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墓石が伝えるもの

消えた間宮一族
12 /05 2020
「消えた間宮一族」、そろそろ終盤に近付きました。

人さまのことを根掘り葉掘り。ごめんなさいね。
でも田んぼの中に墓石が散乱していたと聞いたとき、父の実家と重なって。

私の父の実家は、
戦後、最後の当主が没して、東京在住の娘夫婦が相続したけれど、
関西在住の息子の代で墓じまい。

その折、
江戸初期からの年号のついた墓石群はかたわらに放置されたと聞いた。

今は亡き父と墓参した折、父が墓地の隅に並んでいた小さな石枕を指して、
「門前によく捨て子があってね。衰弱していて育たなかったんだ」と。

そういう赤ん坊を墓地の傍らに葬って、小さな石を乗せたという。

墓じまいから40年近くたった一昨年、
市が放置されたままの墓石の処置に困っていると人づてに聞いた。

下の写真は、子供の供養のための石仏です。

「本因坊九世察元」が囲碁界で隆盛を極めていた頃の建立で、
察元の兄・又左衛門が間宮家の当主だった頃のものです。

「妙相童子 㚑 安永六(1777)酉十二月二十四日 間宮氏」
間宮家宝聖寺
幸手市平須賀・宝聖寺・間宮家墓所

今回、「左門」銘の力石から、はからずも間宮家の墓巡りになりました。

最初は「本因坊察元」の墓石と「左門石」がある共同墓地。
二番目は貯水槽脇の墓地。

放置されていた墓石の下を掘ったら、たくさんの墓石と人骨が出てきたので、
宝聖寺に頼んで供養してもらったとのこと。

三番目の墓所はその田んぼから出た墓石を運んだ宝聖寺にありました。

ここには貯水槽脇に保存された墓石の主「間宮昌仙先生」の娘が、
両親の菩提を弔うために建立した立派な宝篋印塔もありました。

そしてなんと、4番目の墓所が見つかったのです。

墓石は一基のみ。

この墓は以前、路傍にポツンと置かれていたそうです。


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(12・4)

「富山県下新川郡朝日町金山・日吉社合殿熊野社」

地面に置き去りにされた力石もあれば、
立派な台座に居場所を与えられた力石もあります。

どちらの石にも物語が染み込んでいますが、
それを聞いてくれる人がいなければ、ただの石に還っていきます。

人も石も同じかも、と思う今日この頃です。


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コメント

非公開コメント

No title

「ストーンと落ちて故なき力石」
いまや持ち上げる人がいない力石は、持ち上げた人たちがいたと言われても実感がわかない。
実生活から離れた遠い存在となった感が有ります。

素姓乱雑さんへ

答えになるかどうかわかりませんが、私の思いを…。

私も最初は「過去の遺物」「滅びゆくもの」と冷ややかに見ていましたが、この目鼻もないただの石っころにとてつもない歴史が流れていたことを知り、興味を持つようになりました。

石には神が宿る→石占い→武将の力の誇示→庶民の娯楽→若者組織への入門試験や就職・賃金の多寡を決める道具としての石→見世物としてのプロの誕生→流通経済との関わり→力石からバーベルへとスポーツとして確立。

もう実生活に役立たないからこそ、この「非文字文化」を「文字文化」に転換して残すことが重要だと考えています。それを実践し、各地方の在野の研究者の協力のもと、全国の力石の歴史、体験者談、写真を集大成したのが元・四日市大学の高島愼助教授です。

国立国会図書館に全書籍が、そして長年集めた調査資料のすべてを三重県総合博物館が収蔵。「こんなマイナーなものを」と嘲笑されながらも、生涯をかけて信念を貫いた高島先生のこの努力は、必ず後世に活かされると思っております。

とまあ、いつになく熱弁をふるってしまいましたが、過去を知って今を知り、未来を見据える、どんなものにも言えますが、力石もそういうとらえ方をしております。

素姓乱雑さんへ

書き忘れました。

ストーンと石を掛けた含蓄ある俳句、うまい!
いただきました。
力石への私の思いも、ストーンと腑に落ちましたでしょうか(笑)

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞