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ついに発見、でも…

柴田幸次郎を追う
05 /20 2017
風邪はピークを越え、思い出も「風邪とともに去りぬ」

現実に戻って「大王石」です。

前々回、清水晴風が亡くなる間際に書き残した
「3人の神田の力持ち」のことをお話しました。
今回はいよいよ真打登場です。

それは神田仲町1丁目で米搗(つ)き屋をやっていた男でした。

米搗き屋というのは、玄米を搗いて白米にする商売です。
今でいう精米所。

地面に埋め込んだ臼に玄米を入れ、それを杵でついて精米したそうです。
米粒の表面を削り取る仕事で、当時はこれをすべて人力でやった。
力がないと成り立たない商売です。
だから搗き屋は大力持ち揃いで、ゆえに大飯食らいだった。

そこで江戸庶民はこんな川柳を詠んだ。

    昼飯の搗き屋仁王を茹でたよう


img996.jpg mie01 (2)
狩野芳崖「仁王捉鬼図」    「三重の力石」高島愼助 三重大学出版会
                   
狩野芳崖さんの名画と並べるなんて恐れ多いですが、
まあ、こうしてみると、真っ赤な仁王さんも力持ちも似てなくもないか。

地方で玄米や雑穀を食べていたとき、江戸では白米がもてはやされた。
それで多くの出稼ぎ人が米搗き屋となって江戸へやってきた。
出稼ぎは越後(新潟)や信濃(長野)からが多かったそうです。

で、こんな言葉が江戸で流行った。
「越後米搗き、能登三助」

神田仲町の米搗き屋は定住者のようでしたが、抜きん出た力持ちで、
晴風はこんなエピソードを紹介しています。

「米俵3俵を大八車ごと担いで運んだ」「両足で15俵もの米俵を差し挙げた」

柴田名の「千社札」です。
img297 (4)

で、晴風は最後にこんなことを書き残しています。

「同人が足で差した三百貫の大王石は、両国元柳橋の川岸にあったが、
今は何れに運ばれたか解らなくなっている」

キター! 大王石に元柳橋! バッチリじゃないですか。
「竿忠の寝言」の忠吉さんに続いて二人目の証言です。

このことから、
同時期、晴風が朝倉無声に話した三百貫(実質150貫)の大王石は、
この元柳橋の大王石と同じ石であることが判明しました。

しかし、です。

本当ならここでめでたしめでたしになるはずだったんです。
でも、肝心の名前が、柴田幸次郎ではなかった。
柴田は柴田でも、柴田勝蔵
初めて見る名前です。

「実に驚くべき大力で衆人を驚愕せしめたこの柴田勝蔵は、
俗に「柴勝」と呼ばれていた」というのです。

鬼柴田や鬼幸ではなく柴勝。

さらに晴風はこんなことも書いていた。

「この柴勝が力持ち興行に出たとき、
坂本辺の鳶の組合から贈り物をして景気を添えたそうである」

オイオイ、晴風さん、
力持ち興行に出掛けたのは、勝蔵ではなく柴田勝次郎ですよ。

大阪・難波新地で興行したときの引き札(チラシ)です。
赤丸に「柴田勝次郎」の名前があります。
img636 (5)

まあねえ、あの江戸研究者の三田村鳶魚でも、
鬼熊の本名・熊治郎を「熊吉」と書いていましたから、
晴風がうっかり勝次郎を勝蔵としてしまったことは大いにあり得ます。

ですが「勘違い」という確証もありません。

せめて幸次郎のように「鬼柴田」とを冠して呼ばれていたならまだしも、
「柴勝」ですからねぇ。

ただ姓と名を縮めただけですもん。

ちっとも強そうに見えないじゃないですか。

<つづく>
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コメント

非公開コメント

No title

「風邪絶てぬ」?という言葉もあり?ますから、ご用心を。

ところで、来ましたね~  柴田さん!

‟おあずけ”をやっと一口二口。
でも急いで食べちゃモッタイナイ。
味わいながら食べまする。

No title

弥五郎丸さま、コメントありがとうございます。

「風邪」も「波風」も立てませんから、ご安心を。

”おあずけ”食らわすこと、今回で77回。
さすがにネタも尽きました。
幸次郎発見で有終の美を飾ろうとしたのですが、ああ…。

思わず笑いました♪

こんにちは(^-^)/
いつも拝見していますがコメントは初めてですね。

「風邪と共に去りぬ」に笑いました(笑)
ユーモアセンスが素敵だなと感じます♪

力石について、貴ブログに出会うまで、
あまりよく知りませんでした。
ブログを読んでから、神社など行くと力石を見ます。
奥深くて由来とか知るのが楽しいです。
貴重なブログをいつもありがとうございます!

No title

雨宮さん、おはようございます。

搗屋は力持ちだった..そうか
好きな落語で搗屋幸兵衛というのが
あるんですが、噺のキモに、米をドスンと搗く
というのがあるんですが、何気に聞いてましたが
そうですよね、力持ちじゃなきゃ出来ない仕事ですよね。
仁王さんか、そういうのイメージすると
大家に、おいおいそんなことできたのか?
噺に突っ込んでみたくなりました。

初めまして

在嶺結為さま コメントありがとうございます。
また、お褒めいただき、コソバユイです。

人も物もはまり込んだら抜けられませんね。
歴史や民俗学の先生方に力石の話をすると「あんなマイナーなもの、よくやってるねー」と言われてしまいます。

でも、こんな石っころからでも歴史が見える、そんなところが面白いんです。歴史も民俗学も研究室でしかめっ面してやってばかりではなーって思うんですよ。

今は研究論文の対象となる神楽の解釈も、昔の人はそんなに小難しく考えずに楽しんでいたんですものね。
伝統とはアドリブの積み重ね、私はそう思っています。

おはようございます

三島の苔丸さま コメントありがとうございます。

搗屋の落語、検索してみたらありました。
晴風さんは「米搗き屋」と書いていましたので、そう表記しましたが「搗き米屋」の方がしっくりきますね。
「力石」の落語もありますので、またの機会にご紹介します。

埼玉の研究者は苔丸さんと同じようにポタリングで石探しをしています。師匠の高島先生は軽で野宿しながら全国を回っています。師匠はこれを「ヤドカリの旅」と言っております。

こんにちは

ますます楽しくなって来ました。
柴田の姓も多いのかな。
そうそう、「鬼」とかつければ分かり易いですね。

姫のブログ見たのに、いまだに「力石」を見ていません。
何とか本物を見に行こうかと思いながら、
ああ、暑くなってきて外歩きは難しくなった。

今年こそは、行ってきます!

No title

one0522さま、コメントありがとうございます。

昨年、「柴田幸次郎は外国奉行の柴田剛中の神田の親戚ではないでしょうか。神戸文書館に関係書類がありますよ」とのコメントを頂戴しました。それで神戸文書館で調べてくださったのですが、見つけることはできませんでした。

でも、やっぱり「神田の親戚」というのがひっかかっているんです。

力石、ぜひご覧なってください。
こんなに大きいのかとみなさんびっくりします。

能登三助

能登は千枚田(今でこそ観光地ですが)で知られるようにいい耕地が少なくて、二、三男の食いはぐれは家を離れるしか生きるすべはない土地でした。
そんな男連は主に大阪へ仕事を探しに行くのですが、目先のすばしこい大阪人に交じって生きていくにはそれこそ風呂屋の三助程度(知識はなくてぼっやりのんびり)の仕事とか、魚屋の丁稚、といった仕事に就くのがせいぜいだったんですよ。
大正、昭和前期のことはワタクシもあまり喋りたくないことですが、もしお訊ねのことがあれば聞いてみてください。年寄りなので今のうちにお応えできることは何なりと・・・

こんばんは

ヨリックさま コメントありがとうございます。

今の時代、差別とかいろいろいわれるから三助なんて言葉使ってクレームがくるのでは、とちょっと気にしていました。

現役時代、いろいろおかしなことがありましたので。
旧東海道のルポで大井川の話を書いた時、当然「川越し人足」が出てきます。
そしたらデスクが「これは差別用語だ。川越しに従事した労働者に書き換えろ」と。
これ江戸時代の話ですよといってもダメ。
本当はひどい格差社会・差別社会で陰では平気で侮辱的発言をしているのに。
表ばかり取り繕って、おかしな現象です。

能登に限らず昔はみんな貧しかったですね。
力石にもそれが出ていて、東北地方は石の数が少ないんです。
秋田などは9個しか見つかっていません。
石川県は900個近い石が残っています。

民俗学の本を読んでいてハタと思ったのは、やはり貧しさ。
小作人として地主の家に住み込むと石など担ぐ余裕がない。
それでも若者たちは示し合わせて、
夜、橋のたもとに集まって石担ぎをしたなんて話も残っています。

ヨリックさんからは泉光院の記事を通していろいろ教えていただいておりますが、お聞きしたいときには、よろしくお願いいたします。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞