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俗も聖域

末尾の参考文献からお借りして、今回も暁斎さんと東助さんを続けます。

明治17年8月25日の「暁斎絵日記」に描かれた本町東助です。
東助の本名は「波野」。絵日記には「浪野」と書かれています。

img784.jpg

東助は暁斎の終生の友だったそうです。
暁斎はこの絵を描いた5年後の明治22年にこの世を去り、
東助はその2年後に友の待つあの世とやらへ旅立ちました。

絵日記に描かれる東助は、いつも酒の肴(さかな)持参です。
前回ご紹介した絵には、「伊豆大嶋のひもの、するめ」
この日は「ナマコ」「蟹」

img061_201711131554540e9.jpg

こちらの絵には、こんな添え書きがあります。
「東助が祝いか、立派な半てんを着て、星ザメを持ってやってくる」

img787.jpg

で、暁斎先生、嬉しさのあまり興に乗って、
「♪ 飲んで~飲んで~、飲まれて飲んで~」

img062.jpg

我らが東助さんをこんなに描き残してくれていたなんて、とっても嬉しい。
ですが、肝心の力石を差し上げている絵がないんですよねぇ。
それがチト寂しい。

でも今回、ひとつわかったことがあるのです。
以前、蒔絵師で日本画家の柴田是真を調べたとき、
本に「是真は暁斎とは不仲だった」との記述がありました。

不仲の原因は暁斎の入牢。
明治3年、書画会で描いた戯画を官憲に咎められて暁斎は入牢の憂き目に。
この時ひどい皮膚病にかかったため、いったん釈放され翌年、再び収監。
そして、50回のむち打ちの刑を受けた。

明治になってもこんな刑罰があったんですね。
それも諷刺画を描いただけで…。

で、是真はこれをきらって交際を断ったというのですが、
どうもそれは間違いじゃないか、と。
だって是真と暁斎は合作をしているんですよ。

入牢前から入牢中を経て明治5年までかけて描いた
「地獄極楽めぐり図」全40図の画帖の箱に、是真が影絵肖像画を描き、
入牢から15年後の明治18年には、
一枚の紙に是真が滝を、暁斎が鯉を描いた「鯉の滝登り」がありますから、
不仲だったとは到底、思えません。

暁斎は牢から出されたその年に、静岡県沼津市に住む母を訪ねています。

その母は翌年死去。沼津市の本光寺に葬られます。
明治20年、母と兄の供養のため、「枯木寒鴉の図」の碑を建立しますが、
残念なことにこの寺は米軍の大空襲で焼失、移転してしまいました。

こちらは書画会での暁斎さん。
img058 (2)

即興で200枚ほど描いて「もう描けない」と手を振っているところだそうです。

いっぺんに200枚描いたからと言って、描き散らしたわけではない。
緻密さと何度もの推敲を重ねた下絵を見れば、
恐るべき努力の人でもあったことがわかります。

7歳で浮世絵師の歌川国芳に、10歳で狩野派に入門。
抜きん出た才能のため、19歳という異例の若さで修業を終えた暁斎。
筆先から走り出るひと筋も、ただの一本の線ではなかったはず。

愛弟子のジョサイア・コンドルが師・暁斎を描いた「暁斎先生日光にて」
img063_20171113155854ae7.jpg
河鍋暁斎記念美術館蔵

木下直之東大教授は「別冊太陽」の中で、
暁斎以前と以後について、こんな風に語っている。

他人が見守る中で描く書画会。
筆の代わりに棕櫚(しゅろ)ぼうきを使い、たった4時間で仕上げた芝居の引幕。
しかもその時暁斎は酔っていた。
このすべてがその後の画家たちに嫌われてゆく。

画家はアトリエという名の密室、あるいは聖域に籠り、…略…、
完成作のみを展覧会に出品する。
観客はそれを黙って眺める。会場での会話、飲食は厳禁である。

これが、美術鑑賞と呼んで、
われわれが身につけてきたいささか窮屈な態度である。
そして、暁斎の絵の中にみなぎる力やスピード、笑いや楽しさ、
パフォーマンス性を見失う結果となった」

私は記者時代、
プロアマ約80人ほどのアーチストのアトリエを訪問したことがあります。
そのときほんの一握りでしたが、彼らから言われた言葉がまさしく、
「アトリエは私の聖域です。他人を入れたくありません」でした。

「聖域…。作品を生み出す大切な場所だもの、そうかもしれないな」
と理解しつつも、違和感があって、こんなことも思った。
実力さえあれば、聖とか俗とか関係ないんじゃない?

ことに現代アートの人から「聖域」とか「芸術家は繊細」とか、
「この絵が理解できないとしたら、絵にではなく観る人に問題があるのですよ」
なぁ~んて言われたときは、思わずで叫んじゃいました。

「鼻持ちならねェー!」

とまあ、昔話はこれくらいにして…。

こちらは日光へ写生旅行に出かける暁斎と愛弟子のコンドルです。
暁斎は「コンデール君」と呼んでいたそうです。

img060 (2)

浮世絵や狩野派の正統派絵師の暁斎ですが、新し物好きでもあったらしく、
西洋の技法もどんどん取り入れたそうです。

暁斎さんには日本人とか外国人などというシチめんどくさい区別など
サラサラなかったのだと私は思う。
そして暁斎の感性は異国人の感性をより強く刺激したのかもしれないとも。

ともかくそんな暁斎の周りには、たくさんの異国人が集まった。
その一人が建築家のジョサイア・コンドルでした。

日本人の近代建築家を育て、自身も鹿鳴館やニコライ堂、
三井倶楽部などを手がけた人で、
暁斎から「暁英」の画号をもらったそうです。

ここまで書いて、私、ふと思ったんです。
暁斎の父親の生家は米穀商、父親は定火消し同心だったそうですから、
やはり力持ちとは縁があるのではないか、と。

で、だんだん面白いことがわかってきました。

是真は暁斎と親交があり、その暁斎は力持ちの東助と親友で、
その東助の碑に揮毫したのが二代総理大臣の黒田清隆
その黒田清隆がこれまたひいきにしていたのが初代「竿忠」の忠吉で、
忠吉は「酔っぱらいの絵師、暁斎」を知っていた。

その忠吉は地元の若い衆たちの力石仲間で、
是真も仕事の合間に石担ぎをし、是真の知り合いのおもちゃ博士、
清水晴風は番付にも載るほどの力持ちであった。

みんな、つながっているんです。

  ーーーーー◇ーーーーー

※河鍋暁斎の父親の生家は、
下総国古河石町5672番(茨城県古河市中央町2丁目3番51号)。
古河の米穀商・亀屋和井田庄左衛門)。

米穀商とくれば、神田川米穀市場のように、
神田川徳蔵一派で活躍した荷揚げの男たちが働いていたはず。
「亀屋」の力持ちや力石に関する情報をお寄せいただけたら幸いです。

※参考文献・画像提供/「河鍋暁斎絵日記」河鍋暁斎記念美術館編 
               平凡社 2013
               /「別冊太陽 河鍋暁斎・奇想の天才絵師」
               安村敏信監修 平凡社 2008
               /河鍋暁斎記念美術館

※今回もたくさんの画像をお借りしました。ありがとうございました。
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バンコクからこんにちは

Chikara hime sama.

Thank you so much. I knew from my husband said you praise me clever.
I can control chains connected to my husband
Sometimes if my husband talked in no good word such as I look like obasan.
That time I will use chain to pull him every time.
HaHaHa
さよなら またね~

ニッポンからこんばんは

PERNさま。

日本では馬の手綱になぞらえて、
夫を上手に操縦することを「妻の手綱さばき」といいます。

エレガントで可愛くて理知的なPERNさん、手綱さばきはバッチリですよ。
でもちょっとでもゆるめると「馬」は暴走しますから、油断大敵。

でもちい公さんは愛妻家ですから、大丈夫です! 
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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