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駿府二丁町

駿府、今の静岡市は江戸幕府を開いた徳川家康が、
幼少時代を過ごし、晩年になって隠居所として住んだ町です。

慶長12年(1607)、66歳で秀忠に将軍職を譲った家康は、再び駿府へ戻り、
ここに「大御所政治」を展開。
そして、矢継ぎ早に、
全国通貨の慶長小判の鋳造、活字印刷金属瓦西洋式帆船
建造を手がけます。これはすべて、日本初のものです。

駿府城下には全国から商工業者が集まり、諸外国の要人たちが家康を訪問。
駿府はたちまち人口が膨れ上がり、東海一の都市と称されました。

そんな中にできたのが「二丁町遊郭」です。
敷地1万坪。幕府公認。
のちにここの一部が江戸吉原へ移ります。

これは二丁町の花魁が差していた髪飾りの一部です。

img697_20190323172146b83.jpg

記者時代、取材先の画家さんが花魁の髪飾りをペンダントに作り替えて、
私にくださったものです。

黒漆地に螺鈿(らでん)、金工象嵌(きんこうぞうがん)。
 ※螺鈿=夜光貝や真珠をはめ込んだもの。
 ※金工象嵌=金をはめ込んだもの。

どんな女性の持ち物だったんだろう、幸せになれただろうかと思いつつ、
ずいぶん愛用しましたが、とうとう壊れて、今はこれだけ残りました。

「わたしの叔母は二丁町の娼妓であった」ー、
という書き出しで始まる「静岡の遊郭二丁町」という本があります。
著者の叔父が身請けした「つね」という娼妓は、
最後に訪れたこの幸せに感謝しつつ、間もなく結核で亡くなります。

しかし叔父は、身請けまでしておきながらなぜか決して入籍はしなかった。
そんな「つね」への思いを胸に、戦後、著者の調査が始まります。

この遊郭は静岡大空襲で焼失する昭和20年まで存在しました。

著者は調査の過程で、終戦間際の二丁町に、
「20人くらいの朝鮮人慰安婦がいた」という話を元・楼主から聞きます。

「若い女たちを集めたものの大陸への運搬船が沈んじゃって運べなくて。
それで日本のあちこちへ分散させた。その一部が二丁町へも来た」
「日本語も出来ないのに、戦後、彼女たちはどうなったのか」

思いがけない話を耳にした著者は、こんな感想を漏らしています。
戦争がこのようなかたちで二丁町に繋がっていようとは想像もできなかった」

ずいぶん前になりますが、私にも衝撃を受けた経験があります。
調べていた郷土資料の中に、娼妓たちの名前や住所を書いたものがあって、
その中に見知った家の住所を見付けてしまったのです。

貧しい家のため、その親から身売りされた娘なのに、
親はその娘を恥じて、年季が明けても家へ迎え入れることをしなかったという。

今、贅沢をしたいがために売春をする少女たちがいる。
そんなことを昔の娼妓たちが知ったら、どう思うだろうか。
「自分を粗末にしちゃいけないよ」って、言うのかもしれません。

私はこの「花魁の髪飾り」をいつもパソコンの横に置いています。
螺鈿や金工象嵌は今も美しく輝いています。

苦界に落ちても「穢れのない、凛とした気高さ」を感じるのです。


※参考文献/「静岡の遊郭 二丁町」小長谷澄子 文芸社 2006
        小二田誠二・静岡大学教授のHP「人言小二田研究室」

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No title

二丁町遊郭の一部が吉原へというのは初めて聞きました。
地元の川沿いに「しんかいち」と呼ばれる地域があり、ガキの頃、親から「人さらいがいるから行っちゃだめだ」と言われたものです。
中学生の頃、そこにあった友人宅に遊びに行った都度、一階も二階も小部屋の多い家だなぁと思ったものですが、後に「貸座敷」と知り、「しんかいち」は「新開地」と知った奥手の私でした。

No title

駿府から江戸へ移ったものに金座、銀座があります。家康は隠居して9年後に、鯛の天ぷらにあたって亡くなります。胃がん説や暗殺説も。家康が没するといろんなものが江戸へ移り、武士たちもいなくなって駿府の町はスカスカに。

それでも二丁町は十返舎一九や確か西鶴、近くは有吉佐和子の「香華」にも書かれました。今川氏の菩提寺の臨済寺には心中した遊女と番頭の墓があります。

小部屋で思い出しました。以前、写真家を訪ねたとき、なんと仕事場が廃業した貸座敷で。興味津々で覗いて歩きました。「人さらい」とはまたまた。もしかしてお父上はしょっちゅう、その「人さらい」に遭っていたとかe-446

おはようございます

こういう話を見ると静岡に行きたくなります。
我々年代が懐かしく思う事物が、
今や消えていくようです。

徳川によって静岡文化など江戸に持たされていますね。
今の江戸は徳川のお陰だとつくづく思います。

ちなみに、東京では「二丁目」と言えば、
オカマ(言葉が不味いか?)が連想されます。
新宿二丁目にそれらのバーが多いらしい。

昨日、所用で名古屋から新幹線に乗ったとき、
曇りなので席はどこでもいいよと乗りました。
ところが車内案内で富士山が見えると放送、
のぞみは窓が小さいので反対側から写真は無理でした。

やはり東海道新幹線は富士山側にしなければと。
必ず窓側の席を取らなければと思った次第です。

昨日の富士山は、わが方から見る姿と、
どうやら反対のように見えました。

行くときは車で東名でしたが、
フェンスが多く写せません。
休憩したところでは、駐車場の街灯がやたらと多く、
富士山の前では邪魔になりこれも写すのを止めました。


No title

one0522さま、ありがとうございます。

駿府城は忠長失脚後は幕末まで城主のいない寂しい状態になってしまいます。明治初年には江戸から学者などが集まり、英語学校や病院などを造って一時にぎわいますが再び東京へ移ってしまい、また寂れたそうです。城も壊されてのちに城内に刑務所なんかできて。今、駿府城の発掘をしていますが秀吉時代の石積みと金箔瓦が出てきました。

時代の流れ、権力者の交代というのは地位や経済の逆転が起きて、武家や華族の娘がお女郎さんになったり、それまで河原乞食と言っていた女優になったり、なんか物悲しいですね。私はそんなところに妙に惹かれるのですが。
二丁町と二丁目、本当に。「二丁」という言葉はそういう意味があるのでしょうか。私も気にしつつ書きました。

富士山、残念でしたね。今度はぜひ富士山側に席を取ってください。新東名ですと東京方面へ向かうとき、沼津近くになると前方に大きく見えてきます。ちょうど富士山に向かって走っている状態です。圧巻です。

こんにちは

コメントでの英語学校で思い出しましたが、
清水の次郎長が尽力しているんですね。

海戦の死者を弔ったのも次郎長と聞いています。
下手な西軍たちよりも、よほどの器量があったですね。



No title

英語学校は次郎長の私塾でした。
これからは海外だと言って、外国航路と英語の重要性をいち早く察した眼力はすごいと思います。この先見の明で清水港はお茶などの輸出で活気づきます。

次郎長の前半生は斬ったはったの正真正銘の侠客。でも後半生は誰からも好かれた人物らしいです。慶喜さんは次郎長が大好きで、よく釣りの伴をさせたようです。作家の諸田玲子さんは次郎長の子孫の一人だそうです。

政府の学校は江戸の昌平黌から派遣された教授たちによる「駿府学問所」がありました。これが明治元年に静岡学問所となります。向山黄村、中村敬直、クラークなど錚々たる教授陣で、漢学、国学、洋学を教えていました。

郷土史を読んでいて気付いたことですが、昔の政治家って歴史を熱心に勉強していた人が多いんです。町長さんが丹念に古文書を読み、足を使って歴史探訪をしています。なんかいいですよね。
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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