はいつけの神さま

「はいつけ」って何だろうと思ったら、
木材や米俵などの荷を積み上げることだった。

積み上げた荷のかたまりを「はい」といい、
積み上げることを「はいつけ」、ばらすことを「はい崩し」というのだそうです。

昔、荷役の男たちが自分の力だけで倉庫に積み上げていたのが、
今ではフォークリフトやクレーンでできるようになった。
でも「はいつけ」という言葉は今も使われていて、
これを動かすには特別な技能がないとできないとか。

下の写真は、明治時代の荷役の頭(かしら)です。
もとは房州船(千葉県)の船頭(船長)で、
のちに静岡の清水港で働くようになった松下伊左衛門です。

威厳があります。

img261_20180508154201857.jpg
「鈴与百七十年史」鈴与株式会社 昭和46年より

さて、荷役の現場で彼らを見続けてきた平原氏でしたが、
意外にも、
力持ちの習俗や力石を知るのは現場を離れたあとだったという。

終戦を機に、17年間勤めた日本通運を辞めた平原氏は、
昭和23年、「荷役研究所」を設立します。

「運搬」という作業の重要性を世間に理解してもらいたい。
荷役の人たちを苛酷な労働から解放したい。
彼らの社会的地位の向上に力を貸してほしい。

そんな思いからの独立だったという。

しかし当時は荷役の重要性を説いても馬耳東風。
啓蒙運動に走り回って2年が過ぎたころ、耳を傾けてくれる人がやっと現れた。

深川の帝国倉庫・常務取締役の内田貞三だった。
内田は荷役を深く愛し理解し、わがものにしていた人で、
二人はたちまち意気投合。

その内田から聞かされたのが、
「はいつけの神さま」、佐賀町の富虎だった。
これがきっかけで、平原氏は力持ちという習俗に惹きつけられていきます。

冨虎の名がある番付です。
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「東京力持興行広告番付」明治21年。「石に挑んだ男達」高島愼助より

中央の赤丸に「本町東助」、右の赤丸に東前頭として「佐賀町富虎」
右端には「豆州 大嶌傳吉」の名も見えます。
ちなみに我らが徳蔵はまだ生まれていないので、ここには出ていません。

内田貞三は、大正3年、早稲田大学を出て、
鉄道院(運輸・国土交通省、国鉄、JRの前身)に入り、
のちに帝国倉庫へ入社。

荷役の現場を40年も体験した人で、
「倉庫の中のネズミの歩き方まで研究している人」と言われるほど、
倉庫実務にかけては当代随一の人だったという。

冨虎はそんな内田氏のもとで米俵を扱っていた男だったのです。

富虎の名は、
世田谷区・幸龍寺の「本町東助碑」にも「年寄」として刻まれています。

虎東助碑富

昭和6年、冨虎は72歳でこの世を去ります。
徳蔵このとき、40歳
徳蔵もこの「はいつけ」をやっていて、米俵2俵を同時に揚げていたそうですから、
大先輩の神技を目にしていたはずです。

70歳近くになっても重い米俵を手先でコロコロ転がして、
若者たちをアッと言わせていた冨虎。

明治23年、明治憲法発布の祝賀会に呼ばれて、
米俵に筆をさして文字を書く「俵筆の文字書き」を披露。
見事な出来栄えに黒田清隆侯から短刀一振りとお墨付きを賜ったという。

冨虎の銘がある力石「大石」(右端)です。

虎富 (2)
千葉県松戸市下矢切・矢切神社

この神社には神田川徳蔵の「水神」(右)もあります。

img110_2018050912563681d.jpg

でもですね。「はいけつの神さま」の現存する石はこれ1個きり
しかも世話人としてのみ…。

寂しすぎです。


※参考文献/「東京都無形文化財力持力技の復活と私」
        =「荷役一筋の道」平原直 1985
        流通経済大学図書館OB・石坂正男氏提供



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雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
力石(ちからいし)のことを知ってほしくて、ブログを開設しました。主に静岡県内の力石と力石を詠んだ句や歌、力石探しのつれづれを発信していきます。

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