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□□□月日

歴史を塗りかえた発見!
11 /28 2019
待ちに待った許可書が届きました。

県外からのお願いに加え、
世間の片隅に転がっているだけの「石ころ」ブログへの掲載許可。

感謝しかありません。ありがとうございました。



img20191127_14022083 (2)



さて、本題です。

立派な式典を挙げ、新聞や広報誌にも掲載された「万治石」

このおめでたい出来事に水を差すようで心苦しいですが、
まだ刻字の解読が残っております。

「明治」が「万治」になったんだから、それでヨシとしようじゃないか、
という声ももっともです。

ですがやっぱりね、けじめですから、どうぞお許しください。

  「  万治四年
   奉納力石五十六メ目ョ」

これはどなたも異存がない。

問題は左の刻字です。

拓本です。
IMG_1006-1.jpg

2017年の段階で関係者はそれぞれこう読みました。

① 「丑ノ五月日」

② 「吉三月日」

 「辛丑月日」

詳しくは当時のブログ記事をご覧ください。

万治石・最終回です」

これに対して、
当地の古文書会の先生お二人にご意見を伺いました。

T先生  「「吉」「丑」とするのはやや苦しい
      また「辛」と読むには、下部の十が見えない
      月日には「〇月日」のように数字が入ると思う」

N先生  「三案の解読では「辛丑月日」がもっとも無難だと思いますが、
       ただ「辛」の字、写真でも拓本でもです。

     「丑ノ五月日」については、なるほど「ノ」とある如く見えますが、
       しかし、こういう書き方は文書にはよくありますが、
       碑文に「ノ」字を書くのはやや不審

というわけで結論は出ませんでした。

※ 斎藤氏の調べでは、カタカナの「ノ」は、力石の場合、 手持ちの全国の
   「〇〇の力石」には皆無」だったこともお伝えしておきます。
  
決め手となる解読はできませんでしたが、  
でも、がっかりすることはありません。
もともとの刻字に誤りがあることもママあるからです。

こちらは同じ「万治四年」の誤記とおぼしき例です。

img20191119_19135021 (2)

これは平成元年、福岡県久留米市の三本松町遺跡から出土した
「色絵鳳凰文器台」です。

右側の余白部分に赤色で文字が書かれています。

これです。
img20191119_19135021 (4)


「万治四年己丑八月吉日」

あきらかに、干支の「己丑」「八月」は間違っています。

なぜなら、万治四年の干支は「己丑」ではなく「辛丑」ですし、
この年の4月に寛文に改元されていますから、「八月」はあり得ないからです。

このことについて、
久留米市教育委員会・文化財保護課ではこのように解説しています。

「万治四年の四月には寛文に改元されていますので、
改元以前に特別に注文された贈答品と推測されます。

また万治四年の干支は「辛丑(かのとうし)」なので、
「己丑(つちのとうし)は誤って記されているようです」

こうしたことから、今上八幡神社の「万治石」も、
改元以前に注文を受けて「五月日」と刻んでしまったと推測できるし、
または誤記ということも考えられます。

今回、地元では「丑ノ五月日」を採用しましたが、
私はこんなふうに思いました。

「万治石」の、
「万治四年」ゆるぎない事実ですから、
左の刻字は解読不能として、

「□□□月日」と記録するのも選択肢の一つではなかったか、と。


※参考文献・写真提供/「歴史散歩・年号のある遺物とその遺跡」№6
               久留米市教育委員会・文化財保護課・
               市埋蔵文化財センター・久留米文化財収蔵館
※拓本提供/石田年子(野田市文化財保護審議会委員・金石文研究者)
        /今上中組自治会


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞