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東助碑、倒壊

当時の著名人たちが発起人になり、華々しく報道された「本町東助碑」。
最初、亀戸八幡宮境内に建立するはずでしたが、
なぜか2か月後には、当時、浅草にあった幸龍寺に変更となった。

こちらは現在の亀戸天満宮に残る力石です。
CIMG0869 (4)
東京都江東区亀戸

この幸龍寺は初め、2代将軍秀忠の生誕地、静岡県浜松市に創建されます。
その後、家康の移動に伴い、駿府(今の静岡市)へ移転。
そこから江戸・湯島、さらに浅草へと移転を繰り返します。

そのころの浅草は一面の田んぼ。
田んぼの中の寺ということで、「田甫(たんぼ)幸龍寺」と呼ばれていたとか。
確かに、東助碑の裏面にも「田甫幸龍寺へ建設」と刻まれています。

ところが建立から31年後の大正12年9月1日、
突如関東一帯を襲った大震災で寺は焼失。碑は倒壊してしまいます。

その前後の徳蔵の動き をちょっと見てみましょう。

大正9年ごろと推定される写真です。
みんなで俵上げに興じています。

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埼玉の研究者・斎藤氏によると、
川は隅田川。川向こうに見えるのは旧国技館。鉄橋は総武線鉄橋とのこと。

斎藤氏は国技館の形から、この写真は震災前の大正9年ごろと推定。

足元にはバーベルが置かれています。
当時の日本ではまだウエイトリフティングもバーベルもないころです。
徳蔵はどのようにしてこれを手に入れたのでしょう。

ここでも徳蔵の進取の気性と先見の明を見ることができます。

20171021123623e1a_20180403193123bbe.png

そしてこの3年後、あの大震災です。

奇跡的に焼失をまぬがれた神田川米穀市場の人たちは、
被災者への炊き出しなどを行い、
徳蔵は親方の娘・おスミさんを捜しに本所・被服廠跡へ行きました。

それから2年後の大正14年4月、「いせ万」こと大西浅次郎死去。

この人は神田多町の青物問屋の伊勢屋万次郎の2代目で、
「東都納札会」に所属し、千社札の蒐集家としても知られた粋人。

同じ千社札の仲間だった徳蔵は、
この大先輩を悼み、力持ちたちによる追悼会を開きます。

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赤丸は「いせ万」の祭壇。

そして震災から3年後の大正15年
浅草・幸龍寺の焼け跡に廃棄されたままの「東助碑」の再建に、
徳蔵は並々ならぬ熱意で取り組みます。

こちらが徳蔵の手で身延別院に再建された
「力士本町東助碑」です。

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碑の台座は、徳蔵が新たに加えたもので、
千社札の仲間たちの名前が刻まれています。
そして、碑の周りには力石が置かれています。

次回以降、詳しく見ていきます。

さて、この大正15年という年は、
徳蔵が最も精力的に動き始めた年でありました。

その原動力となったのが、
徳蔵自身、社会的に責任ある地位に上り詰めたことではなかったか、と。

ともあれ、そういう記念すべき年がこの大正15年であったのです。


          ーーーーー◇ーーーーー

※冒頭の「東助碑」以外の写真は、
  神田川(飯田)徳蔵のご子孫から提供されたものです。
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プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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