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賭博だった

碁や将棋といえば、
才能豊かな棋士たちの頭脳ゲーム、ということくらいしか知らなかった私。

幸手市の共同墓地に置かれた力石から、
本因坊察元なる人物を知って、慌ててにわか勉強です。

まず驚いたのが、これ。

「中世には碁、将棋だけでなく、連歌、茶、香すべてが賭博であった。

そして天皇を始め貴族、僧侶たちはその「懸け物」として、
砂金や刀剣、花瓶や帯などを賭けて勝負していた。

彼らは銭を賭けて遊ぶのは当然であって、
「決して下品なこと」とは考えていなかった」(増川宏一)

というのだから驚いた。

先ごろ賭けマージャンで話題になった元・検事さん、
生まれる時代を間違えちゃったのかも。

ま、考えてみれば人生すべからく「ばくち」かも、
なんて思っちゃったりして。

開催が危ぶまれる「東京五輪」も、イチカバチカの状態だし、
出場選手は勝負師のごとしだし。

この先、日本国がスッテンテンにならないことを祈るのみ。

img20200819_11143544 (4)

さて、盤上遊戯の代表格の碁と将棋は、
京都の上流階級や寺院から富裕商人などの町衆へと広がり、
やがてその中から遊戯の「上手」が出現。

江戸時代になると、「上手」の碁4家、将棋3家は、
遊芸師として京都から江戸へ移住させられ、

幕府から扶持をいただく「公務員」(御用達町人)
として遇されるようになったそうです。

ただし身分は、遊芸師の最高位にある能楽師よりずっと下。

お城で、
能楽師に出される料理の「三汁十一菜に茶菓子四品と後菓子五品」に対し、
碁打ち・将棋指しは、「二汁五菜にミカンと柿に濃茶」といった具合。
  ※ただし、これでも大変豪華なごちそうだったとか。

で、碁打ちたちは始終格上げを狙い、
「足にタコができて痛いので、夏も足袋をはかせてください」
などという願書きを毎年、管轄の寺社奉行に提出していたという。

ちなみに江戸時代は「賭博禁止」。

でもわが郷土の清水次郎長さんは正真正銘の博奕打ちだったし、
田舎のお寺には賭場として貸した隠し部屋が今も残っているし、
「寺銭」なんて言葉もあったしね。

もちろん、察元さんは賭博とは無縁です。

察元は宝暦四年(1754)、21歳で家督を継いで本因坊になった。

それから9年後の、
城へ上がるお目見えのために書いた氏素性の明細書きが残っている。

住所は代々の本因坊の拝領屋敷で、
本所二ツ目相生町弐丁目(現・東京都墨田区両国3丁目5-7)。

察元、このとき30歳。すでに父親の間宮又左衛門は死去していた。

本因坊になった察元の権勢を誇る振る舞いが、また凄い。
これは次回に。

img20200819_11143544 (5)

「遊芸師の誕生」「碁打ち・将棋指しの江戸」の著者・増川氏の、
以下の言葉は重い。

「中世の夥しい芸能史、生活史の研究が発表されているが、
碁・将棋の研究は皆無といえる状況である。

資料が乏しいというのが最大の理由ではあるが、
碁・将棋は趣味であって学問の対象にはならないという
暗黙の了解があったのであろうか。

それとも博奕と密接な下賤の芸とみなされていたのであろうか。
アカデミズムの狭さといえるかもしれない」

力石研究と一脈通じるものがありますが、

しかし、同じ「石」でも、力石はすでに人の手を離れた「石」。

職業として成り立ち、ますます隆盛を極める碁・将棋に比べて、
力石は完全に過去の「遊芸」になってしまい、
この先、再び人々の手に戻ることは難しい。

まさに学芸員さんたちが言う「マイナーなもの」でしかないのだが、

それでも後世に伝えていく意義がどこかにあるはずと、
私は信じているのです。


※参考文献/「遊芸師の誕生ー碁打ち・将棋指しの中世史」
         増川宏一 平凡社 1987
        /「碁打ち・将棋指しの江戸」増川宏一 平凡社 1998
/「徳川時代の囲碁界を知る―本因坊家と碁所旧記を読み解く」 
         秋田昇一 誠文堂新光社 2019


      ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(8・22)
「東京都台東区浅草・浅草寺③」

突然、師匠のブログ、更新が途絶えて音信不通に。
さては畑仕事中、背後からクマに襲われたか!
と思っていたら、
「パソコンの故障です」って。

どうやら復活したようで、一安心です。

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こんばんは

我々の子供時代には、街頭で詰将棋をしていて、
子どもなので賭けることはしませんが、
1手いくらとか、で、絶対に詰まない仕組みだとか。
素人の将棋天狗が引っかかっていました。

社会人になって、囲碁でも賭けていました。
当時は寮生活で暇つぶしですけれど、
碁はやはり強いものが勝ちます。
1目1円でも、50年ほど前ですから、
何度も負けるとそれなりの金額に。
向こうは、あれこれと画策して、
私が大きく負けるように仕向けてました。

まあ、ゴルフも麻雀同様に賭博ですが・・・・
要は賭けなければ、面白くない競技だから。

one0522さんへ

one0522さん、囲碁が強かったんですね。
私が働いている生涯学習施設は小学校の空き教室を利用した施設(使用料無料)ですが、麻雀のグループが3団体も利用していて、「酒タバコは飲まない。お金は賭けない」という申請書を出して利用しています。

隣りで小学生が勉強しているのに、大人たちが昼間からジャラジャラと遊んでいていいのかなあと思いましたが、管理者の教育委員会は「碁や将棋はよくて麻雀はダメとはいえない」と。   

で、来館した人たちから「学校の施設で麻雀とは」と抗議されたので「賭けをしない健康麻雀だそうです」と言ったら、「賭けない麻雀なんてありえない。おもしろくもなんともないじゃないか」と笑われてしまいました。

私にはその是非はわかりません。でも普通の有料施設ならともかく学校の無料施設ですから、やっぱり本当にいいんだろうかという思いは消えません。私の考えが古いのかもしれませんが。   

句会も貝覆いも賭博だったそうです

私はショックだったのですが、美しい絵を描いた貝を合わせる貝覆いでは、姫達が絵巻物を賭け、句会は賭博に形を変えて大流行し、幕府が禁令を出したそうです。
また、けん玉は、負けた方が酒を飲む宴会の盛り上げツールだったとか。、「嬉遊笑覧」に書いていました。
皆さん、ギャンブル好きです。
私のブログですが、ご参考までです。
https://fun-old-japan.blogspot.com/2020/04/kiyu-shouran-entertainment-encycl-part-1.html

Yukioさんへ

コメントありがとうございます。

ブログ、楽しく拝見しました。
江戸時代と明治以降は、同じ日本人とは思えないほど変わりました。近代化を急ぐあまり、大切なものを失ってしまったような気がします。


俳聖芭蕉にしても、「前途3千里の思いに胸塞がりて、幻の巷に離別の涙を注ぐ」などといっているけれど、その実体は各地で芭蕉先生、大歓迎の優雅な旅。そして土地の名士や豪農豪商に迎えられての連句の会。そこで賭け事をしていたとなるとイメージがだいぶ違ってきます。

中世の貴族たちの「銭を賭けても下品と思わない」という考え方に驚きましたが、それが「下品なもの」に変わっていった思考の変遷を探るのも面白いなあと思ったりしています。
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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