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「本屋風情(ほんやふぜい)が!」

柳田国男は東京帝大の坪井正五郎が設立した「集古会」について、
自著「故郷七十年」でこう述べている。

「道楽の気味のある人ばかりの集まりで、突飛なものさえ出せばほめられる。
私は田舎者だからそういう人と一緒になって、
「さようでゲス」なんていって歩くことはできなかった」

明治29年から昭和19年まで続いた集古会の会誌。
img932.jpg
「内田魯庵山脈」よりお借りしました。

柳田は集古会の人たちの研究発表を「道楽」と蔑んでいますが、
この会誌には各界の様々な人たちの論文が載っています。

「佐久間象山旧蔵の磨製石斧」 坪井正五郎
「甲斐湯村の梵字碑」 山中笑
「家蔵の大津絵」 清水晴風
「埴輪円筒の石蓋」 林若樹
「商標の蒐集」 岡田村雄
「団扇の話に就きて」 南方熊楠

集古会周辺に岡 茂雄という人がいました。
陸軍士官学校を出て軍人になりますが、陸軍学校での国史に疑問を持ち、
軍人を辞めて東京帝大の人類学者・鳥居龍蔵の門に入ります。

しかし大正13年(1924)、弱冠30歳のとき、
地味な学問に打ち込んでいる学者たちの力になれれば、と、
人類学、考古学、民俗学などの書籍を刊行する「岡書院」を設立。
内田魯庵をして、「選り抜きの名著ばかりを出版」と絶賛された。

岡は後年、出版業に携わっていたころ垣間見た学者や文人たちの
表では見せない裏側の「本然の顔」を、回想録として一冊の本にした。
タイトルは「本屋風情」

昭和2年、東京都砧村(世田谷区成城町)に新築した柳田邸。
img971.jpg
「本屋風情」よりお借りしました。

タイトルを「本屋風情」にしたのには、こんなわけがあった。

岡茂雄は昭和3、4年ごろのある日、渋沢敬三から食事に誘われた。
渋沢敬三は実業家で、のちに日本銀行総裁や大蔵大臣を務めた人ですが、
伊豆の民家から貴重な文書を発見するという民俗学者でもありました。
そして自宅に「アチック・ミューゼアム」(屋根裏博物館)を設けて、
恵まれない多くの学者たちを支援し、世に送り出していました。

公用では汽車の一等席を使うが、私用では三等席に座る人だったそうです。

現在、大阪・吹田市にある国立民族学博物館の基礎を作ったのはこの人で、
ここには渋沢が集めた玩具や民具約2万点が収蔵されています。

渋沢敬三が岡を食事に誘ったのは、
岡と柳田国男の関係がギクシャクしていることを知ったためでした。
食事会にはミューゼアムに集う数人の仲間も参加し、平穏に終わった。
しかし柳田は不機嫌で、同席した仲間にこうぶちまけたという。

「なぜ本屋風情(ほんやふぜい)を同席させたんだ」

私はこのくだりを読んだとき、本でしか知らない柳田から亡き父もろとも、
「娼婦あがりの神主ふぜい」と罵倒されたような気持ちになった。

岡茂雄が新築祝いに贈った朴ノ木に対する柳田からの礼状(一部)
img530.jpg
上記同書より

岡が柳田から「本屋風情が…」と罵倒されたのには、こんな背景があった。

「昭和2年11月下旬、柳田から「雪国の春」を来年1月までに出版したいから
岩波書店の岩波に頼んでくれといわれた。
しかし岩波は柳田を嫌っているし、
第一、年末年始を挟んだ2か月以内の出版なんて無理。

そこで岡は「私が一切の仕事を放りだしてこの本に取り組めばなんとかなる」
と伝えたら、「君のところで出したんでは本は売れないからダメだ」と。

結局引き受けることになったものの、
柳田は表紙の絵が気に入らず他の画家に描き直しを命じ、
12月中旬に渡すといっていた原稿も入ったのが翌1月中旬。
それでもみんな死に物狂いで完成させ、翌月、見本を持参したところ、
ページの重なった部分があることが発覚。

翌日呼び出された岡は、
「だから君んところはイカンというんだ」」と罵倒された。

それがギクシャクした理由だったが、渋沢のせっかくのとりなしも、
「本屋風情…」という暴言を生み出すだけで終わってしまった。

岡はそれを本のタイトルにした気持ちをこう記している。

「本屋風情とはいかにも柳田先生持ち前の姿勢そのままの表現であり、
いうまでもなく、蔑辞として口走られたのであるが、…略…
私はこの四文字に愛着さえ持つようになって、…略…
いわば柳田先生から拝領した記念すべき表題ということになろうか」

柳田は上機嫌のときと不機嫌なときの差が大きく、
不機嫌な時は当たり散らしたという。これをみんなは「荒れ」と呼んでいた。
そういう「荒れ」を起こして、他の学者の出版妨害をしたり、
「岡の企画を執筆者もろとも他の出版社へ持ち込んで岡に打撃を与えた」
という、とんでもない仕打ちをしたこともあったという。

岡茂雄は「岡書院」設立の翌年には山岳書専門の「梓書房」を設立。
当時としては珍しい気象や小屋の状況、
地図の読み方などを盛り込んだ山登りのハンドブックを発行。
さらに日本野鳥の会の機関誌「野鳥」も手がけた。

昭和6年、長野県穂高町にて。
後列中央が渋沢敬三、前列右端が岡茂雄。

img958.jpg
上記同書より

主体の民族関係では、
「南方熊楠全集」や、
金田一京助の「アイヌ叙事詩 ユーカラの研究」、
広辞苑の前身「辞苑」を世に出すなど、
まさに魯庵いうところの「名著」ばかりを刊行し続けた。

余談ですが、嬉しいことに、
岡のご子息も弟の岡正雄も、我が市の静岡県立大学の教授でした。
また「内田魯庵山脈」の山口昌男もかつてここに在職しておりました。

だからなんなの?といわれれば、「いや別に」と黙るしかないんですけどね。

下の写真は、山中共古の本です。
17年前、磐田市の図書館へ調べものに行った帰り、購入したものです。

本屋になかったため、発行元に電話。
すると、とびきりの明るい声が返ってきた。「今、持って行きます!」
若い経営者は「本を知ってくださる人がいたなんて本当に嬉しい」と言いつつ、
喫茶店でコーヒーをごちそうしてくださった。

img876.jpg
「見付次第/共古日録抄」山中共古 遠州常民文化談話会編 パピルス 2000

さて、話を集古会に戻します。

集古会のメンバーの一人、三村清三郎は「集古会昔話」に、
「私の願う所は決して学者ぶらぬ事」と皮肉を込めて記していますが、
それに対して柳田は、
「集古会などの団体は私を「おえら方」などと呼んで軽蔑した」
と「民俗学手帳」で反論しています。

そうした確執に対して、私が愛読するHP「木人子室」のブログ主さんは、
こんな見解を示されていた。

「集古会には在野の趣味人ばかりではなく、
政府要人、華族、学者や画家など約180人が参加していた。
柳田国男が集古会仲間から「おえら方」などと揶揄されていたのは、
柳田に、江戸時代から続く
本草学(博物学)的ネットワークの「座」の価値と、
そのルールに気付かなかった野暮なところがあったからだろう」

そして、
「柳田は集古会を通じて、山中共古南方熊楠を知るという
恩顧をうけているはず。それによってあの「石神問答」は成立したのだから」と。

岡茂雄は「一つの使命感に憑かれたように押しすすめていた」出版業を、
開業から11年目の昭和10年に、「ある事情」からやめてしまいます。

それから約40年後に書いた回想録「本屋風情」を、
岡はこんな言葉で結んでいる。

「商道に徹することの出来なかった私は、
本屋風情の資格さえなかった


                   ーーーー◇ーーーー

※参考文献
 「内田魯庵山脈・(失われた日本人)発掘」山口昌男 晶文社 2001
 「本屋風情」岡茂雄 平凡社 昭和49年
      =「第1回日本ノンフィクション賞」受賞作品=
 HP「木人子室」

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No title

山中共古。
5月28日のブログ、清水晴風こと筋違車半が載っている見立番附を出した人ですね。納札といい17年振りの回合ということでしょうか?

それはさておき、柳田国男については認識を新たにしました。

おはようございます

弥五郎丸さま、コメントありがとうございます。

山中共古や晴風、力持ちがいろんな糸でつながっている、そこが魅力です。
江戸文化のおおらかさを改めて実感しています。

柳田国男は地方にいた郷土史家たちから情報を得ていたわけですけど、統計としての自分の基準にあてはめるあまり、かえって地方独自の民俗をダメにしてしまったなんて話もあります。
旅行家ではあったけれど、あまり民俗探訪はしていないみたいですね。

民俗学は早い時期から衰退し今は民族学が主流らしいですが、その民族学も危ういです。今は「役に立たないもの」=金にならないものは切り捨てられる時代になってしまいましたから。

当地でも新しく博物館を作っている最中ですが、民俗・民族関係は一切排除されて、すぐに経済効果を生みそうな徳川、今川にしぼった博物館になりそうです。

No title

雨宮さん、おはようございます。

柳田国男は、名前だけ知ってて
著作を読んだことも無いのですが
なんか、こういう話を聞くと
コンプレックスの塊の付き合いづらいやつ
って感じで、私なんか敬遠しちゃいますね..
みなさん、よく我慢してつきあってたな、
心広いは、

民俗学の大家と思ってましたが
著作には変なフィルター入っちゃってたのかな~

こんにちは

「xx風情が!」と言うのは、喧嘩のときです。
相手を馬鹿にして罵倒するのですが・・・

柳田氏、学歴とか権威とか、廻りの煽てに乗るようでは、
大した人物ではありませんね。

駒場の「民芸品なんとか」行きましたが、
茶器の権威付けに似ていると思ったのですが。

姫の事実を聞くと柳田氏の人格まで疑いたくなりますね。
話を歪曲して明治政権の悪行に持っていきたくなる?


こんにちは

三島の苔丸さま、コメントありがとうございます。

大家は大家です。でも私はミーハーだから業績より裏の顔に興味津々なんです。
人間性は私もいやだなあと思います。
20歳も年下の岡茂雄に対しての威張りようは大人げない。

その点、南方熊楠は生まれたまんまの人だったみたいで、それでいて他人には非常に気を遣った人だったそうです。

あるとき、昭和天皇が粘菌学者だった熊楠の話を聞きたいと思召して、船上でご進講したことがあったそうです。その時熊楠が植物の標本を見せて「これは惚れ薬であります」と言ったら、天皇が机をフンフン嗅ぎまわるようなしぐさをした。おかしなことをするものだなと思っていたら、天皇は笑いをこらえるのに必死だったとあとでお付きの人が教えてくれたとか。

熊楠はパンツを履かない人だったので、いつも奥さま手作りの前掛けをしていたそうです。でも話に夢中になるとそれもはずれてしまい、岡は目のやり場に困ったと書いています。でも私にはそんな人の方が好感がもてます。

こんにちは

one0522さま、コメントありがとうございます。

業績は業績ですから尊重しています。
ただ文章は明治の文体なのと、もってまわったような独特の書き方なので、凡人の私の頭では理解するのが難しいです。

かの有名な「遠野物語」は何人かの話し手や民話採集者の手を経て、最後に佐々木という人から柳田が聞いて書いた「自然小説」だそうです。
三島由紀夫が絶賛したという話が残っています。

性格は生育環境による、という人もいますが、高級官僚、特に明治のお役人ですからやはり威張ったのかなとも思っています。
私は忘れられた田舎の伝承を発掘し、山奥の民に愛情を注いだ人とずっと思っていましたので、ショックは大きかったです。

岡茂雄が40年たってもそのときの屈辱を忘れなかったということは、やはり罪深いことだと思います。

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プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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