、
「天明とか明和とか書いてあるけど、どこのだれのだかわからない」と。
そこで墓石の前の花台を動かしたら、出て来たんです。
「間宮氏」とくっきり。
奥さま、思わず「へぇ~!」

この墓石には、宝永三年(1706)から寛政十年(1800)の94年間の年号と、
13人の戒名が刻まれていた。
この一世紀にも及ぶ年月には、
本因坊察元も間宮昌仙先生も、力石を奉納した間宮左門も存在していた。
でもこの墓石は、「幸手市の石造物調査報告書」に掲載されてはいなかった。
墓石の4面にびっしり刻まれた間宮家の人々です。

だれもが、「絶えてしまった家」と言ったけれど、
不思議にも、4か所ある墓所のどこもきれいに整備されていた。
花を手向けたり板塔婆を納めたりもしていた。
消えてしまった一族を地元の方々が手厚く祀っている。
今もみんな繋がっているんだと思いました。
力石に刻まれた間宮左門さんが間宮家の一族だったのか、
一族だとしてもどんな地位にあったかはわからずじまいになったけれど、
私は地元の方々のこうした優しさに触れることができた。
それだけで充分だと思いました。
※参考文献「幸手市史 民俗編」生涯学習課市史編さん室 平成9年
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高島先生ブログ(12・8)
「岐阜県郡上市大和町古道・白山神社」
出ました! 大江誉志氏の登場です。
当事者ならではの大江ご夫妻の俳句が紹介されています。
美男美女のお二人、本当に素敵なカップルです。
また私がお会いしたもう一人の力持ちに浪速の長州力さんがいます。
体力、年齢の限界まで挑み、
ずっと力の人生を歩んでこられた浪速の長州力さんは、
ご夫妻共に力持ち大会へ出場という、これまた息の合ったお二人です。
関西へ出かけた折には大変お世話になりました。
その浪速の長州力さんと大江誉志さんのご活躍の様子を、
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