FC2ブログ

京へ帰りたーい!

武蔵坊弁慶といえば、
黒革威(おどし)の鎧(よろい)をまとった黒ずくめの大男。
主人の義経のためとあらば長刀を振り回して捨て身の大活躍、

のはずが、
初期の軍記物に出てくる弁慶は、ほかの従者の末尾にいて、
戦う気配さえ見せないヤワな山法師

大石を軽々持ち上げた剛の者だなんてとても思えません。

ではなぜ、ここに「弁慶石」と称する巨石があるのでしょうか?
京都市中京区・弁慶石2 (4)
京都市中京区弁慶石町

「洛中洛外の群像」の著者・瀬田勝哉氏は、
弁慶石町は江戸初期の文献にその名があることから、
石は中世のある時期、ここにあったことは明らか」

としつつも、

「でも弁慶石そのものの由来となると、そう簡単にはいかなくなる」として、
石がこの町に運ばれてきた由来を丹念に追及しています。

瀬田氏によると、その経路は二説あるという。

一つは、「弁慶腰掛石伝説」
元は鞍馬口にあって、弁慶がいつも腰かけていた石だったが、
鴨川の洪水でここへ流れ着いたというもの。

もう一つは、こんな説。

奥州へ逃げた義経主従は、藤原泰衡に裏切られて攻められた。
その主人をかばって敵の前面に立ちはだかった弁慶は、
全身に無数の矢を受け、衣川の真ん中で立往生したまま死んだ。

そのとき踏んでいた石に弁慶の魂が乗り移り、
三条京極に帰りたーい。
帰してくれなければ疫病を流行らせるぞ!」

などと声を発したため、驚いた人々の手で、
陸奥国から京都まで村送りで送られてきたという説です。

どんな方法であれ、弁慶石が入洛(京都到着)を果たしたのは、
享徳元年(1452)ごろのようで、
弁慶の死後、263年もたってからというのですから、気の長い話です。

時代はすでに室町中期。
頼朝はとっくの昔にいなくなり、はや足利氏の時代です。

石が入洛したと思われる「粟田口」(赤丸)です。
img032 (4)
上杉本「洛中洛外図屏風」

ここは洛中三条通りの東の端で、この先が鴨川です。
「粟田口」は、洛中洛外の一つでもあります。

こうした村や町の境は、
さまざまな悪霊が入り込む危険な場所と信じられていました。
だから人々は、
こういう場所に悪霊邪霊を防ぐ境の神を置いたのです。

境の神とは、道祖神や塞(さい)の神、巨大な男根などです。

こちらは境の神の一つ、
悪霊に仲の良いところを見せつけて退散させる「双体道祖神」と、
力石(左)です。

CIMG1168.jpg
静岡県富士宮市淀川町・路傍

粟田口の下方に「松の木」「弁慶石」が描かれていますが、
二つとも、ただなんとなく描いたわけではなく、
明らかに「境の神」として描いています。

ことに、超人的な力を持つ弁慶の力石ですから、
人々の期待は大きかったと思います。

そして屏風にも描かれるほど有名になりました。

本当はヤワだったかもしれない弁慶が、
なぜこんな変貌を遂げたのか、

その謎解きは次回へ持ち越しです。


※参考文献/「増補・洛中洛外の群像」瀬田勝哉 平凡社 2009
※画像提供/「上杉本・洛中洛外図屏風を見る」
         小澤弘 川嶋将生河出書房新社 1994
        /高島愼助

スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

え~そんな

弁慶は子供のときの絵本よしつねから始まって大人になるまでなんども目にしてきた忠義のヒーローだったのに。
つい最近もかつてのNHK大河・義経をダウンロードしてようやく壇ノ浦まで観終わったところ。
見る気がしなくなったよぉ~
まあ義経の物語そのものはだいたい同じで結末はわかっているので、ほんとはどうってことないのだけどね。
紀州田辺の駅前にも弁慶が立っていて、なんでも生誕の地だそうで、もちろんここでもヒーロー扱いなんだけど、どうしてこうなってしまったのか。
なんとも悲しくもあるけふこのごろござりまする。

No title

夢を壊してすみません。
でもこれ、私の説ではなくて先人の研究者の説ですから。
とはいうものの私も賛同しているわけですけど。

ついでにもう一つ夢を壊すと「義経はサル目で出っ歯の小男だった」そうです。誰も見たことがないし、当時の日記にそう書いてあったとしてもその人の嫉妬からかもしれないし。

ついでのついでに「清盛は残された像などから見てどうも乱視だったのではないか」という説も。確かに乱視の私の見方そっくりです。でも絵巻は面白いですね。合戦に金髪の白人や黒人が鎧着て戦っているんですから。

家康も秀吉も鎧や衣服から見て小男で、当時の日本人は小さかったみたいですが、そんな中でなんで相撲取りや力持ちの大男が生まれたんでしょう。

なに! Again

ゴメン何度も
なんだって
サル目で出っ歯の小男・・・義経が?

これまで義経を演じてきたキラ星のごときスターたちは
いったいなんだったのか。
しかし
サル目で出っ歯の小男
これはおもしろい
ブログのネタになりそうだ

姫様の返事も含めて近日に使うかもしれませず
どうかよろしくお願い奉りまする~~

No title

263年で入洛だと、時速何メートルなのかと、つい考えてしまいました。爆弾ゲームみたいな民俗ですね。参考になりました。神武天皇もヤマトタケルも立派な像がたくさんあるので、石くらいならOKかも(^^♪

サル目…

ちい公さま、またまた夢を壊しましてすみません。
牛若丸とくれば浮かぶのは、歌舞伎の女形みたいなうりざね顔に切れ長の目の美少年ですものね。でも戦略や兵を動かすのはうまかったみたいですよ。

サル目で思い浮かぶのが秀吉ですが、最近、似たような人をお見掛けしますね。ZO〇〇の経営者。もう秀吉そっくり。先日、仲良く肩を組んでいる人を見たら、こちらは家康そっくりでした(笑)

爆弾ゲーム

コメントありがとうございます。

弁慶石はたぶん、京都近郊から運んだのではないでしょうか。でも昔からこういった「村送り」はしていました。数年前、そんな行事に参加しました。

竹で神輿を作り、そこに藁の馬と神さまを乗せて、夜、みんなで唱えごとをいいながら村境まで行くんです。そこへ神輿を置いたら後ろを振り返らずに一目散に帰りました。振り返ったら災いがついてきてしまうそうです。

これ、災いをよそへ追いやってしまう行事ですが、田んぼの「虫送り」も同じですね。弁慶石のような憤怒のうちに異郷で死んだ霊は、本貫の地に返さなければ怨霊になると信じられていましたから、昔は本気で宿送り、村送りをしたのではと思っています。

No title

雨宮さん、おはようございます。

双体道祖神にはそういう意味があったんですか、
力石は、これだけ力持ちがいるからというのは
なんとなくわかるのですが、仲が良いから
退散ですか、なんか奥が深いです。

おはようございます

双体道祖神のこの話、私は好きなんです。昔の人は外から村へ何かが入り込むのを恐れていましたから。巨大な男根を置いたのも「うちの村にはこーんな巨人がいるんだぞ」という示威行為だそうです。

奈良の田舎で川に張ったしめ縄に陰陽の型を下げたものをみましたが、これも邪悪なものを防ぐ結界。静岡県東部には焼けこげた石造物があると思いますが、これはどんど焼きで焼かれたものです。「コト八日」の行事です。この行事の解釈はいろいろありますが、県東部のは独特です。

明治以前と以後では日本人の感覚がまるで違うものになってしまいましたが、それでもまだまだ昔の痕跡は残っていますね。
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

フリーエリア
お願い
このブログに掲載されている 写真・記事等には著作権があります。 無断使用はご遠慮ください。
カレンダー
04 | 2021/05 | 06
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
最新記事
最新コメント
訪問者数
ランキングに参加しています
カテゴリ
月別アーカイブ
最新トラックバック
リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR