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田原坂(たばるざか)の戦い

富士浅間神社の石段を降り切った道路際に、
ひときわ大きな供養塔が建っていた。

「これは田原坂で戦死した人の墓です」と郷土史家の増田氏。

田原坂? 
♪雨は降る降る 人馬は濡れるの、あの九州・熊本の田原坂?

そんな遠いところの戦争に、静岡の人が行ったとは…。

その墓石を見上げつつ増田氏が、
「この人はこの村唯一の西南戦争の戦死者なんです。
今はもう、すっかり忘れられてしまいましたが…」

無理もない。今から142年も前の戦争ですものね。

この西南戦争の一般的な解釈は、
「政変に破れて下野した西郷隆盛が明治10年、政府軍と戦い敗北した戦争」
「日本国内での最大最後の内戦」となっています。

隆盛の実弟の従道(つぐみち)は政府軍。兄弟が敵味方に分かれたんですね。

供養塔です。碑の主は政府軍の兵士として出征。

CIMG4710.jpg
静岡県富士宮市(旧芝川町)内房

墓碑銘は「小野田徳蔵墓」とあります。

「芝川町誌」にはもう一人、小野田幾太郎の名もあった。
共に戦死場所は最大の激戦地だった「田原坂」。

徳蔵氏は「遺族不明」、幾太郎氏の遺族名は「小野田浜吉」となっている。

町誌の記載はごく簡単だったため、
熊本市の「田原坂西南戦争資料館」へ問い合わせてみました。

前夜遅くメールしたのに、翌日には丁寧なお返事。有難かったです。

同資料館の運営担当者で、
熊本市文化振興課のM氏の回答から少し記していきます。

「田原坂西南戦争資料館」です。
資料館田原坂
熊本市北区植木町豊岡858-1 ☎096-272-4982

以下はM氏がご教示くださった資料です。

①「西南の役 植木地区における官薩両軍戦死者名簿
 =植木町教育委員会 平成2年刊行=

この中に徳蔵幾太郎の両名が記載されていた。

②「玉名市史 資料編6 文書(近・現代)」
 =玉名市 平成6年刊行=

この中の「西南の役 高瀬官軍墓地陸軍墓銘碑全写」に徳蔵の名。
ただし、この墓地は現存せず。地下部分は残存。

③「歴史への招待 西南の役と玉東町」
 =熊本県玉名郡玉東町長 平井俊雄 昭和56年刊行=

この中の「明治十一年 官軍墓地碑石全写」の
木葉町字高月墓地に、喇叭卒(ラッパ手)「小野田幾太郎之墓」があった。

ラッパ手は戦闘の勝敗を左右するほどの重要な任務。
「陸軍らっぱ譜」という譜面があって、ラッパ手は戦場においては、
抜刀、突撃、退却などの曲を吹いて兵隊たちを指揮していたそうです。

こちらは「日清戦争忠勇美鑑」掲載の喇叭卒です。
小野田幾太郎もこんなふうにラッパを吹いていたのかもしれません。

手らっぱ
明治28年(1895)、米作画

先に挙げたM氏の資料から、さらにこんなことがわかりました。

小野田徳蔵 
  静岡県庵原郡内房村出身(現・富士宮市)。第一旅団東京鎮台兵卒(歩兵) 
  明治10年3月14日二俣で負傷、16日高瀬陸軍病院で没。

静岡県旧内房村にある供養塔には、
塔の建立は明治17年3月14日と刻まれていますが、M氏の資料から、
供養塔は没後7年目に建立、日付は負傷した日ということが判明。

「徳蔵さんが所属する第一旅団第一中隊は、
このとき初めて投入された警視抜刀隊とともに二俣口で戦った。
この戦いで政府軍兵士は10名(11名とも)負傷。その一人が徳蔵さんで、
彼のケガは繃帯所(治療所)では治療できず、高瀬の陸軍病院へ移送され
そこで亡くなったと考えられます」とM氏。

小野田幾太郎 
  静岡県富士郡羽鮒村出身(現・富士宮市)。
  第一旅団東京鎮台喇叭(ラッパ)卒  
  明治10年3月22日、玉名郡植木で戦死。

故郷にある幾太郎氏の墓です。

img251.jpg
「芝川町誌」より

M氏は幾太郎の死をこんなふうに伝えてくれました。

「20日の田原坂陥落後、22日には熊本城へと続く往還沿いでの戦争があり、
政府軍の死傷者はおよそ29名だった。

幾太郎さんはその中の一人で、喇叭(らっぱ)卒として
号令・命令を伝え、士気を鼓舞しながら亡くなったのでしょう」

それにしても小野田徳蔵さんの墓の場所が、
神社の前の道路際というのには、何か特別な理由があるのでしょうか。


※協力/熊本市経済観光局 文化スポーツ交流部・文化振興課植木分室
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こんばんは

九州の西南戦争では、薩摩は賊軍なんでしょうが、
やはり徳川政府軍と違って、賊軍と岩に野ですね。

小野田さんたちは、元は徳川ゆかりの人ではないでしょうか?
当然靖国神社に祭られているのでしょうね。




おはようございます

ほとんどの本は「賊軍」と書いていないような気がします。薩軍、薩摩軍、西郷軍。「芝川町誌」は官軍と隆盛側と書いていました。

小野田徳蔵の内房村は江戸時代後半は伊豆韮山代官の江川太郎左衛門の統治下にありましたので、徳蔵さんはそこに関係していたのかなと思います。徳蔵さんたちも西郷さんと共に靖国神社へ合祀されているのですね。

町誌発行の昭和48年には徳蔵の子孫は不明となっていますので、絶えてしまったのかもしれません。この砦や神社の探訪記はネットでよく見かけますが、徳蔵の墓のことには誰も目を留めません。私は強く惹かれたのですが。
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雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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