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野のアカデミー

日本民俗学の父と呼ばれた柳田国男と同時代に、
宮本常一という民俗学者がおりました。

足にゲートルを巻き大きなリュックを背負い、野越え山越峠を越えて、
山奥の村から村へ民俗探訪の旅を続けた人です。
行った先々で民家に泊めてもらい、古老に話を聞き、古文書を書き写した。

そういう旅を死ぬまで続けた。訪れた先は全国1200ヵ所にも及んだという。

同じ民俗学者であっても、柳田と大きく違っていたのは、
柳田が非定住者の漂泊民や被差別民、性や性神に関する伝承や、
江戸を中心とした都市民俗嫌悪していたのに対して、
宮本はそのすべてを調査の対象にしていたことだという。

「旅芸人の図」(秋田風俗絵巻)
img012.jpg
「庶民の旅」宮本常一 社会思想社 昭和45年より

その宮本常一の著作の中に、こんな一文がありました。
「大学などの民俗調査では、まず教授がその村の教育委員会へ連絡して
調査対象になりそうな地区を紹介してもらう。

対象になった村では都会から大学の偉い先生たちがやってくるというので、
当日はよそ行きの服を着た村人たちが集会所に集められる。

そこで聞き取り調査が始まるわけだが、村人は、
村の恥になるようなことは一切他言するなと釘をさされているので、
さしさわりのない話しかしない。こんなんでは本当の話が聞けるわけがない」

下の写真は「門づけして歩く蛭子(えびす)まわし」(和歌山県)
こうした旅芸人は昭和の中ごろまで存在した。

img991.jpg
上記同書より

これと似たようなことを力石の調査に行った先で聞きました。

私はある民俗調査資料の中に、
村の集会所横に力石が3個あるとの記述を見つけて、早速そこを訪ねました。
集会所の横には確かに力石らしい石がありました。

そこで近くの家を訪ねて聞いたところ、そこの家のおじさんは事もなげに、
「そんなものねえよ」

「でも、これこれこういう本に書いてありました」と言った途端、
ワッハッハと笑い出して、
「それはな、偉い先生方がそうだろそうだろというので、
面倒くさくなって、俺がそうだって言ったんだよ。
だってあいつらは自分たちに都合のいいシナリオを書いてきて、
どうでもそれに当てはめようと必死だったしサ」

使われなくなった力石は、まれに庭石や石垣に再利用されたりしますが、
たいていは後世の人がその処置に困って、木の根の周りに集めたり
埋めてしまったり、お堂や集会所の脇へ置いたりしています。

そこの石も形状や集会所に置かれた状況からも力石と思われますし、
当時の調査の人が「力石」との伝承を聞いていたのかもしれませんし、
近所のこのおじさんはそれを知らなかっただけかもしれません。

しかし、石に刻字もなく、それを証言する書付もなく、
今現在、それを証言する人がいない限り無理やり認定することはできません。

当時の調査者には同情しますが、
近所のおじさんが言った「あらかじめシナリオを書いてきて…」
という言葉には、宮本常一が苦言を呈した
「民俗調査の原点を忘れるな」という教訓をひしひしと感じました。

話を明治の昔に戻します。

帝国大学理学部・人類学の坪井正五郎研究室にて「集古会」誕生。
その創刊号(明治29年)の清水晴風「諸国玩弄達磨」です。

img978.jpg
「内田魯庵山脈・失われた日本人発掘」山口昌男 晶文社 2001より

柳田国男はこの「集古会」に席を置いたものの、
「少し道楽の気味があったので、私はそうひんぴんとは行かなかった」
と自著に書いているが、実際には一度しか参加せず寄稿は全くしなかった。

柳田は兵庫県播磨の出身で自らを「田舎者」といい、
江戸っ子気質を嫌う風があったという。

「内田魯庵山脈」の山口昌男は、こう言う。

「柳田は一高・帝大・官の生活という当時の出世街道を駆け上った人である。
播磨出身という田舎者コンプレックスがあった柳田ですが、
逆に田舎出身でも出世コースの頂点を極めれば、
官制国家の末端にもつながっていない連中よりはるかに上だという
優越感を常にちらつかせていた」

そしてさらに、
「彼は農村を中心として民俗学を作り上げていく過程で、
従順な地方の学校教師を優遇し、
江戸前の「野のアカデミー」の自由人たちをことごとく退けていった。
都市民俗学はこうして柳田によって殲滅(せんめつ)させられた」

確かに、
柳田国男はピラミッドの頂点に君臨した「官のアカデミー」の人であり、
宮本常一や玩具博士の清水晴風、千社札のいせ万らは、
逆ピラミッドの広い空間を行き来した「野のアカデミー」の人たちであった。

しかし彼らの大半は、旧幕臣や大商人や熟達した職人たちで、
田舎の儒者の六男坊で「小さな家」で育ち養子に出された柳田とは違い、
能、狂言、笛、小唄や長唄に親しみ、絵師や書家の手ほどきを受け、
狂歌、俳諧、落語に通じる江戸の通人で、
内田魯庵いうところの豊かな「高等遊民」でありました。

「野のアカデミー」の一人、彫刻家の竹内久一の「神武天皇像」と、
久一の父で本職は提灯屋の田蝶こと竹内善次郎の千社札「角大師」

img187.jpg   img339.jpg
上記同書より

その「高等遊民」は、古銭、土偶、玩具、古書、刀剣、絵など
あらゆる分野の蒐集家たちで成り立っていました。
そして、彼らが構築した世界は、
誰が頂点ということはなく、その知識を参加者全員で共有し、
トコトン学問をたのしむという、権威とは無関係な自由な空間だったのです。

この話、もう少し続けます。
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こんばんは

前回にもコメントしましたが、官の権威付けでしょう。
姫の仰るとおりです。
役人はお上に逆らわず、言いなりが保身のようです。
あの廃仏毀釈も小役人が得意になっていたところは、
仏様が酷い目に会っています。

あのNHKの教養(?)番組だった歴史物でも、
予めシナリオがあって、臨席の小説家や歴史家も、
それを外れて発言できないと言っていました。
これも、直接当時番組にでた人から聞きました。

明治以降は特に官の権威をことさら強めて、
民間の研究は無視するかのごとくでしょう。

まあ、今でも官製の教科書ですから・・・

更に思っている意見はまた次に回します。

こんばんは

one0522さま、貴重なご意見や情報、ありがとうございました。

宮本常一は柳田国男とその学閥から冷遇されたそうです。
柳田信者ともいうべき層が厚く、以前は批判などとてもできなかったようですが、だんだんそういうものが出てきました。

話は変わりますが、私がちょっぴり関わっている資料館で今夏、長州の井上馨の「御楯組血盟書」を一般公開しました。
徳川さんのおひざ元ですから、やっぱり入場者は半減。
ですが長州びいきが他県からやって来るという現象もありました。

井上馨は静岡県に別荘を持っていましたが、同じところにいた西園寺公持と比べて不人気の人でした。私はいつもの展示会なら最低は3度見に行きますが、今回は一度だけ。本当は好き嫌いを言ってはいけないのですが。

訂正

西園寺公持→公望

お世話になっています

宮本常一氏の著書にはいつもお世話になっております。氏の「野田泉光院」のおかげでワタクシのブログが成り立っているのです。
ありがたいことです。
これからもいろいろ教えてください。

No title

ヨリックさま、コメントありがとうございます。

お書きになっている「野田泉光院」は、ヨリックさんの実際の旅とが重なり合って非常に臨場感があり、読みやすいです。

宮本常一さんは私も好きで、ときどき読んでいます。留守をあずかる奥さまは相当ご苦労をされたみたいですね。

そうした若き学者たちの受け皿になっていた渋沢氏は、偉大な実業家だったと思っております。
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。今、「力石からバーベルへの道」を書いています。

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