キッコーマンと力石

このまま「本町東助碑」神田川徳蔵へ突入するはずでしたが、
ここでちょっと寄り道。

昔、旧東海道(静岡県内)を新聞に連載していたときも、私は寄り道ばかり。
道の歩き方は、目的地めざしてわき目もふらず、などと人それぞれ。
ですが私は脇道に足を踏み入れては話を拾い集めていた。

そこには埋もれたままの「昔話」がたくさんあったからです。

つらつら考えれば、この寄り道の習性はどうやら私の人生そのもの。
山があれば谷もあった。思わぬ出会いもあれば恐怖や怒りも生じた。
でもまあ、平たんでなかっただけに、なんと味のある人生だったことか、
「だった」とはまだ言いたくないけど、そんなふうに自分を慰めております。

とまあ、言い訳はこれくらいにして、「醤油醸造」力石のお話です。

「醤油醸造」とはまた唐突な、とお思いかもしれませんが、
これには「勝文斎椿月」という押絵細工師がからんでおります。

こちらが河鍋暁斎が描いた「勝文斎椿月」です。
img069_2017120217253782d.jpg
「酔うて候 河鍋暁斎と幕末明治の書画会」より。
河鍋暁斎記念美術館蔵

勝文斎は河鍋暁斎本町東助と無二の親友でした。

まずは、醤油醸造に関するお話からお聞きください。

こちらは野田市の野田市郷土博物館前庭に置かれた「力石群です」
と言いたいところですが、正しくは、
「醤油の諸味(もろみ)を絞る際に使われた吊り石」です。

5野田市力石
千葉県野田市野田・野田市郷土博物館  斎藤氏撮影

説明板にはこうあります。
「100㎏前後の自然石の吊り石を、麻や藁などの太縄の一端にかたくしばり、
締木に吊るし、梃子(てこ)の原理を応用して諸味をしぼった」

しかし、この吊り石を力石に転用したと思われる石が、
上花輪の「高梨本家上花輪歴史館」にあります。

同歴史館には邸内に無数の吊り石が置かれていますが、
その中に刻字の力石が2個、確認されています。

 「奉納 四十二メ目 □□村 若者中」 53×30余×30㎝
② 「二十七メ」 45余×30余×5余㎝

寸法の「5余㎝」というのはあまりにも狭いと思ったので、
これを調査した斎藤氏にお聞きしたら、こういうことでした。

「この石は土に埋まっていたため、地上に出ている部分しか計測できなかった。
掘ってみればもっと大きな楕円形の石だと思う」

納得です。そうすると刻字は、
「二十七メ」だけではなく、もっとあったかもしれないですね。

「高梨本家上花輪歴史館」=国指定名勝庭園=です。

家高梨
野田市上花輪。  野田市HPよりお借りしました。

この「上花輪歴史館」は、
野田の醤油醸造の草分けだった高梨本家の建物で、
現在は建物、庭園を公開した醤油醸造の歴史館になっています。

すごい門構えですねぇ。栄華を極めた往時を物語っています。
野田・上花輪村の名主だったそうです。

この高梨家が寛文元年(1661)に、翌年には茂木家が醤油醸造を始めます。
その後次々と分家したため、醸造家が増えていき、
幕末には野田は関東第一の醤油産地になったそうです。
そして、大正6年、
高梨家、茂木家など醸造8家が合同で「野田醤油株式会社」を設立。

これが現在の「キッコーマン」です。

この「キッコーマン」の会社名は、
茂木家の商標だった「亀甲萬(きっこうまん)からの引用だとか。
そうか、だからマークは六角形(亀甲)に「萬」だったんだ。

この茂木家の本家は、2006年に「茂木本家美術館」を開館しているんです。
高梨家が歴史館、茂木家が美術館、なんか素敵ですね。
鬼に笑われそうだけど、来年、この辺りに出掛けてみようっと。

こちらは最初にご紹介した野田市郷土博物館前庭にある
「醤油圧縮機に使用された重石」です。

4野田市力石
斎藤氏撮影

野田市や銚子市などで、なぜ醤油醸造がこんなに盛んだったかというと、
この地域は、
大豆や麦などの原料が入りやすい、水が豊富、利根川などの水運の発達、
大消費地の江戸に近いなど、好条件が重なっていたためと言われています。

仕事にも娯楽にも、
石を担いで汗を流していた若者たちのたくましい姿が垣間見えます。

思わず、
がんばれがんばれ玄さん! 

といっても、これ、1982年以前生まれの人しか知らないですよね~。 
      
        
         ーーーーー◇ーーーーー

※画像提供/野田市HP
      /「酔うて候 河鍋暁斎と幕末明治の書画展」
成田山書道美術館・河鍋暁斎記念美術館編 思文閣出版 2008
※画像・情報提供/斎藤氏
※参考文献/「千葉の力石」高島愼助 岩田書院 2006

※公益財団法人「高梨本家上花輪歴史館」野田市上花輪507
           ☎04-7122-2070
※野田市郷土博物館/野田市野田370-8 ☎04-7124-6851
※茂木本家美術館/野田市野田242 ☎04-7120-1011

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No title

野田醤油ってブランドほかになかったでしたっけ。キッコーマンが野田醤油だったんですね。
目の前の重いものを持ち上げて力比べって男って単純で子供ですよね。

おはようございます。

野田にはほかに「キノエネ」があります。
銚子には「ヤマサ」「ヒゲタ」。愛知県には「イチビキ」。
味噌、醤油にしてもお酒にしても醸造の世界はおもしろいですね。

機械化されるまでは何でも人力に頼りましたから、力のある男は収入がよかったんです。経済力があると女にモテますしね。だから日ごろから鍛えたんです。でも昔の女性も力持ちでしたよ。

力仕事をやった後、また重い石を担いで遊んだというのは私もなかなか理解できなかったのですが、まあ、単純と言えば単純ですね。
でも力持ち興行の力士以外は、みんな生業を持っていたし、そう年中、石を担いでいたわけではないんです。

仕事の後は小唄、端唄、狂言を習ったり寄席で楽しんだり、なかなか粋だったみたいです。ただ昔の若者は祭り好きで酒飲みでケンカが多かった。

こんばんは

かなり前に工場見学したときに、
鉤手の付いた石は見たような気がします。

今なら、もっと感激して眺めたでしょうね。
力石の説明があったのかも覚えていませんが。

江戸から明治になっても、伝統は守られたようです。

現在も、力持ちは女性にもてますね。
相撲取り、格闘技の選手、野球の選手など、
大男は人気がありますからね。
古くからの諺に反して、今は大男=金持ちですね。

昨今の相撲界も、不穏な親方や力士がかき回していて、
折角の相撲が面白くなくなっています。
まあ、昔から「力士=男芸者」と言われてましたから、
立ち居振る舞いが美しいと見るほうも楽しいのに。

プロレスやボクシングのような格闘技とは違いますから。

こんばんわ

父は相撲が好きで、母はプロレスが好きでした。
でも私はスポーツ全般がダメで、特に格闘技は全くダメ。1対1で相手と組んで争うというのが耐えられなくて見ていられませんでした。

母はテレビに向かって「それ、やっちまえ!」なんて熱狂していたんですが。
父は静かに観戦していましたが、子供心に何度も塩ばかりまいてなかなか始まらないのが退屈でした。でも父は外国人が入るようになってからあまり見なくなったような気がします。

江戸時代の力士は美しいですね。錦絵で見るせいでしょうか。殿さまお抱えで結構いい暮らしをしていたせいか優雅です。確かに男芸者ですね。
和歌山だったか、それまでの力まかせの相撲に柔道の技を取り入れて、今の相撲の原型を作った力士がいました。以後、力持ちは相撲取りとして通用しなくなったなんて話を三田村鳶魚が書いています。

No title

がんばれがんばれ玄さん!

懐かしいですね~。 
あのCFで元気づけてくれた可愛い少女、今はどこで何をしてるのかな~。

No title

間下このみちゃん。
もうすっかりおばさんになっちゃったでしょうね。
でもあの可愛らしさは変わらないと思います。
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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