大田蜀山人が書いた「臥龍石」
力石・力士の絵
亀戸天神社、第3回です。
第2回で、亀戸天神社の5個の力石をお見せしました。
本日はそのうちの一つ、向かって一番左の石をご紹介します。
(第2回の記事の写真をご参照ください)
「臥龍石」です。

「臥龍石」の揮毫者は、大田蜀山人といわれています。
大田蜀山人(大田南畝・四方赤良)
江戸幕府に仕えた武士にして狂歌師・戯作者です。
江戸時代、亀戸天神社の近くの北十間川沿いに「梅屋敷」というのがあって、
八代将軍吉宗も遊び、数々の錦絵に描かれた有名な「臥龍梅」がありました。
「臥龍石」は、その臥龍梅にちなんで名づけられたとされています。
亀戸天神社発行の「境内石碑案内」では、摘要として「蜀山人筆」となっていますが、
江東区発行の「江東区の文化財」では、
刻銘「臥龍石 万本店 金蔵 蜀山人書」となっています。

中島正伍氏・画 高島愼助教授・画
右の絵は「臥龍石」ですが、
左の絵は蜀山人の書ではないかと言われている
東京都目黒区下目黒の大鳥神社の「驪(り)鳥石」です。
蜀山人の揮毫はいろんなところで見られます。
文化三年にできた「新梅屋敷」(現在の向島百花園)の「花屋敷」の扁額や
浮世絵師・歌川豊国の墓石の「五渡亭」の筆跡も蜀山人だそうです。
後年吉原へのめりこみ、遊女を身請けして本宅の別棟に住まわせたとか。
その蜀山人の狂歌。
世の中は色と酒とが敵(かたき)なり
どふぞ敵(かたき)にめぐりあいたい
次回は、臥龍石に刻まれた力持ち力士「万屋金蔵」の登場です。
※資料/「石に挑んだ男達」 高島愼助 岩田書院 2009
※資料/「蜀山人の真否をめぐって」(一) 大鳥神社の力石」
中島正伍 目黒区郷土研究 1990
第2回で、亀戸天神社の5個の力石をお見せしました。
本日はそのうちの一つ、向かって一番左の石をご紹介します。
(第2回の記事の写真をご参照ください)
「臥龍石」です。

「臥龍石」の揮毫者は、大田蜀山人といわれています。
大田蜀山人(大田南畝・四方赤良)
江戸幕府に仕えた武士にして狂歌師・戯作者です。
江戸時代、亀戸天神社の近くの北十間川沿いに「梅屋敷」というのがあって、
八代将軍吉宗も遊び、数々の錦絵に描かれた有名な「臥龍梅」がありました。
「臥龍石」は、その臥龍梅にちなんで名づけられたとされています。
亀戸天神社発行の「境内石碑案内」では、摘要として「蜀山人筆」となっていますが、
江東区発行の「江東区の文化財」では、
刻銘「臥龍石 万本店 金蔵 蜀山人書」となっています。

中島正伍氏・画 高島愼助教授・画
右の絵は「臥龍石」ですが、
左の絵は蜀山人の書ではないかと言われている
東京都目黒区下目黒の大鳥神社の「驪(り)鳥石」です。
蜀山人の揮毫はいろんなところで見られます。
文化三年にできた「新梅屋敷」(現在の向島百花園)の「花屋敷」の扁額や
浮世絵師・歌川豊国の墓石の「五渡亭」の筆跡も蜀山人だそうです。
後年吉原へのめりこみ、遊女を身請けして本宅の別棟に住まわせたとか。
その蜀山人の狂歌。
世の中は色と酒とが敵(かたき)なり
どふぞ敵(かたき)にめぐりあいたい
次回は、臥龍石に刻まれた力持ち力士「万屋金蔵」の登場です。
※資料/「石に挑んだ男達」 高島愼助 岩田書院 2009
※資料/「蜀山人の真否をめぐって」(一) 大鳥神社の力石」
中島正伍 目黒区郷土研究 1990
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コメント
No title
大田南畝の狂歌は少し読んだことがあります。面白かった。これとほぼ同時代の黄表紙作家で恋川春町が清水区小島出身。ガイドする関係で知っているだけです。さて、臥龍石では、東京への歴史探索の計画を立てていた時、駒込にある六義園にも行きたくて調べていたら、臥龍石があるのを知りました。それまでは、これも清水区清見寺の臥龍梅しか知らなかったのですが。
2014-07-19 06:31 s.h. URL 編集
臥龍石
長い間歴史ガイドを続けられている方だけに、本当にいろんなことをご存知で、いつも勉強させていただいています。
六義園はまだ行ったことがないんです。東京というところはあちこちに広大な名庭園があって、素晴らしいですね。
六義園の「臥龍石」も初めて知りました。
池の中に龍がもぐって背中だけ見せているように見える石組なんですね。三年前の東日本大震災で水没してしまったみたいです。
でもいろんな臥龍石があるもんですね。石や梅だけでなく、「臥龍竹」とかいうのもあるようです。
2014-07-19 09:44 雨宮清子(ちから姫) URL 編集