発起人たち

※「相撲の土俵の一件」付け足しました。

東都力持ち界の中心人物・本町東助こと(浪)野東助は、
怪力の人でもあり、風雅の道を極めた人でもありました。

その東助、明治21年に自らの引退披露のための「書画会」を開催。
その様子を無二の親友、河鍋暁斎が描いたのが下の絵です。

東助は米俵につけた筆で書をしたため、風雅と力技を披露しています。

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酔うて候ー河鍋暁斎と幕末明治の書画会」成田山書道美術館・
河鍋暁斎記念美術館編 思文閣出版 2008より

この3年後の明治24年、東助はこの世を去ります。
そして翌明治25年、東助を讃えた「力士本町東助碑」が完成。

それを報じた新聞記事です。

「東京朝日新聞」明治25年5月22日号
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新聞にはこうあります。
「碑の題字は永く東助を贔屓(ひいき)にせし黒田伯がふるわれたよし」

黒田伯とは第2代総理大臣だった黒田清隆のことです。
江戸和竿師の初代竿忠さんもこの黒田伯御ひいきの竿師だったし、
竿忠さん自身も素人力持ちの仲間に入っていたから、
東助さんとは顔見知りだったのかもしれません。

さて、この碑の発起人には、
書画会のとき名を連ねた人たちがここでも登場しています。

どんな人たちかというと、

暁斎と「なまず絵」を制作した最後の江戸戯作者仮名垣魯文
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同上。「暁斎絵日記」より

魯文は、天秤棒を担いで行商するボテフリの魚屋のせがれ。
困窮する家のため、8歳で酒商へ10年の年季奉公に出されます。
そこで開眼したのが戯作(通俗小説)の世界です。

しかし、当時の戯作者のほとんどは武士で、戯作はあくまでも道楽。
つまり今でいう原稿料などナシ。なくても困らなかったのです。

でも定職のない魯文ですから戯作だけでは食べてはいけず、
パトロンに盲従して生きることを余儀なくされた」

「吉原へ行ってもパトロンと同等のおいらんを相手にすることはできず、
常に一段低いおいらんを与えられていた魯文には、生活のため、
ピエロに甘んじる悲しさがつきまとっていた」
  =「仮名垣魯文」興津要 有隣堂 平成5年=

そのパトロンの一人に、大伝馬町の豪商・勝田某がいます。
こちらが暁斎が描いたその勝田某こと勝田五兵衛です。

img064 (2)

明治の文明開化時代になって、戯作者としての知名度もあがり、
ジャーナリストとしての才能も開花してきた魯文でしたが、
それでも明治8年から始めた新聞発行で定収入を得られるまで、
この悲しきピエロ暮らしは続いたそうです。

ですから東助の書画会や東助碑に発起人になった明治21年、25年は、
魯文の絶頂期だったのかもしれません。

さて、東助碑に戻ります。
碑の発起人にはほかに、相撲取りの高砂浦五郎や馬術の草刈庄五郎
剣術家の榊原健吉などがいます。

草刈庄五郎にしても榊原健吉にしても、江戸時代は将軍家に仕えた
高位の武士でしたが、幕府崩壊でその地位を失います。
そこで健吉は剣術の技を生きる糧として、
撃剣会を立ち上げて見世物興行をするようになります。

無禄になった侍が刀を鍬に換えて茶園の開墾に苦労した話は、
以前、ブログに書きました。
版画家の小林清親も静岡へ移住後は、
一時期、漁師になったり榊原健吉の興行に出たりしていたそうです。

その小林清親の版画「元柳橋両国遠景」について、以前、長々と書きました。
版画の中の柳の木の下に描かれているのは、、
柴田幸次郎が持ったという「大王石」ではないか、と。

小林清親「元柳橋両国遠景」 千葉市美術館蔵
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「小林清親」練馬区立美術館・静岡市美術館編 2015より 

確証を得たいと思い、手当たり次第資料を当たったものの、さっぱり
そこで昨年、清親の著書もある某美術館の館長さんにお聞きしたのです。
館長さんから丁寧なお返事をいただきましたが、
「絵の中の”力石”のことには全く気づきませんでした」とのこと。

がっくり!

でも「暇をみて少し調べてみたい」とおっしゃっていたので、
すご~く期待しているところです。

さて、こちらは暁斎が描いた榊原健吉の錦絵です。

「榊原健吉吉山遊行之図」
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「戯画と笑いの天才絵師・河鍋暁斎」河出書房新社 2014より

で、この東助とは毎日酒を酌み交わすほどの仲良しだった暁斎さん。
東助碑建立の発起人に、
イの一番に名前が出てきてもいいはずなのに見当たりません。

それもそのはず、
実は暁斎さん、東助さんがこの世を去る2年前に、
ひと足お先にあの世とやらへ旅立ってしまっていたのです。


     ーーーーー◇ーーーーー

相撲の土俵から救命措置をした女性たちが下されたって聞いて、
ひと言言いたくなりました。
「女性は穢れた存在だから神聖な土俵にあげてはいけない」-。
まだそんな盲説がまかり通っているんですねぇ。
昔々は女性しか神に仕えられなかった。その後仏教が入ってきて、
「女性は穢れている」といって排除。

で、稚児というのがいたでしょ?
寺の坊さんなんかが女性の代わりに性の相手をさせた子供。
女は穢れているけど、男の子でしかも子供なら穢れもない。
それと交わることで身が清まるなんて信じていた(言い訳もあって)。

今も祭りで男が女装するでしょ?
あれはやっぱりここぞというときは女性でないと神の効力がないから。
「女があがると土俵が穢れる」って、これ、「伝統」ですか? 、
なら、女相撲はどう解釈します?
今神社では女の子も土俵へあがるし、
赤ちゃんの泣き相撲に差別はありませんよ。

大相撲さん、穢れとか伝統って意味、間違って使っていませんか?
第一、男もみんな「穢れた女」から生まれたんですよ。どうします?
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こんにちは

仮名垣魯文 悲しきピエロ暮らし

本題からそれて申し訳ないですが
こちらに興味を惹かれました。

しかし姫の調査力には敬服のみです。
私もこんな仕事ができればと思いますが
戯作のオファーがきたときだけちょこちょこっと
その時代を探るだけというなんともお恥ずかしいかぎり。
ため息が出ます。

こんにちは

調査力だなんて、お恥ずかしい。ただの他人様の著作からの孫引きです。
でも仮名垣魯文って一時は時代の寵児でしたが、晩年は次々出す新聞が時代に合わなくなったり、溺愛していた息子にも死なれたりでやっぱり「悲しき…」で終わっています。
でも人間なんてみんな似たようなものかもと思ったりしています。

ちい公さんは作家さんでしたか。
どんなものをお書きになっているのか興味津々です。

おはようございます

相撲協会の教育方針でしょうね。

力士にしろ行司も、皆母親から生まれます。
現代社会においては、可笑しな風習もあったものです。

元々は、天照神から日本は女性の方が上では?
過去には女性の天皇も数々存在しています。

行司=相撲協会のしきたりどおりの言動なんでしょう。
近年は「女だてら」と言う言葉はありません。

現に、五輪などで活躍の女性達の記録に、
普通の男性など足元にも及びませんからね。
自衛隊・警察なども女性の上司は増えてきました。
今は、男は口先だけの過去の亡霊が多いようです。

政治家には男女を問わず不適切な人間が居ますね。
まあ、どこにでも勘違い人間や過去に縛られる人間がいます。

あ、本題の方です。記事には感心しきりです。
毎回楽しみにしています。

毎年6月に鬼平忌で四谷に行きますが、
途中に「榊原健吉」の墓があり、何時行っても、
墓前には酒が供えられています。

No title

少しムカッとしましたが、でもいつまで「女は不浄」というのかとがっかりしています。
現在も神社で行われている神事としての相撲とプロの相撲取りの大相撲は似て非なる物だと思っています。スポーツ興行だと思っています。

榊原健吉のお墓ですか。いいですねえ。鬼平忌も羨ましいです。
今日は仕事のあと会議で、
さっき帰ってきたばかりですのでお返事が遅れました。
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
力石(ちからいし)のことを知ってほしくて、ブログを開設しました。主に静岡県内の力石と力石を詠んだ句や歌、力石探しのつれづれを発信していきます。

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