fc2ブログ

米穀市場の若者たち

神田川徳蔵物語
07 /02 2017
お行儀よく並んだ早苗がさやさやと風になびいています。

田んぼはかなり減ったけど、コンビニや保育園の周りに残された田んぼが、
ささやかながら、日本の原風景を見せてくれています。
ふと足元を見ると、おたまじゃくしがうじゃうじゃ。

私が住む地域は沼地だったためどこも深田で、
昔の農民は腰まで泥につかって田植えをしたそうです。
江戸時代まで租税は米穀物納だったから、もう必死だったのでしょう。
それでも「レンコン農家よりはずっと楽だったと古老は言います。

明治に入ると税金は米の物納から金納になった。
米商業の自由化です。

どういう変化が起きたかというと、
それまでの特権的株仲間が解体され、代わって、
生産地と大消費地を結ぶ米取引所、つまり正米市場が設立されたのです。

明治19年、深川正米問屋市場ができます。
それから遅れること22年後の明治41年、
荷役業「飯定組」が所属した神田川米穀市場が認可・稼働しました。

その「神田川米穀市場」の前景です。
img080.jpg
「神田川米穀市場概況」神田川米穀市場 大正12年より

内部の様子、「売り場」です。
img110.jpg

この神田川米穀市場は、従来からの水路と、
新しくできた「秋葉原停車場」の鉄道利用で大いに発展します。

今、若者でにぎわう秋葉原ですが、
かつては米の集散駅として、多くの仲士、軽子、小揚げ、
また肩に担ぐことから「肩」とも呼ばれた荷役の労働者が働いていました。

そして、神田川沿いの佐久間河岸に昭和初期ごろまで並んでいたのが、
「神田川と唱うれば米穀問屋の代名詞の如く」
といわれた90軒ほどの米問屋の倉庫群でした。

中でもすごいのが渋沢栄一の倉庫で、数百万俵積まれていたそうです。
そういう中で神田川徳蔵は「飯定組」の一員として働いていたわけです。

神田川米穀市場にて「米俵の片手差し」を披露する徳蔵。
優勝カップと俵上げ

後ろで見ているのは「飯定組」一の子分、神田川(羽部)重吉です。
  ※これは大正8年、このとき徳蔵28歳と判明。

文字の解読や人物特定をお願いしている埼玉の研究者・斎藤氏から、
「重吉は草鞋(わらじ)だが、徳蔵はブーツを履いている」と。

ホントだ!

で、どうです、徳蔵のこの清々しい
米俵1俵など軽々ですね。
後方で「おっ、やるじゃないか」と見ている重吉さんもいい顔しています。

優勝カップと俵上げ (3)

こうした若者たちの活気に満ちた市場でしたが、
昭和4年(1929)、神田川米穀市場は深川正米市場と合併。
さらに戦時下に入ると米が配給制度となり、
ついに昭和14年(1939)、米穀取引所は廃止、翌年解散してしまいます。

市場解散後の「飯定組」は、日本通運などの嘱託になったそうですが、
こちらは解散前の市場前の写真でしょうか。
マッチョな3人組です。

tokuzou_juukiti_itirou.jpg

写真提供者で縁者のEさんは、「左から徳蔵、重吉、一郎」としていますが、
斎藤氏は私見として、

重吉は他の人ではないか
他の写真の重吉はもう少し大柄で容貌も違うが、如何なものか。
筋肉の付き方から、右の一郎のウエイトリフティングの仲間か、と」

  ※真ん中の人物については=追記=参照。

この一郎青年というのは定次郎の孫で、
日本で初めてバーベルを作ったとされる人物です。
これについてはのちに詳しくご紹介いたします。しばらくのお待ちを。

で、写真ですが、
そういえば前々回の定次郎、徳蔵、重吉の3人で写した写真、
確かに重吉さんはもっと背が高かった。

でも、うーん、こればっかりは、なんともいえません。

この写真を見て、「あ、これ、うちのひいじいちゃんだ!」
なァ~んてお知らせいただいたら、また一つ面白い展開になるのですが…。


<つづく>

  =追記=

縁者のEさんからメールです。
「斎藤氏はすごい。
俵上げの徳蔵の後ろの人が重吉だったとは気が付きませんでした。
いろいろ探したら裏書が見つかりました。
大正八年 二十八歳とありました。
また、3人が写っている写真の真ん中は「若木竹丸」ではないかと、
姉から連絡が入りました」

  =注=
若木竹丸/怪力として知られた人。
この写真の徳蔵、竹丸、一郎の3人は、
昭和7年12月、朝鮮中央体育研究所の招待で、
ウエイトリフティング大会に出場しています。この件ものちに詳述します。

スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

No title

初めまして! コメントを有難うございました。
後の風景は窓越しに見える庭と山です。私が見て欲しいところに気が付いて頂きまして・・・

力石のブログがあったなんてね~ 実は隣町の浜田市には力石と言う地名があったり、以前まんまるの力石を見たことがあったりして気になっていました。

ちょびは見かけによらず優しくて甘えん坊な猫なんですよ。

浜田市の力石

ちょびさま、コメントありがとうございます。

師匠の高島先生に伺ったところ、浜田市の力石、以下を教えていただきました。

●浜田市内村町本郷・八幡宮 3個
●同相生町・三ノ宮神社 2個
  =「山陰の力石」高島愼助著に収録。
●同・松原町・厳島神社に2個。調査中。

機会がありましたら、ぜひ見てください。

m(__)m

\(^o^)/ 今晩は。

博多に行ったというか帰ったというか・・・。

思わぬところで力石に巡り合いました。
しかも一日に2ヶ所も。

今日・明日と紹介しますが、気が付いていないだけで、今まで行った神社等の中にも かなりあったのかも・・・。

また博多に行ったら見てきます。


No title

●同・松原町・厳島神社に2個と
江津市有福八幡宮の力石は写真に撮っていました。

浜田市三野宮神社はこの前行ったのに、力石には気づきませんでした。
これからは力石にも眼を配ってみます!

No title

minekazeyaさま、コメントありがとうございます。

お引っ越し、大変でした。

お知らせいただいた力石、手持ちの本には収録されていなかったので、
只今、師匠に問い合わせ中です。
いずれにしても、ぜひブログでご紹介させてください。

No title

ちょびさま、コメントありがとうございます。

早速、お出かけ下さったとは。
ありがとうございます。

収録済みかそうでないかを問わず、ブログでご昇華させてください。
只今、師匠に問い合わせ中です。

訂正

ご昇華→ご紹介

ごめんなさい。

No title

重吉さんは草履でなく草鞋じゃないかなぁ~。
徳蔵さんの、ショートブーツから出た靴下の、靴下止めが懐かしい。

No title

弥五郎丸さま、

確かに! ワラジでした。直します。

若木先生の写真について

初めまして、
若木先生の写真を検索してこちらの記事を拝見しました。
「マッチョ名三人組の若者」の真ん中の人物は、紛れもなく若木武丸先生ですね。奥は石差しの第一人者、神田川徳蔵氏、右は当時先生の弟子で重量挙げミドル級チャンピオンの飯田一郎氏ですね。ただし写真が撮影されたのは裏書きにある大正八年だと若木先生は未だ8歳、昭和7年ならば21歳ですので、おそらく撮影されたのはその頃と思われます。個人的に若木先生はよく存じ上げていますが、この写真を拝見したのは初めてです。

No title

さとし様、コメントありがとうございます。

若木氏をご存知の方からのコメントは初めてです。
本当にありがとうございました。

ウエイトリフティングの世界のことは全くわからず、若木氏が何者かも資料やみなさまからの情報で教えていただきました。
みなさまから「ブログに今まで見たこともない若木先生の写真が出て来て、腰を抜かしそうになるほど驚いた。力を追求する者にとって若木先生は憧れの人なんです」「この写真はファンにとっては垂涎の的」などのメールをお寄せいただきました。

写真は徳蔵氏のご子孫の家にありました。縁者の方々もすでに誰が誰やらわからなくなっております。秘蔵写真はまだございます。ウエイトリフティングと徳蔵、一郎、定太郎などを書くまで今しばらく時間がかかります。

またいろいろお教えいただければ幸いです。

武丸→竹丸、誤字訂正。

 若木先生の名前の誤字変換に気付かないままに投稿していました。失礼しました。
 そうでしたか、やはり他の方もこの写真に驚いていらっしゃるのですね。皆さん価値のわかる方にとっては、これはとても貴重な写真です。徳蔵氏のお名前は、石差しの第一人者として、先生のお話の中でもお伺いしていましたが、こうやって三人揃った若々しい先生方の勇姿に、暫しじっと見入ってしまいます。貴重なお写真を、どうもありがとうございます。今後とも楽しみに拝見、拝読させて頂きます。

写真の撮影年について。

度々すみません。
大正8年、28歳の裏書きは、徳蔵氏が米俵を差しあげている写真の物だったのですね。勘違いをしていました。
すると若木先生達と共に写っている頃の徳蔵氏は40歳前後、とてもお若く見えますね。

こんばんは

さとし様

拙いブログですが、続いてお読みいただけたら嬉しいです。
力石はすでに人々の記憶からなくなり、民俗文化財として認識している行政も少ないのが現状です。また奉納力持ちを見世物としてとらえ、一段低く見る傾向があります。

そうした中、神田川徳蔵一派は石差しからバーベルへと持つものを替え、日本の重量挙げの道筋をつけました。
このことをぜひみなさんに知っていただきたいんです。

バーベルも触ったことがないスポーツ音痴の私がこう書くのもおこがましいですが、伝統的スポーツから近代スポーツへという歴史を忘れて欲しくない、そんなふうに思っています。

凄い

こんにちは。24歳の男です。
片手で持ちあげている俵は何キロでしょうか。
昔の俵は60kgあったそうです。
私もウェイトを頭上にプレスするのが大好きなので俵にも挑戦してみたいです。

No title

shota様、初めまして

この写真の米俵が何キロあったかは正確にはわかりませんが、米穀市場の売買するお米なのでやっぱり16貫60Kgだったと思います。興行でやる場合は「8掛けの12貫余だった」という話があります。

米穀市場で働いていた人のインタビュー記事がありますが、「60キロってのを5俵も6俵も担いだ」と言っていますし、大正時代、山形の米倉庫で働いていた女性たちが5俵の米俵を背負って運んでいる写真が残っています。これ全部で正真正銘、300Kgです。凄いですね。昔の若者たちは天井の梁に最初は軽い石をぶら下げて練習し、だんだん重いものに換えて鍛錬したそうです。日本一の力持ちの三ノ宮卯之助の610Kgの力石も現存しています。

今、スポーツ大会で俵上げをやっている高校があります。また「東海力石の会」の大江さんのフェイスブックをぜひ、ご覧ください。

reply

ギアも豊富な肉もない時代に610kgの石を担いだ記録があるんですか。私も女性が5俵担ぐ写真を見たことがあります。ドイツの医者であるベルツさんが昔の日本女性の強さに驚いたそうです。
若木さんの写真がとても綺麗に写っていて、見れて嬉しいです。
若木さんは見た目からは想像できない怪力あるのが魅力だと思います。
昭和7年にウェイトリフティングの大会があったことにも驚きです。

No title

shota様、ありがとうございます。

「東海力石の会」の大江さんは「力に憧れる者にとって若木先生は神様みたいな人です」とおっしゃった。shotaさんにとってもそうなんですね。私は「ちから姫」などと名乗っていますが、力の世界のことはこの力石に関わってから知った無力者です。ですから若木竹丸さんについても初めて知ったのです。

戦前の朝鮮ではウエイトリフティングを早くから取り入れていたそうです。その大会へ招待されたのが若木、徳蔵、一郎の3人です。この3人が写った写真は徳蔵のご子孫がお持ちでしたが、みなさん、この写真は初めて見たと驚かれます。力石の力持ちの徳蔵と若木さんとのつながりは意外でした。今でもこの人は絶大な人気があるようですね。

食事ですが、昔の人は米の飯をどんぶりで何杯も食べて力をつけたようです。力石の私の師匠の高島先生はかつて極真空手の師範をされていた人ですが、こんなことを言っていました。
「糖分と脂肪分をたくさん摂ると力を出せない」

reply2

やはりこの若木さんの写真を見た人は皆驚きます。若木さんの服装がマッチョ半裸にホットパンツで今のアメリカ西海岸のビーチにいても違和感がありません(笑)
私は「ケトルベルマニュアル」という書籍で若木竹丸を知りました。
戦前の海外のストロングマンにも興味があり、ネットで調べてます。
昔のストロングマンが並外れて強いのは世界共通です。
ジムもない時代に強さを追い求めた当時の彼らの精神性に惹かれます。
何度もご返信していただきありがとうございます。

追記

失礼します。追記です。
食事についてですが、炎と鍋で炊く玄米がとても日本の気候、日本人の体に良いようです。私も体調を崩してから、玄米を陶器と炎で炊いて食べていますがあれこれおかずを食べなくても気分が充実します。「びっくり炊き」という方法を使うと玄米を30分で炊けるので炊飯器より便利です。マクロビオティックについて調べると昔の人の強さの秘訣に近づけるかもしれません。私は肉やクレアチンを摂取することが強さに繋がるとは思えません。

No title

何度でも大丈夫ですよ。
「力に賭ける世界」のことは全く知らなかったので、みなさんのお話をお聞きして教えていただいたり楽しんだりしています。
どうぞ、健康に留意しつつ、今後も頑張ってください。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞