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削られた裏面

今回も「東助碑」の裏面にこだわっていきます。

シツコイ? でもね、物事はこだわりを持つところから進展する。
なんちゃって!

なんせ、これは神田川徳蔵の名誉に関わる問題なので、悪しからず。

東助没年の翌明治25年に建立されたこの碑、
そのときの石工(彫刻師)は山口平四郎でした。
しかし、現在の碑にこの名はありません。

碑の表と裏では石面の肌触りや色が明らかに違います。
たぶん碑の裏面は、大正15年の再建のとき研磨して元の文字を削り、
そこへ新たに刻字をしたのでしょう。
彫刻した人も石工も別の人になっています。

相撲をとる徳蔵(左)
sumou_web_20180419192035566.jpg

で、私、悩みました。
徳蔵さんは慎み深く、常に目上の人を敬い下の者に目をかける
優しく謙虚で道をはずれたことができない真っ直ぐな人物のはず。
お会いしたことはないんですけど…。

それがなぜ、碑を削ってそこへ自分たちの名前を刻んでしまったのか。

「そこまでして目立ちたいのですか」
とまあ、怒ったり気落ちしたり。

そうして逡巡した末、いや、それは違うのではないかと思い始めました。
碑の裏面に刻まれたおびただしい力持ちと台座の千社札著名人たち。
よほどの信頼がなければ、これだけの人たちが賛同するはずがありません。

大先輩の碑に手を加えるという大胆なことができたのは、
震災で損傷した碑は削るしかなく、そのことをみんなが納得したから。

そしてこうも思いました。
悩む徳蔵の背中を最後に押したのは、竪川町の大工の兼吉こと
竪川大兼(たてかわだいかね)だったのではないか、と。

これは、
本町東助が没した翌年に開催された追善力持ち興行の記事です。
img271 (2)
「東京朝日新聞」明治25年7月16日

この興行番付の西の大関竪川大兼です。

大兼はこの大事な追善興行に大関として出場したほど、
生前の本町東助とは親密な力持ち仲間でした。

大兼は東助没年と同じ年に、
まるで東助の生まれ代わりみたいに誕生した徳蔵を、
親身になって可愛がっていたのではないでしょうか。

徳蔵はそうした大兼の気持ちに報いるべく、
震災の翌大正13年、大兼が32年前に担いだ「鳳凰石」を改刻して、
世田谷区の妙壽寺に奉納。

大兼もまた老いの身で、徳蔵の興行にしばしば登場して支援していました。

下の写真は、「神田・佐久間学校にて大石差し」です。

大石を差し上げているのが徳蔵。その隣の黄色の丸が竪川大兼です。
さし石3 (2)

大兼徳蔵、仲よく並んでニコニコしています。

sasiisi3_2 (6)

こんな状況を見て、私は思ったのです。
東助碑再建は、竪川大兼が神田川徳蔵を見込んで実現したのだ、と。

このことから、碑の再建は、
それまで反目していた川並派車力派が初めて一つになるという、
記念碑にもなったのだ、と。

「東助碑」裏面中央に竪川大兼の名が刻まれています。
CIMG0717 (2)
東京都世田谷区北烏山・幸龍寺

神田川徳蔵には、
それだけの力があった
それだけの人徳があった

そういうことだと思いました。


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プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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