数奇な運命
消えた間宮一族
幸手市平須賀村は、川の古い流路跡に発達した村で、
こんなふうに弓なりの形をしていたそうです。
村の内円と外円は低湿地帯で、
弓なりになった内円部には平須賀沼があった。
「幸手市史」によると、この沼は万治元年(1658)に開発されて、
そこに「神扇村」という枝郷ができたとのこと。

「幸手市史通史編1」より
本村も順次開発されていったが、
「外郷内は最も遅く開けたものと想像する」とありますから、
農地として機能し始めたのも一番最後かと思います。
で、私、「あれっ?」と思ったんです。
貯水槽工事で発見されたあの田んぼの中の、
「間宮家墓所」の宝篋印塔は正保二年(1645)です。
もっとも遅く開発された外郷内なのに、
この石塔は、
この地の開発に着手した万治元年より13年も古い。
どういうことなんだろうって。

「外郷内(そとごうち)とは、内郷に対する外郷」
という意味だそうですから、村はずれの荒れ地。
そこに間宮家は居を構えていたことになります。
湿地帯の荒れ地で、一族郎党が食べていくには大変だったはず。
そう考えたとき、
「杉戸町の地名・地誌」の著者のこの記述が本当のように思えてきた。
「北条氏滅亡で間宮家は外郷内に土着し、二男が下高野に分家した」
分家して活路を別に見出したとしても不思議ではない。
沼の開発着手の13年も前に建立した宝篋印塔。
百姓として土着した苦闘の中にも武士としての誇りを忘れたくない、
そんな思いが、
この石塔にも土地に沁み込んでいるように思えてなりません。
その跡地で斎藤氏は地元の方からこんな話を聞いた。
「昭和五十四年(1979)、生垣で囲まれた共同墓地の生垣を取り払い、
ブロックとコンクリートで改装した際、
間宮左門と刻んだ石が出てきた」
航空写真をご覧ください。

時系列地形図閲覧サイト 埼玉大学教育学部・谷謙二(人文地理学研究室)
左端の赤い四角は香取神社があった場所。
黄色い丸は「共同墓地」。
右端の緑の丸は「貯水槽脇の間宮家墓所」
※小さい緑の丸は私の書き間違いです。
大きな赤い四角は「間宮家跡地」
明治期の地図では間宮家の屋敷地は、香取神社の脇まで広がっていたから、
元はかなり広大な屋敷地だったと思います。
また、貯水槽あたり一帯も、間宮家の土地であったかもしれません。
なぜなら、かつては自分の土地に、
最初のご先祖を埋葬して守護神にする風習がありましたから。
こちらは共同墓地から見た「貯水槽脇の間宮家墓所」(赤丸)です。

それにしても、「左門石」は、数奇な運命をたどったものです。
刻まれた年号や証言から、こんなことがわかってきました。
今から225年前の寛政七年(1795)、間宮左門によって香取神社に奉納。
116年後の明治四十四年(1911)に香取神社が取り壊されて、
ほかの力石と共に共同墓地の土台石に転用された。
それから68年後の昭和五十四年(1979)に土中から掘り出された。
刻字があったため廃棄をまぬがれ、共同墓地の焼却炉脇へ運ばれた。
それから焼却炉の炎に焼かれること40年余り。

せめて、同族と思われる
「本因坊・間宮察元」の墓石のそばに置いてやりたい、
と思うのは人情です。
「寛政七乙卯六月吉日
奉納 三十五貫目 外郷内 間宮左門」
この左門石を見続けてきた斎藤氏、こんな思いを吐露。
「察元墓石(墓碑)と左門力石は、時を経ても同じ場所に存在し続けてきた。
この奇跡に、激しい浪漫を感じざるを得ません」
そして斎藤氏も私も願うことは同じ。
「本因坊察元墓石」に与えた「幸手市有形文化財」の称号を、
この力石にも与えてくださったなら、新たな郷土史が生まれ、
消えた間宮一族のさらなる名誉挽回にもなる」と。
※参考文献/「幸手市史通史編1」生涯学習課市史編さん室
幸手市教育委員会 平成14年
/「杉戸町の地名・地誌」鈴木薫 私家本 平成5年
ーーーーー◇ーーーーー
高島先生ブログ(11・30)
「福井県坂井市三国町滝谷・吉田宅」
北陸地方では力石を「ばんもち石」「ばんぶち石」などと呼んでいます。
高島先生が調査したころはまだ体験談を聞くことができたから、
エピソードがたくさん残っています。
そんな話を二つ三つ。
「うっかりバンモチ石に腰かけたら、さあ大変。
あんちゃん、覚えがあるんやろな。さあ、その石、担いでもらおうかとなる」
「バンモチ石には武勇談から嫁探し、近隣若い衆との交流など、
当時の暮らしが染み込んでいた。しかしその愛すべき石は、
名誉あるバンモチ石からただの石ころになって半世紀を経た。
世の中は動いているなぁ」
「ぜいたくとおごり戒(いまし)むこの石の 尊き教え忘れざらまし」

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こんなふうに弓なりの形をしていたそうです。
村の内円と外円は低湿地帯で、
弓なりになった内円部には平須賀沼があった。
「幸手市史」によると、この沼は万治元年(1658)に開発されて、
そこに「神扇村」という枝郷ができたとのこと。

「幸手市史通史編1」より
本村も順次開発されていったが、
「外郷内は最も遅く開けたものと想像する」とありますから、
農地として機能し始めたのも一番最後かと思います。
で、私、「あれっ?」と思ったんです。
貯水槽工事で発見されたあの田んぼの中の、
「間宮家墓所」の宝篋印塔は正保二年(1645)です。
もっとも遅く開発された外郷内なのに、
この石塔は、
この地の開発に着手した万治元年より13年も古い。
どういうことなんだろうって。

「外郷内(そとごうち)とは、内郷に対する外郷」
という意味だそうですから、村はずれの荒れ地。
そこに間宮家は居を構えていたことになります。
湿地帯の荒れ地で、一族郎党が食べていくには大変だったはず。
そう考えたとき、
「杉戸町の地名・地誌」の著者のこの記述が本当のように思えてきた。
「北条氏滅亡で間宮家は外郷内に土着し、二男が下高野に分家した」
分家して活路を別に見出したとしても不思議ではない。
沼の開発着手の13年も前に建立した宝篋印塔。
百姓として土着した苦闘の中にも武士としての誇りを忘れたくない、
そんな思いが、
この石塔にも土地に沁み込んでいるように思えてなりません。
その跡地で斎藤氏は地元の方からこんな話を聞いた。
「昭和五十四年(1979)、生垣で囲まれた共同墓地の生垣を取り払い、
ブロックとコンクリートで改装した際、
間宮左門と刻んだ石が出てきた」
航空写真をご覧ください。

時系列地形図閲覧サイト 埼玉大学教育学部・谷謙二(人文地理学研究室)
左端の赤い四角は香取神社があった場所。
黄色い丸は「共同墓地」。
右端の緑の丸は「貯水槽脇の間宮家墓所」
※小さい緑の丸は私の書き間違いです。
大きな赤い四角は「間宮家跡地」
明治期の地図では間宮家の屋敷地は、香取神社の脇まで広がっていたから、
元はかなり広大な屋敷地だったと思います。
また、貯水槽あたり一帯も、間宮家の土地であったかもしれません。
なぜなら、かつては自分の土地に、
最初のご先祖を埋葬して守護神にする風習がありましたから。
こちらは共同墓地から見た「貯水槽脇の間宮家墓所」(赤丸)です。

それにしても、「左門石」は、数奇な運命をたどったものです。
刻まれた年号や証言から、こんなことがわかってきました。
今から225年前の寛政七年(1795)、間宮左門によって香取神社に奉納。
116年後の明治四十四年(1911)に香取神社が取り壊されて、
ほかの力石と共に共同墓地の土台石に転用された。
それから68年後の昭和五十四年(1979)に土中から掘り出された。
刻字があったため廃棄をまぬがれ、共同墓地の焼却炉脇へ運ばれた。
それから焼却炉の炎に焼かれること40年余り。

せめて、同族と思われる
「本因坊・間宮察元」の墓石のそばに置いてやりたい、
と思うのは人情です。
「寛政七乙卯六月吉日
奉納 三十五貫目 外郷内 間宮左門」
この左門石を見続けてきた斎藤氏、こんな思いを吐露。
「察元墓石(墓碑)と左門力石は、時を経ても同じ場所に存在し続けてきた。
この奇跡に、激しい浪漫を感じざるを得ません」
そして斎藤氏も私も願うことは同じ。
「本因坊察元墓石」に与えた「幸手市有形文化財」の称号を、
この力石にも与えてくださったなら、新たな郷土史が生まれ、
消えた間宮一族のさらなる名誉挽回にもなる」と。
※参考文献/「幸手市史通史編1」生涯学習課市史編さん室
幸手市教育委員会 平成14年
/「杉戸町の地名・地誌」鈴木薫 私家本 平成5年
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高島先生ブログ(11・30)
「福井県坂井市三国町滝谷・吉田宅」
北陸地方では力石を「ばんもち石」「ばんぶち石」などと呼んでいます。
高島先生が調査したころはまだ体験談を聞くことができたから、
エピソードがたくさん残っています。
そんな話を二つ三つ。
「うっかりバンモチ石に腰かけたら、さあ大変。
あんちゃん、覚えがあるんやろな。さあ、その石、担いでもらおうかとなる」
「バンモチ石には武勇談から嫁探し、近隣若い衆との交流など、
当時の暮らしが染み込んでいた。しかしその愛すべき石は、
名誉あるバンモチ石からただの石ころになって半世紀を経た。
世の中は動いているなぁ」
「ぜいたくとおごり戒(いまし)むこの石の 尊き教え忘れざらまし」

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