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原点

神田川徳蔵物語
09 /10 2018
昭和20年8月15日、
この日、15年続いた第二次世界大戦がようやく終わった。

この昭和という時代は大恐慌で始まり、
終戦までの5年間は「一億一心体当たり」の戦争一色となった。
しかし、米軍機の波状攻撃で主要都市は焦土と化し、敗戦。
昭和20年、連合国軍の支配下に置かれます。

飯田徳蔵はそんな時代を生きてきました。
そして、東京大空襲で仕事も住まいも輝かしい過去も失い、
終戦の翌年、55歳でこの世を去ります。

しかし徳蔵の「力石からバーベルへ」の希望の灯は消えることなく、
息子の定太郎や甥の勝康井口幸男らにしっかり受け継がれたのです。

こちらは「日本国憲法」発布を祝う記念演技会に、
重量挙選手として出場したときの定太郎(真ん中)と勝康(右端)です。

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昭和23年。明治神宮外苑競技場(のちの国立競技場)

この大会は、天皇、皇后両陛下、宮さま方ご臨席のもと、
「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し…」
と謳った新たな憲法のスタートを祝って行なわれたものでした。

つい5年前にはこの競技場で学徒出陣が行われました。
軍靴が響いた戦争から平和の足音への転換。
ここへ集ったみなさんにはいろんな思いが錯綜したのでは、と思います。

この日、重量挙選手として、
定太郎勝康足立足立関口正夫の5選手が出場。
日本重量挙協会理事長の井口幸男は説明役という大役を仰せつかった。

そのときのことを井口は著書に、こう書き残しています。

「御真影を仰いで育った私ごときが、
陛下にご説明を申し上げようとは予想だにしなかった。
恐懼(きょうく)感激すると同時に真偽のほどを疑ってみたくらいだった。

敗戦直後で選手集めも容易ではなかった。
服はといえば、焼夷弾で焼けてしまって国民服1着しかない。
見かねた教え子のお母さんがモーニングを貸してくださった」

下の写真は、演技する徳蔵の甥・飯田勝康です。
勝康は、
かつて徳蔵、若木竹丸と共に「朝鮮力道大会」へ出場した一郎の弟。

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井口の記述を続けます。

「当日早朝、斎戒沐浴
会場では皇族方の後ろに立って、
はるか下で行われている重量挙の演技をご説明申し上げた。

予定の20分が経過し、侍従の合図にもかかわらず、
両陛下は40分間の長きにわたってご下問。
非常にご興味深くご覧くださったのは大変うれしく、慶びに堪えなかった」

会場となった神宮競技場は、終戦の年、進駐軍(GHQ)に接収されて、
「ナイルキニア・スタジアム」と呼ばれていました。
なので、勝康演技の写真に進駐軍兵士が写っています。

こちらは秩父宮妃殿下をお迎えしての重量挙大会の写真です。
開催年は不明ですが、妃殿下はまだお若いですね。

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右端が井口幸男、妃殿下の後方でボーッと立っているのが定太郎です。
その定太郎を井口はこんなふうに見ていました。

この親にしてこの子あり。
父から力石の話を聞きながら成長したおかげかこの道が好きで、
力も強かった。
力石の歴史的経過や囃子を入れての俵差しなどの知識は素晴らしく、
古き時代のことを語り伝える一書をぜひ彼に書いてもらいたいと願っている」

こちらは「明治大学体育会ウエイトリフティング部」のロゴマークです。

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同ウエイトリフティング部HPによると、
同クラブは昭和27年(1952)設立。
初代部長はなんと、政治評論家の藤原弘達氏だった。

また、飯田定太郎は初代OB
飯田勝康はクラブ設立時顧問と紹介されています。

そして「一人のOBからのひと言」として、
飯田徳蔵にこんな賛辞が贈られていました。

飯田徳蔵は日本の重量挙競技の原点」と。


※参考文献・画像提供/「わがスポーツの軌跡」井口幸男 私家本 昭和61年
              /「明治大学体育会ウエイトリフティング部」HP
              /「定太郎アルバム」定太郎子孫

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞