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兄さんに褒められたくて

弁慶は「いたんだかどうだかわからない」あいまいな存在ですが、
主人の義経はれっきとした歴史上の人物です。

ただその生涯は実に儚(はかな)い。

治承四年(1180)十月、
異母兄の頼朝が伊豆で平家打倒の旗揚げをした。

それを伝え聞いた義経は、
奥州(岩手県)平泉から黄瀬川宿(静岡県沼津市)へ駆けつけます。

ときに義経22歳。初対面の兄は11歳上の33歳

黄瀬川宿は今の沼津市大岡あたりにあった中世の宿駅です。

宿の名になった黄瀬川は富士山に源を発し、
御殿場市、裾野市などを下り沼津市で狩野川と合流する河川です。

こちらは上流の「五竜の滝」(裾野市)です。
CIMG1826.jpg

弟はこのときから、兄・頼朝の片腕となって大変な働きをします。

木曽義仲を滅ぼし、一ノ谷、屋島合戦で平家を破り、
最後の一門を壇ノ浦に追い詰めて、ついに平家を壊滅させた。

兄さんに褒められたくて、一生懸命だったのでしょう。
このとき義経27歳

合戦に明け暮れた5年間でしたが、
平家を滅ぼしたとたん、頼朝の手のひら返しが始まります。

兄・頼朝は義経を逆臣とし、所領をことごとく没収。
行く先々へ刺客を差し向けてきたのです。

わずか5年前、黄瀬川宿で初めて会ったとき、
「互いに懐旧の涙をもよおした」(吾妻鏡)二人だったのに。

逃亡生活2年。
ついに義経は、16歳から世話になっていた藤原秀衡を頼り、
奥州・平泉へと落ちていきます。

その2年後、秀衡の息子の泰衡に攻められ、衣川の館で自刃

激しく短い31歳の生涯を閉じました。

当時の合戦は重い鎧をつけた騎馬戦でした。
img20190915_08170729 (2)
「春日権現験記絵巻」(国立国会図書館蔵)より

で、肝心の弁慶はどうしていたかというと、
藤原成一氏は著書「弁慶」(法蔵館 2002)にこう書いています。

「平家物語や吾妻鏡には武蔵坊弁慶の名は出てくるものの
わずかに義経従者の末尾に出てくるだけ。

義経に従ったほかの勇者や剛の者の戦いぶりは書かれているが、
弁慶の働きぶりは、平氏滅亡まで一度たりとも出てこない。

同時代の公家の日記や史料にも
義経の名は出てきても弁慶は一切出てこない」

あれま! どうしましょ。
見事な弁慶石は存在するのに、生身の弁慶はこのていたらく。

この弁慶の虚像・実像の謎解きは次回に追いかけます。

下の写真は、伝・義経の「薄墨の笛」です。

この笛は最初、久能山の久能寺にありました。
久能寺は中世、京の貴族たちに尊崇された大寺院でしたが、
戦国時代、武田信玄の駿河侵攻で山下に強制移転。

明治維新後、荒れ果てたこの寺を山岡鉄舟と地元商人が再興。
名も鉄舟寺と改めた。笛は現在、ここにあります。

10年ほど前、私はこの寺で、
横笛奏者の赤尾三千子さんのこの笛による演奏を聞きました。
ド素人の私でしたが、感慨深いものがありました。

現在、久能山には国宝・久能山東照宮があります。
眼下は三保の松原に続く「有度浜」(うどはま)です。

中世、東下りをする旅人たちは、山上から流れる
1千500余人の僧たちの読経を聞きながら、この浜を歩いたそうです。

「薄墨(うすずみ)の笛」
CIMG1658_2019091510482262f.jpg
静岡市清水区・鉄舟寺

さて、弁慶を追いかけている中で、ちょっと面白いなと思ったことがあります。

それは、この義経と頼朝の対立に一枚噛んでいた人がいたことです。

やんごとなき、後白河院(法皇)がその人です。

院とは天皇の地位を息子などに譲って引退した人のことですが、
この時代は引退どころか、院になってより強い権力を握りました。

ちなみに、天皇が出す命令書は綸旨(りんじ)といい、
院なら院宣といいますが、効力は院宣の方が上なんだそうです。

で、後白河院さんは、
義経に「頼朝追討」の院宣を出しておきながら、
今度はすかさず頼朝に「義経追討」の院宣を出すなどして、
この院宣を巧みに使ったそうです。

これがために頼朝と義経の仲はどんどん悪くなっていった。

これを、
歴史学者の中村直勝氏は「後白河法皇の意地悪」といい、
作家の村上元三氏は「後白河さんの策略」といっています。
  ※「歴史対談 平家物語」講談社 1971

で、お二人ともこう結論付けています。

「後白河さんは自分で頼朝の兵を左右に振り回したつもりだったが、
頼朝はそんなこと知っていたと思いますから、
狐と狸の化かし合いをやっていたようなものですな」


※参考文献/現代語訳「吾妻鏡」2,3,4 五味文彦・本郷和人編
        吉川弘文館 2008
        /「臼田甚五郎博士還暦記念・口承文芸の展開・下」
         桜楓社 昭和50年
        
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No title

雨宮さん、おはようございます。

後白河にはあんまいいイメージないです。
ってか、無茶苦茶ですよね。
とっとと天皇を引退して、天皇としての面倒くさい
もろもろをおしつけて、上皇として好き勝手...

おはようございます

研究者の方々からの受け売りですが、幼帝の安徳天皇が三種の神器とともに入水したとき、後白河さんはそんなのなくてもいいとして次の天皇を立てちゃったり。

壇ノ浦で安徳さんを死なせてしまった罪を義経一人に着せたりね。京都の貴族たちは本当は平家が好きで、源氏など東国の野蛮人としかみていなかった。私などは「源氏物語」に惑わされて平安貴族は雅びだと思わされてきましたが、なかなかどうして、したたかですね。

こんばんは

古より兄弟喧嘩は殺人になることが多いです。
有名な中大兄皇子、天皇家の内紛も、
貴族階級と言うか取り巻きが関与でしょう。

幕末など天皇を山車にして暗躍のテロなど。
近年まで宮廷内が関わっていますから。
ましてや武家など親子・兄弟の確執は多いでしょう。
義経に限っては「判官贔屓」で得しているかなと。

戦国などやその後も兄弟の争いは多いですね。
数えるときりがないほどです。

こんばんは

兄弟は他人の始まりって言いますものね。私の実家もそうでした。ましてや昔は異腹の兄弟姉妹が多かったし、肉親という感情は希薄だったと思います。

頼朝の妻・政子は頼朝死後は自分の子がいるのに、朝廷へ出かけて行って養子の相談をしていますが、実家の北条氏は平氏ですから、源氏の血を受けた我が子より、やっぱり平氏という気持ちが強かったんでしょうか。

実子は二人とも無残に殺されますが、寒々とした気持ちになります。
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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