検証します

埼玉の研究者・斎藤氏がこれまで新たに発見した力石は、
684個にものぼります。まさに驚異的な数です。

これに先人調査者の誤読を見つけて訂正した力石を加えれば、
その数はさらに増えます。
その一つが千葉県野田市今上下・八幡神社の「万治石」だったわけです。

ちなみに万治は江戸前期。
長野県下諏訪町の「万治の石仏」、あの時代です。

「万治の石仏」です。
の石仏万治
長野県在住のすくなひこな様のブログ「音 風 水」からお借りしました。

さて、斎藤氏が力石に関わってからすでに20数年。
そのキャリアに加え、路上観察で鍛えた勘の冴えと、
居住地の埼玉を起点に、関東一円を徒歩と自転車でコツコツ訪ねるという
気の遠くなるような根気と努力が684個という数字を生み出したといえます。

「万治石」について、斎藤氏からのお話を中心に検証していきます。

2009年3月30日、野田市今上下の八幡神社を訪れた斎藤氏は、
境内で、土止めにされ埋もれた力石を見つけます。
すでに公表されている「千葉の力石」(2006年刊行)の記載通りに、
「明治」の「明」文字が出てくるかと思いつつ土を払って見ると、どうも違う。

このとき出てきたのが右端の文字です。写真からも「万治」と確認できます。
拡大万治石

で、「これは万の異体字ではないか」と気が付いた。

さらに「三月日」という日付を見て、
埼玉県久喜市の日本で2番目に古い「万治石」が頭に浮かび、
その石の「九月日」という表現に共通していると思ったそうです。

下の写真は久喜市・八幡神社の力石です。

黄色の矢印が日本で2番目に古い「万治石」。年が判読不能なため
「九月日」から判断して、年代は1658~1660年の間と推測。
二つに割れています。
赤の矢印は日本最古の力石「寛永九申年」(1632)。

2樋の口
埼玉県久喜市樋の口・八幡神社

翌31日、再び現地へ。
持参したシャベルで掘り出し、石の表面を水で洗い流すと、
「万治四年」がくっきりと現われた。間違いない。

「いい知れぬ感動がこみ上げてきて、こりゃ凄い石を発見したな、と」

何枚も写真を撮り、帰宅後何度も見直す。
「やっぱり、明治ではなく万治だ」と確信。さらに念には念を入れて、
翌4月1日、2日と再々調査に赴き「万治」と確定し師匠に報告した。

ここから、検証に入ります。

この石が誤読された原因の一つは、
先行した調査者のいくつかの思い込みにあったのではないでしょうか。

まず「明治四年」と読んでしまったことで、左側の「吉」文字を反射的に、
明治4年の干支にあたる「辛未(かのとひつじ)と思い込み、
「明治四辛未年」としてしまった。

※ここでは、この部分を、
 草字体の「吉」とした斎藤氏の判読を正しいものとして話を進めていきます。
 いずれにしても万治四年は「辛丑」なので、「辛未」は間違い。

絵万治石
  =下手な手書きですみません!=

さらに石の傷などを人為的な刻字と勘違いして、
「三月日」の「三」を「五」と読んでしまい、「五月日」と断定してしまった。
そういうことが推察されます。

なぜ、「五月日」の「五」が完全な間違いかというと、
実はこの万治という年号は、万治4年4月25日をもって改元され、
それ以後は寛文元年になったからです。
ですから、「万治四年五月」はありえないのです。

学識豊富なベテランでも誤読してしまった例をお話します。

当地在住で戦国大名・今川氏研究の第一人者の先生は、
桶狭間で討死した今川義元の寺の小僧時代の名、
「栴岳(せんがく)承芳」の「栴」の文字を「梅」と思い込み、
わざわざ「ばいがく」とルビを振るという誤読を長い間してしまいました。
おびただしい出版物にもずっとそう書いてきたのです。

しかし近年、それは間違いと指摘され、自らの誤読を認めて即座に訂正。
講演会などの公けの場できちんと謝罪されたため、むしろ好感を持たれ、
歴史愛好家たちの先生への信頼は、少しも揺るぎませんでした。

既刊の「梅岳」は消せませんが、私は納得済みで本は今も持っています。

樋の口八幡神社
日本で1番と2番に古い力石を有する久喜市樋の口の八幡神社。

浅学の若輩者の私が、大先輩の誤りを指摘するのは恐れ多い事ですが、
あえて申し上げます。

今回のこの問題は、すべて最初に「明治」と誤読したことから始まっています。
たとえて言えば、「初動捜査ミス」

古文書の解読は難しく、
ベテラン同士が解読を巡って議論することは珍しくありません。
まして力石の刻字は絵文字めいたものもありますし、石も破損や埋没で、
判読は容易ではない。いつも初心に帰ることが求められます。

本来ならこの調査とは無関係の、しかも他県の私が介入することでも、
市役所が動くことでもありません。
また、誤読自体、それほど目くじらを立てるほどのものでもない。

ただ地元調査者が誤読を知った時点で、
八幡神社や愛宕神社の氏子総代さんに伝えなかったことが悔やまれるのです。
また「すでに伝えた」のであれば、
誤読を見つけ、「千葉県最古の力石」の発見に貢献した斎藤氏へ感謝し、
その経過なりを伝える礼儀があっていいのでは、と思うのです。

暮れの電話で、「貴重な情報をいただき、感謝しています」
とおっしゃった野田市役所職員の言葉は、そのまま斎藤氏に伝えました。
斎藤氏が嬉しさのあまり、その晩したたかに酔ったことは前回書いた通りです。

幸い石は無事ですから、
今後はきっといいカタチになっていくと信じております。
願わくば、この「千葉県最古の力石」のことを、
市の広報紙で市民のみなさんへ知らせていただけたら、と思っております。

次回は、私が関わった調査から保存に至るまでのお話をしていきます。

 ※少々熱くなりすぎまして、申し訳ありません。


<つづく>

※「万治の石仏」以外の写真はすべて斎藤氏提供

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No title

へ、これだけ?
私はてっきり万治の石仏と力石との大格闘でも起きるのかと思ってました。万治の石仏は相変わらず座ったまんま。しかし石の上にも三年といいますけれど七百近い力石の解読とはすごいことですね。今回の先生の偉業に私の写真が少しなりともお役に立てて光栄です。

写真使用、ありがとう

ごめんごめん!これだけなんです。
「万治」といっても、いつの時代かピンとこない方もいらっしゃるんじゃないかと。それで有名な「万治の石仏」、使わせてもらいました。

昔の若者は石仏や住職の墓石を好んで力石代わりにしていて、坊さんたちは担がれるのを好んだんです。僧侶の中には生前、力石を提供して死後、自分の墓石にしてくれといった人もいますから、万治の石仏の動く仏頭もかつて力石にされていたなら、おもしろいなとちょっぴり。

なぜ、墓石や石仏を担がせたかというと、若い力がたくさん注入された石は縁起がいいんです。妊婦が安産を願って力石を撫ぜたのもその「特別な力」を信じていたからですけど。
これに懲りずにまた写真、使わせてください。
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
力石(ちからいし)のことを知ってほしくて、ブログを開設しました。主に静岡県内の力石と力石を詠んだ句や歌、力石探しのつれづれを発信していきます。

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