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光明

今日のブログは長~いです!
よそんちのごくごく個人的な歴史をお読みいただくのは申し訳ないと思いつつ。

     ーーー❤ーーー

父を青ざめさせた「神主が横領云々」の文言は、その本の著者によると、
「延宝六年、厚原・曽我八幡宮の神主、細川喜太夫が、
伊豆の河津三郎兵衛に宛てた宝物借用願いの中にあった」という。

そこに書かれていたのは、
貸した宝物は河津三郎兵衛代々の系図や正観音など五点。
しかし出開帳のあと、四点は江戸の河津家へ返されたものの、

「弘法大師作・守り本尊は、いまだ返り申さざるなり。
そのころの神主細川というもの、今いづれになりしやしらず

という文言で、借用願いの末尾に書き入れてあった追記だという。

それを受けて、「宝物は戻されていなかったようで、紛失したのか、
神主が横領して行方をくらましたのか不明だが」と著者が書き添えてあった。

ここに出てくる河津家とは、あの曽我兄弟に連なる「河津一族」です。

下の写真は、古い話ですが、
昭和31年(1956)製作の映画「曽我兄弟・富士の夜襲」に使った装束です。
なんと、映画会社東映から曽我八幡宮に奉納されたもの。
十郎役の東千代之介(30歳)と五郎役の中村錦之助(24歳)が着た装束で、
十郎の愛人・大磯の虎は高千穂ひづるという女優さんが演じたそうです。

ちゃんとサインもあります。
img834.jpg img684.jpg
   
なんでそんなものがここにあったかというと、
東京から帰郷した伯父の後妻さんの熱心な働きかけがあったからで、
そのためみんなから「やりすぎだ」と物笑いにされたとか。

この後妻さん、白い顔に細い切れ長の目をした冷たい感じの人で、
国学院大学を出て神職の資格を持つ才媛だと、ほかの伯母たちが言っていた。

子供のころの私はこの人が怖くて、
今でも稲荷神社の陶製の白いキツネを見るとドキッとします。

でも、この後妻さんは伯父ですら関心を示さなかったこの家の事に興味を持ち、
国会図書館へ通い、ついに一冊の本にまとめたという執念の人でもありました。
でも現在は、文書などと共にこの装束も紛失してしまい、保管庫は空っぽとか。

話を戻します。
この「横領話」を読んだとき、私はこんな疑問を持ったのです。

厚原の曽我八幡宮が伊豆の河津家へ出したという借用書を、
なぜ、よその八幡宮(上井出)の宮守が持っていたのか。
それにその追記は、いったい誰が書き加えたのか。

「伊豆」と書いてあるが、河津三郎兵衛は江戸・下谷に住む旗本。
本拠地は伊豆であっても、願書(ねがいしょ)は江戸の河津家へ出すはず。
宝物四点は「江戸の河津家へ返されたが…」と追記はいうのだから。

この借用書の全文を見たかったが、これが収録されているという
地誌「駿国見聞抄」は市史にも県史にも見当たらなかった。

埼玉県に、この地誌に興味を持った人がいたらしく、
埼玉県立久喜図書館から著者へ問い合わせをしたことがネットに出ていたが、
「この地誌は一般公開はしていない」との返事だったという。

このことが著者のいう「一般の人の目には触れない資料を自分は持っている」
という、やや優越感を誇示した言い方になったのだろうか。

それにしても埼玉県にまで、「横領話」が知られていたなんて。
いったん世に出た活字は生き続けるのだ。暗澹とした。

しかし捨てる神あれば拾う神ありで、ひょんなことからこの一件は急展開。

10年ほど前のある日、私は静岡県立図書館の棚に、
大宮町(富士宮市)の役人だった佐野与市(角田桜岳)の日記を見つけて、
思わず、あっ!と声をあげた。

佐野与市(角田桜岳)です。
岳角田桜
富士宮市HPからお借りしました。

この佐野与市こそ、例の本の著者が、
「横領」の典拠とした借用書が収録されているという
未完の地誌「駿国見聞抄」の編者だったからだ。

早速「角田桜岳日記(一)」(2004年解読。富士宮市教育委員会)から読む。

例の本に、桜岳が地元の古文書を集めて「駿国見聞抄」を編んだのは、
天保13年の事とあったが、
日記はその一年前の天保12年から始まっていた。

桜岳はたびたび江戸・下谷の河津家に出入りしていた人で、
河津家の三郎太郎とは親しく話をする間柄だと書いてあった。

この三郎太郎というのは、河津三郎兵衛の嫡男・祐邦のことで、
この人はのちに、江戸幕府最後の長崎奉行を務め、
幕末の文久三年(1864)、横浜港鎖港を話し合うため、
池田遣欧使節団の副使として渡仏した。

下の写真はチョンマゲに刀を差したこの一行が、
エジプトのスフィンクスの前で写した珍しい一枚です。

エジプト池田遣欧使節

祐邦は、桜岳が出入りしていた頃はまだ若殿であったが、
この若殿は、ことのほか「曽我物語」に関心を持っていたようで、
その話の中に、なんと父の先祖が登場していたのです。

それが出てくるのは天保13年の日記からで、
桜岳は河津家を訪問した折りには、
曽我社の江戸での出開帳をたびたびお願いしていたと書いていた。
そして三郎太郎が語ったこととして、こんな話を載せていた。

「延宝のころ、先祖が曽我社へ参詣せしに、曽我の神霊白蛇二匹出(い)で、
明(ひ)らけ置きたる扇の上に乗り、こけら二枚を残し去りしとなん。
そのこと秘して語らざりしを、五万石の伊東氏へ話せし」

「延宝年中、先祖浪人いたし、厚原村曽我八幡神主雨の宮方にて、
一年も居候よし。そのころ、細川と申す神主もありしよし」

細川喜太夫の名が記された曽我八幡宮「神領寄進状」です。
img500.jpg

名前の部分を拡大したのがこちら。
赤丸の中に喜太夫。矢印は寄進状を出した旗本・日向半兵衛正道。
時は寛永七年(1630)。江戸初期です。

img500 (3)

雨宮は古くから「あめのみや」と呼ばれていました。
桜岳は日記には忠実に、わざわざ「の」の字を入れて書いていた。

例の著者が示した「神主の細川が姿をくらました」年号は、
この「寄進状」の寛永七年から48年後の延宝六年とのこと。
確かにその延宝六年に、出開帳が行われている。

執行したのは初代なのか、二代か三代目の細川だったかはわからない。
しかし、祐邦の話によれば、
問題のその延宝には、雨宮姓と細川姓の神主がいたという。

それから30余年たった享保末の当主は五代孝祥・雨宮喜内です。
この人は十九歳で逝去。子がなかったため、
急きょ、江戸にいた甥の政次が家督を継いで六代雨宮和泉守となった。
以前お見せした「江戸出開帳願文」を書いた人です。

この人は中興の祖といわれ、なかなかの人物だったようですが、
現在は屋敷跡のがけ下に、地元の篤志家の手で立てられた石祠に、
わずかにその名をとどめているだけになっていた。

CIMG0842.jpg CIMG0841.jpg

私は河津家の若殿のこのくだりを繰り返し読んだ。
読み間違いではないよね、と息をつめて…。
何度も読んでいくうちに、喜びと怒りが同時に湧き上がった。

だって、例の「神主が横領云々」の本で、横領は延宝のころとあったのに、
その同じ延宝のころ、当の河津氏が浪人していて、
「行方をくらました」はずの神主の家に、
一年間も居候(いそうろう)していたというのだから。

天保13年に角田桜岳が書いた日記と、その同じ年に同じ人が集めたという
未完の地誌「駿国見聞抄」収蔵の借用書加筆の内容とは、
まるっきり違うではないか。

なぜなんだ。

三郎太郎はさらにいう。
「先祖、居候いたし節、曽我社へ系譜そのほか諸感状など写し、納め候よし。
細川と申す神主よりの書付なども見る」

延宝年中、
居候していた河津氏が、この社に納めたという系図はこれだろうか。

「曽我兄弟系図」
img426 (2)

あの本の著者は「ウソを暴くために今後も鋭いメスを入れていく」と豪語していた。
メスを入れなければならないのは著者自身だったのではないのか。
真偽はどうあれ、この日記が世に出た2004年の時点で、
著者は検証すべきだったと私は思う。

ともあれ、光明が見えた。

このことを父に知らせたかった。
が、その父は例の本が出た7年後に亡くなり、
「角田桜岳日記」が出た2004年には、それからすでに22年もたっていて、
とうてい間に合うはずもなかった。

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プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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