fc2ブログ

東喜代駒と飯定組

神田川徳蔵物語
07 /15 2017
東喜代駒(あずま きよこま)。本名・武井喜代次。
大正、昭和初期に活躍した漫才師。

ブログ「東京漫才のすべて」によると、
「大正14年には当時の一流劇場だった市村座で独演会を開催、
東京漫才として初となるレコードの吹き込みやラジオ出演を果たすなど、
東京漫才の礎を築いた人」なのだそうです。

最初のコンビ。
 東喜代志(落語家・柳亭左橘)  東喜代駒   
img112.jpg
ブログ「東京漫才のすべて・東喜代駒ノート」よりお借りしました。

喜代駒は、群馬県館林秋元藩の武士の次男
とはいえ、生まれたのが明治32年(1899)ということですから、
恵まれた武家暮らしは遠い過去のものになっていたはず。

大正2年(1913)、喜代駒こと喜代次は14歳で故郷を出ると、
東京・神田の米問屋に丁稚奉公。
それが縁で荷役「飯定組」の陸仲士(おかなかし)=荷揚げ人足になった。

これは神田川徳蔵が残したアルバムの写真です。
写真の添え書きに、
「大正十三年四月三日、本郷丸山某宮家・別荘空き地ニテ
峰崎家主催宴遊会ノ余興」

とあります。

sasiisi1_2 (2)
写真提供/徳蔵縁者のEさん

椅子に座った徳蔵の横に立つ黒いフロックコートの男が東喜代駒です。

喜代駒このとき25歳。
故郷を出てから11年目。
この11年間は目まぐるしいほどの変転です。

丁稚から6年目の21歳のとき独立。
米卸売商を始め、同時に結婚して子供ももうけた。
だが好きな芸事は止められず、アマチュアの芸人グループ「天狗連」に参加。

しかし間もなく起った関東大震災で店舗も何もかも「みんな焼けちまった」
「焼けちまった」あとがたくましい。

今度は心置きなく芸ひと筋の道へ踏み出し、
大阪の漫才にないものを目指してフロックコートに鼓を持つという
新機軸の「東京漫才」を確立。一時代を築いた。

弟子に東ヤジロー・キタハチ、大空ヒット、Wけんじ、源氏太郎などがいます。

こちらは昭和30年代から40年代にかけて人気を博した漫才コンビ、
Wけんじ の東けんじ(左)と宮城けんじ(右)
img111.jpg
「東京漫才うらばな史」遠藤佳三 青蛙房 平成14年より

上の「力持ちの余興」写真は、
大震災からまだ7ヶ月しかたっていないときのものです。
復興へ向けての元気発信に一役買ったのでしょうか。

このスタイルの力持ち、東京・深川で今でもやっております。
この「深川の力持ち」は、東京都無形文化財です。

「長柄の技」。徳蔵の時代と比べると柄の長さはちょっと短め。
長柄の広がり方も徳蔵のときは上へいくほど広がるなど違いがあります。

CIMG2468 (2) CIMG2469 (2)
東京都江東区木場・木場公園

お囃子は「砂村囃子」のみなさんです。
〽テンテンドドドン、テンドンドン
「深川の力持ち」、ブログ上でちょっとご堪能ください。

CIMG2470.jpg


   =ここでちょっとひと言=

Eさん提供の写真の人物特定は、
埼玉在住の力石研究者・斎藤氏が行いました。

ほかの写真や写真に写る番付、半纏、看板の文字、
斎藤氏がこれまで蓄積してきた知識やEさんからの情報などを駆使し、
例えば、演者の後ろに座っている萬平は足の包帯から、また、
演者手前の浅吉は厚手の筒袖からといった具合に特定していきました。

   =もう一つ=

2014年9月6日の記事「本町東助と幸龍寺②」
拍手コメントを下さった「東助」さんのひ孫さま、
拍手コメに気づかず今日まできてしまいました。申し訳なかったです。
もしご覧くださっていたら、ご一報お願いいたします。

<つづく>
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

こんばんは

懐かしい名前、WけんじはTVなどで人気でしたね。

なんだか、私も若返ったような気がしてきます♪

続きが益々期待で楽しくなってきます。

おはようございます

one0522さま、コメントありがとうございます。

漫才ブームっていうのがありましたねえ。
でも私はあのドツイたり殴ったりする漫才はダメでした。

本日は恒例の灯ろう流しです。
久しぶりに友人と会食。楽しんできます。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞