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なんで「文治二年」なんだろう

三重県総合博物館
10 /11 2019
小石川の連句の席で、嵐雪が「麻布の寝覚め…」と詠んだ。

それを受けて其角が、「いなりの鳥居…」と続けた。

そこで麻布にある稲荷神社をさがしてみたら、三社見つかった。
前回、ご紹介したのがその神社です。

三番目の霞山稲荷大明神かも、と色めき立ちましたが、
どこをつついても力石は霞みに隠れて出てこない。

朝もやの向こうでおキツネさんに笑われてしまいましたが、
手を突っ込んだ手前、今さら引けません。

難関突入です。ちょっとオーバー(笑)

其角ゆかりの三囲(みめぐり)神社の柔和なおキツネさん。
CIMG0916_20191011150550595.jpg  CIMG0917_20191011145757c00.jpg
東京都墨田区向島

其角の「いなりの鳥居」を受けて、次の才丸はこう詠んだ。

   「文治二年のちから石もつ」

それらを「芭蕉全集」の校注者はこう解釈した。

「麻布あたりの朝の景。
ちから石は持ち上げて力試しをする石。社頭に多い。
(だから才丸は、其角が詠んだ)鳥居を古い稲荷社のものとした」

句の場所が「麻布の古い稲荷社」というのは、
句を詠んでいけば素人の私でもわかります。

私がアレッ?と思ったのは、その年号なんです。

文治元年でも三年でもなく、はたまた、
義経の自刃や奥州の藤原氏滅亡があった文治五年でもない。

本の校注者は「文治二年」は「頼朝時代の年号」とだけ記していたけれど、
句や歌は想像でも詠むとはいえ、
「だから詳しい解釈はいらない」では困るんです。

芭蕉門下の俳人たち。
左から二人目は芭蕉と共に「奥の細道」を歩いた曽良(そら)

img20191011_14144956 (2)img20191011_14134693 (2)
「芭蕉全集」より

だって不思議じゃないですか。
「文治二年」と言い切っているのですから。

「明治は遠くなりにけり」というのと、
「明治二年は〇〇」というのとでは意味が違ってきますもの。

私は以前、ブログにこう書いた。

「文治二年」と刻字された力石は最初から存在しなかった。
ただこの年号はみんなの共通認識になっていた特別の年号のはず、と。

才丸はその年号を稲荷の古社の力石に仮託して詠んだ。

兄・頼朝に討たれた義経は、
悲劇の英雄として浄瑠璃や御伽草子で世間に広まり、
時代を越えて人気者になっていった。

だから江戸時代の武士や町人たちは、
こぞって、「義経記」や「太平記」を買い求め、読んだという。

下は「奥の細道」と奥付です。

芭蕉は500年前の義経自刃や藤原氏滅亡の地を見て一句詠んだ。

   夏草や兵(つわもの)どもが夢のあと

奥付には、「寛政元年酉年中秋再板」とあります。

img20191011_14163149 (3)img20191011_15234649 (2)
「芭蕉全集」より

その義経を思って「文治」を思い浮かべたのなら、
奥州で無念の最期を遂げた文治五年の方がわかりやすいのに、
才丸はわざわざ「文治二年」と詠みこんだ。

となると、才丸さんの脳裏に浮かんだのは、
この年、奥州への途中で頼朝に会ったあの「西行」だったんだろうか。

ほかに目を転じると、
この年にはこんなこともありました。

後白河法皇による高野山での平氏一類の怨霊しずめの大供養。
東大寺衆徒による伊勢神宮・神宮寺での平氏追善供養。

なにしろ、平家の怨霊だらけだったのですから。

そして政局が武士へと移り鎌倉時代が幕を開けた、

仏教界でも浄土宗、日蓮宗、禅宗などの新仏教が次々興り、
国家・貴族を守る仏教から民衆を救う仏教へと変わっていった。

そういう大変革の時代の幕開けが、この「文治二年」だった。

才丸はそこを言いたかったのかと。

考えすぎでしょうか。

      
     ーーーーー◇ーーーー

   
     =「弁慶鏡ケ井戸」=

  ブログ「路傍学会」会長さんの記事に、
  義経一行が奥州落ちの途次、弁慶が見つけたという井戸が出てきます。
  ぜひ、お読みください。
 
  「路傍学会」


※参考文献・画像提供/日本名著全集・江戸文藝之部第三巻「芭蕉全集」
               日本名著全集刊行会 昭和四年
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コメント

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No title

ちから姫 様
弁慶絡みで拙ブログをご紹介いただき、恐縮です。
ところで弁慶にまつわる諸物は全国にどれ程あるのでしょうね。
興味は尽きません。
 路傍学会長拝

おはようございます

会長さま、ありがとうございました。

弁慶に限らずこうした話は、巫女や聖など諸国を歩いた人や場所の数ほどあるといいますよね。だからとんでもないところに墓があったりします。

今でいうフェイスブックかツイッターみたいなものでしょうか。でも物語を持って諸国を歩いた人たちはウソ話でも、今みたいに悪意のある汚い言葉は吐かなかった。今の時代は汚い、人を貶める言葉が氾濫しているようで、いやだなあと思っています。

おはようございます

台風で静岡県の方は大雨とか。
十分にお気を付けください。

路傍学会」見ていますが、
神社・石仏などの写真が鮮明で素晴らしいです。
私の探索記録は足元にも及びません。

弁慶は、江戸時代以前から庶民に人気だったんでしょうね。
義経も人気があるので、伝説が多くあります。
歌舞伎の影響もあるようですが、弁慶は、
義経に忠実さが人気かもしれません。

近いうちに、府中の寺にも参拝したくなりました。

No title

one0522さまのところは台風、大丈夫でしょうか。

静岡市は昔、七夕豪雨に見舞われて亡くなった方がたくさん出ました。
それで早くから避難をされる方が多いです。

今夜からひどくなりそうなので気を付けたいと思っています。
被害が大きくならないよう祈るのみですね。

No title

ちから姫様
そちらでは台風の影響はいかがでしょうか。
私のブログに、昔、力石の重量はどのように測定したのか、との質問をいただきました。
竿ばかりを用いたのではないかなどの方法しか思いつきません。
力石の重量測定方法について教えて頂ければ幸いです。
 路傍学会長拝

質問、ありがとうございます

路傍学会会長さま

昔の人は米俵を日常的に担いでいて、その重さを体が覚えているということを聞きました。1俵は約16貫でしたから石を持った時、その石の重さがわかるといいます。昔の人は5俵ぐらい平気で背負っていましたから。

すべてお米が基準でしたので、升で測った重さで「五斗」とか「壱石三斗」などと刻まれた石もあります。

また石に貫目を刻むとき、実際の重さより多めに刻んだりしています。「どうだ、すごいだろう」と自慢したかったんでしょうね。

貫目に「正」とつけたものもあります。これは正味という意味で、この貫目は正真正銘の重さ、サバなど読んでいませんよというものです。石を機材で測ることはなかったと思います。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞