弥五郎のおまけ
古文書や石碑では、しばしば判読不能な文字に出くわします。
昔の人が書いたのだからとか、偉い学者のお説だからと鵜呑みにして、
何とか理解しようとするものの、結局、解決できず。
神明神社の弥五郎石にも、そんな「珍字」がありました。
これです。

千葉県野田市上花輪・神明神社
もうおわかりかと思いますが、「矢向」の「矢」の部分です。
「失」になっちゃってます。
これは「失礼しました」というわけで、まあ、この程度はお愛嬌。

で、何を言いたいかというと、こういう事例に出くわしたら、
権威などにとらわれず、想像力を働かせてね!
ということなんです。
また、力石をアップしてくださる「へいへいさん」も「とりけらさん」も、
石の刻字(切付け)が読めなくて、四苦八苦した経験があるかと思います。
そんなときは石に水をかけると文字が浮き上がってきます。
雨の日にはっきり見えるでしょう。それと同じ。
これ、斎藤氏の直伝。
もう一つ、お見せします。
重箱の隅をつつくみたいで心苦しいですが、
間違いは間違いなので…。
千葉県「印西町の歴史」の調査資料「仙助河岸」を読んでいたら、
「あれ?」という個所がでてきました。
資料そのものは、
河岸に残る船頭たちの足跡を丹念に追った貴重な記録です。
もちろん、船頭たちが奉納した力石も出てきます。
ですが、あきらかに間違った部分がありました。
大阪市の住吉大社にある常夜灯の判読です。
その常夜灯に刻まれていた文字がこちら。

大阪市住吉区・住吉大社
著者は、
「住吉大社にある常夜灯の中に、
江戸の干鰯問屋たちの奉納したものがある」と書き、
続けて、
大阪の干鰯仲間が奉納した常夜灯を取り上げています。
実際、住吉大社まで出かけたようです。
しかし、
上部3文字のうちの向かって左の文字を「ば」と誤読、
さらに「うつば」と解釈してしまい、こう述べています。
「大阪のうつば干鰯仲間」の「うつば」とは「うつ場」のことで、
「干鰯場」を意味する、と。
これ、
「本」という漢字に点々を打って「ぼ」と読ませている「かなもじ」で、
「うつば」ではなく、「うつぼ」なんです。
で、「うつぼ」は「靭」で、
大阪にあった「一大海産物市場」の地名です。
ちなみに「干鰯」は「ほしか」で、当時の貴重な肥料でした。
ですから、
この常夜灯を奉納したのは、「靭市場の干鰯商人たち」ということになります。

話変わって、
大阪歴史博物館のHPに、こんな記事が載っていました。
「大阪相撲の藤島部屋は、
靭の干鰯市場と関係が深い「靭部屋」から派生した相撲部屋の一つで、
干鰯市場で働く仲士たちと密接な関係を有していた」
そんな仲士の一人でしょうか。
靭市場の力持ちの石上げが千社札に描かれています。
右下に、「明治維新永代浜力競」とあります。
「永代浜」は荷上げ場で、靭市場の中心地でした。
千社札にも「うつぼ」の文字があります。
赤フンがチラッ。

ブログ「神奈備にようこそ」に面白い記事が載っていました。
干鰯(ほしか)仲間が常夜灯を奉納したあの住吉大社についてです。
「住吉大社の人形祭りは大阪の夏の風物詩であったが、
人形の材料はすべて塩干魚類で、それに海藻やスルメなどを飾り付けた。
そのため特有な臭気が漂い、
ハエがたくさん集まってもの凄いことになった。
人々は団扇(うちわ)でハエを追いながら練り歩いた」
やだやァ、
ハエと一緒くたァじゃ、「やぶせったくて」しょんないに。
ふんだけんが、
大阪ン衆の「おだっくい」ぶりは、
うちっちら静岡人の上いってるだんて、いみゃーましいやァ。
※参考文献/「印西町の歴史 第六号」千葉県・印西町町史編さん室 平成2年
/大阪歴史博物館HP「小林佐兵衛興行の寄付大相撲の
案内書と入場券」平成20年3月5日~4月7日に展示
/ブログ「神奈備にようこそ」「やすやす靭物語・魚市場編」

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昔の人が書いたのだからとか、偉い学者のお説だからと鵜呑みにして、
何とか理解しようとするものの、結局、解決できず。
神明神社の弥五郎石にも、そんな「珍字」がありました。
これです。

千葉県野田市上花輪・神明神社
もうおわかりかと思いますが、「矢向」の「矢」の部分です。
「失」になっちゃってます。
これは「失礼しました」というわけで、まあ、この程度はお愛嬌。

で、何を言いたいかというと、こういう事例に出くわしたら、
権威などにとらわれず、想像力を働かせてね!
ということなんです。
また、力石をアップしてくださる「へいへいさん」も「とりけらさん」も、
石の刻字(切付け)が読めなくて、四苦八苦した経験があるかと思います。
そんなときは石に水をかけると文字が浮き上がってきます。
雨の日にはっきり見えるでしょう。それと同じ。
これ、斎藤氏の直伝。
もう一つ、お見せします。
重箱の隅をつつくみたいで心苦しいですが、
間違いは間違いなので…。
千葉県「印西町の歴史」の調査資料「仙助河岸」を読んでいたら、
「あれ?」という個所がでてきました。
資料そのものは、
河岸に残る船頭たちの足跡を丹念に追った貴重な記録です。
もちろん、船頭たちが奉納した力石も出てきます。
ですが、あきらかに間違った部分がありました。
大阪市の住吉大社にある常夜灯の判読です。
その常夜灯に刻まれていた文字がこちら。

大阪市住吉区・住吉大社
著者は、
「住吉大社にある常夜灯の中に、
江戸の干鰯問屋たちの奉納したものがある」と書き、
続けて、
大阪の干鰯仲間が奉納した常夜灯を取り上げています。
実際、住吉大社まで出かけたようです。
しかし、
上部3文字のうちの向かって左の文字を「ば」と誤読、
さらに「うつば」と解釈してしまい、こう述べています。
「大阪のうつば干鰯仲間」の「うつば」とは「うつ場」のことで、
「干鰯場」を意味する、と。
これ、
「本」という漢字に点々を打って「ぼ」と読ませている「かなもじ」で、
「うつば」ではなく、「うつぼ」なんです。
で、「うつぼ」は「靭」で、
大阪にあった「一大海産物市場」の地名です。
ちなみに「干鰯」は「ほしか」で、当時の貴重な肥料でした。
ですから、
この常夜灯を奉納したのは、「靭市場の干鰯商人たち」ということになります。

話変わって、
大阪歴史博物館のHPに、こんな記事が載っていました。
「大阪相撲の藤島部屋は、
靭の干鰯市場と関係が深い「靭部屋」から派生した相撲部屋の一つで、
干鰯市場で働く仲士たちと密接な関係を有していた」
そんな仲士の一人でしょうか。
靭市場の力持ちの石上げが千社札に描かれています。
右下に、「明治維新永代浜力競」とあります。
「永代浜」は荷上げ場で、靭市場の中心地でした。
千社札にも「うつぼ」の文字があります。
赤フンがチラッ。

ブログ「神奈備にようこそ」に面白い記事が載っていました。
干鰯(ほしか)仲間が常夜灯を奉納したあの住吉大社についてです。
「住吉大社の人形祭りは大阪の夏の風物詩であったが、
人形の材料はすべて塩干魚類で、それに海藻やスルメなどを飾り付けた。
そのため特有な臭気が漂い、
ハエがたくさん集まってもの凄いことになった。
人々は団扇(うちわ)でハエを追いながら練り歩いた」
やだやァ、
ハエと一緒くたァじゃ、「やぶせったくて」しょんないに。
ふんだけんが、
大阪ン衆の「おだっくい」ぶりは、
うちっちら静岡人の上いってるだんて、いみゃーましいやァ。
※参考文献/「印西町の歴史 第六号」千葉県・印西町町史編さん室 平成2年
/大阪歴史博物館HP「小林佐兵衛興行の寄付大相撲の
案内書と入場券」平成20年3月5日~4月7日に展示
/ブログ「神奈備にようこそ」「やすやす靭物語・魚市場編」

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