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墓前にて

「神田川徳蔵物語」 最終回です。

スタートは、2年前の2017年6月24日。
それから約1年9か月、116回書き続けました。

この「物語」を始めたきっかけは、神田川徳蔵の縁者・Eさんからのメールでした。
その後、今まで誰も見たことがなかった写真やご子孫に関する
第一級の資料をいただき、「これはなんとしても書かねば…」と。

Eさんから送られてきた徳蔵の笑顔の写真と対面して、
私はどうしても徳蔵さんに会いたくなり、
翌月、お聞きした墓所へお参りのため上京した。

飯田家の菩提寺・善應院(日蓮宗)です。
CIMG3836.jpg
東京都江東区平野・善應院

ものすごい暑い日でした。
その炎天下の、不慣れな東京での墓探しは大変でした。

人に聞き聞き、ようやく寺町のような一画へ。
道の片側に小さなお寺が軒を連ね、
反対側には、高い石塀で囲まれた墓地が要塞みたいに並んでいた。

石塀の中は迷路のようになっていて、
その狭い通路沿いに、墓石が窮屈そうに肩を寄せ合っていた。

ですが、閉塞感いっぱいの墓地の路地から路地を歩き回っても、
別の石塀の墓所へ出たり入ったりしても、飯田家の墓は見つかりません。

汗で濡れたメガネを拭き拭き、再度寺へ。
ご住職の奥さまが墓の配置図を指差しながら、ゆったりとした口調で、
「右から○列目の、通路の手前から○番目がそうですよ」

今度はあっけなく見つかった。思わず墓石に向かって、
「徳蔵さん、会いに来ました!」

下の写真が飯田家のお墓です。
左は「飯定組」初代・飯田定次郎、幾ん夫妻の戒名が刻まれた墓。
右は定次郎の孫・一郎が建立した「飯田隆四郎家」の墓です。

隆四郎は定次郎の長女の夫で、一郎は子息。
 一郎は日本初のバーベルを作ったといわれている人。
 一郎の弟・勝康は、日本重量挙協会の理事長・井口幸男と共に、
 金メダリストの三宅選手を始め、ウエイトリフティングの名選手を育てた人。

CIMG3834.jpg

あまりの暑さに、カメラのレンズカバーが垂れ下がっているのに気づかず、
そのままシャッターを押したので、写真左上にはみんな黒い影が…。

でも飯田家のみなさんに会えて、暑さも疲れも吹っ飛びました。

左の墓石の側面にこんな文字が刻まれていました。

「昭和六年七月
神田川 為 飯定親方

舊恩思子分中有志一同建立」

飯田定次郎は配下の従業員たちにずいぶん慕われていたのですね。

CIMG3830.jpg

縁者のEさんの調べでは、ここには18人の方が眠っているとのこと。
「飯定組」二代目で、力持ちの神田川一派を率いた飯田徳蔵も、
妻・千代と共にここに眠っていました。

徳蔵は終戦の翌年の1946年、55歳でこの世を去りましたが、
千代さんは天寿を全うし、
それから43年後の平成元年(1989)、87歳で亡くなりました。

人っ子一人いない墓所の中で墓前に手を合わせ、
「徳蔵物語」を書くことへのお許しと、
無事、書き上げることができますようお願いしました。

その願いが通じたのでしょうか、どうにか最終回を迎えることができました。
もうね、この2年間、寝ても覚めても徳蔵さん一色でしたから、
ものすごく身近な人になりました。

下の写真は、
晩年の飯田定太郎(徳蔵子息)と徳蔵縁者のEさんの父上です。
二人は終生、兄弟のように仲良く交流していたそうです。
このころお二人にお会いしていたら、徳蔵さんのことをいっぱい聞けたのに、

残念!

2000年ごろ、定太郎の娘さんが経営する中華料理店の前で撮影。
晩年定太郎
埼玉県児玉郡神川町新里・中華店「麺飯珍(めんはんちん)前にて

Eさんには貴重な情報、写真などをたくさん頂戴しました。
忙しい仕事の合間に親戚を訪ね歩き、徳蔵が残した力石を見て回り、
そして、私からのどんな要望にもきちんと応えてくださった。

でもEさんはどこまでも謙虚。
「これがきっかけで、疎遠だった親戚と再び会うことができました」
と、私と知り合ったことや記事にしたことなど、手放しで喜んでくださった。

このような拙いブログにもかかわらず、
神田川(飯田)徳蔵のお孫さんを始め、ご協力くださった多くの皆様、
そして根気よくお付き合いくださった読者の皆様へ、

心より感謝申し上げます。

埋もれた歴史を掘り起こすのは共同作業だと常々思っておりました。
今回、それを実践できたことが何よりもうれしいです。

力石の力持ちが、力石をバーベルに持ち替えて、
日本のウエイトリフティングの礎を作った、

そんな男がいたことを、
どうか皆さま、忘れないでくださいね。

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こんばんは

お疲れさまでした。
116回にもなるとか、もすごい快挙です。
お蔭さまで「力石」の素人である私も楽しめました。

去年は格別な暑さでしたが、執念と言うか、
努力には頭が下がります。

今年は機会がありましたら、、
姫の一部でも経験したいと思います。

これからも楽しみにしています。

御礼申し上げます

初めてこちらでコメントさせていただきます。徳蔵縁者のEです。
飯定のことを調べていてこちらのブロブにたどり着いた時の驚きは忘れません。私の親戚のことを調べている人がいる・・・。その内容は私が断片的にしか知らなかった事を一つにつなぎ合わせてくれるものでした。
姫様に資料をお送りした事で、私だけでは調査できなかったであろう多くの新たな出来事を知ることができました。
アルバムの中の知らない親戚は今や皆身近な人として生き返りました。
この二年間徳蔵物語の新たな記事がそしてブログに対する多くの反応がとても嬉しく、楽しみでした。
東京オリンピックを来年に控え、ウエイトリフティングが日本における東京神田発祥の競技であること、それに貢献したのが徳蔵をはじめとする飯田一族だったことを多くの人に知ってもらいたいです。
飯田徳蔵に関してこの様な詳細な調査をし、ブログに発表してくださったことを親戚一同を代表しまして厚く御礼申し上げます。

おはようございます

one0522さま、いつも応援してくださりありがとうございます。

この飯田徳蔵は単に力石の力持ちだけではなかった、そこに魅力を感じて追いかけました。縁者、ご子孫から貴重な資料をいただいたことが一番大きいです。

やっぱり疲れが出ました。温泉でのんびりしたい!

No title

飯田徳蔵という人の功績を少しでも知って欲しい、そんな思いから続けましたが、これはひとえにEさんからいただいた第一級の資料があってこそでした。
ありがとうございました。

日本でウエイトリフティングが認知されたのは昭和39年(1964)の東京オリンピック以後でした。それまでは「ただ馬鹿力を出すだけのものでスポーツではない」と蔑まれてきた。その40年も前の大正時代に徳蔵はいち早くバーベルを手に入れ、甥の一郎や若木竹丸と共に朝鮮での大会に出場。

重量挙げの理事長となった井口幸男はその著書に「世間から蔑まれていた自分たちのために、私費で道場を建て温かく見守ってくれた」と書いています。ここから息子の定太郎、甥の一郎、勝康が出て来て日本のウエイトリフティングを今に導いたわけです。

力石の力持ちだけでは終わらなかった徳蔵とそれを近代競技へと導き、ついには金メダリストまで輩出したという飯田一族の業績は、もっともっと評価されるべきだと思います。今度のオリンピックに際し、東京都では「力石からバーベルへ」の歴史展示会やイベントをぜひ、やっていただきたいと私も願っています。

忘れてはならないのは、義父の定次郎です。長男がありながら分家させて徳蔵に跡を継がせた。そしてすべてを黙認した。今なお世襲で我が身の安泰をはかる政治家や企業家が多いのに、定次郎は血ではなく実力を認めて我が子を切った。

この定次郎なくして徳蔵は生まれなかった。
ブログという形で一族のことを書かせていただきましたが、本当にいい仕事をさせていただきました。
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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