FC2ブログ

またも血を吸う

清水次郎長が監獄にぶち込まれたという知らせは、
すぐに東京の山岡鉄舟の元へ伝えられた。

山岡は即座に次郎長救出に動き出します。
その一つが、
天田五郎が書いた次郎長の武勇伝「東海遊侠伝」の利用です。

天田は奥州磐城平(福島県)の藩士の子で、15歳のとき戊辰戦争に出陣。
ところが帰ってくると、両親と妹が行方不明になっていた。
天田は、父や母、妹をさがす全国行脚を始めます。

そして25歳の時、山岡鉄舟と出会い、
勧められて次郎長の養子になります。

写真は次郎長の養子時代の天田五郎(28歳)です。
明治14年、次郎長は富士山麓開墾事業を始めます。
五郎は次郎長夫婦と共に開墾地に住み込みます。

img741.jpg
富士山麓の開墾地にて。

そんな五郎さん、次郎長と暮すうちにその生き様に魅せられ、
武勇伝を書き上げます。それに山岡は目をつけたわけです。
本には名だたる政府要人の序文を付けて体裁を整え、
次郎長逮捕の2か月後に刊行。各界著名人や政治家に配布した。

減刑嘆願のための本ですから、次郎長の優れた面を誇張してあります。

この「東海遊侠伝」のおかげで次郎長の評価は高まりますが、
出獄できたのは出版から1年7ヶ月もたってからでした。
でも、判決は懲役7年ですから、まあ成功したというべきですね。

次郎長を投獄し、民権運動家の弾圧に力を発揮した県令・奈良原繁は、
静岡市民の不評を買い、赴任からわずか9か月でこの地を去ります。
彼の勤務状態は、県庁に朝、2時間ほど顔を出して、
あとは料亭で芸妓相手に遊んでいたそうですから、ふざけた野郎です。

近年でも、月に数回しか登庁しなかった知事さんもいたみたいですけどね。

写真は、内外新報社時代の天田五郎(33歳)です。
五郎は31歳の時、有栖川宮家に奉職のため、次郎長との縁組を解消。
しかし、次郎長夫婦を「終身の親」と知人に語っていた。

富士の開墾時代と比べて、変われば変わるもんですね。

img743.jpg

さて、その奈良原です。
「次郎長の風景」(深澤渉」によると、
奈良原は次郎長が釈放された翌年、今度は工部省鉄道局長の肩書で、
なんと、次郎長の前に現れてこう言ったそうです。

「あれ(投獄)は政府の方針で致し方なくやったことだ。
で、ほかでもないが、今度ここに鉄道が通ることになった。
土地の買収、家屋の移転、工夫人足の調達など、
親分にぜひやってもらいたい」

鉄道という文明開化の新事業です。大もうけは確実です。
でも次郎長はこの申し出をきっぱり断ります。

さすが、次郎長さん。筋の通らない金や名誉に転びません。
まさに、
自らの尊厳を守り、山岡への義理を通した東海一の大親分です。

次郎長の前半生はまぎれもなく、反社会勢力のヤクザ渡世
ですが、後半生は、油田開発、塩田事業、富士山麓の開墾。
また、海外貿易の重要性を悟り、清水港を整備、海運事業も展開するという
れっきとした実業家です。

それに獄中で民権運動家の前島豊太郎から聞いた
「新しい世界」への第一歩として、経営する船宿で「英語塾」を開講。
次郎長の元へは慶喜公を始め、明治の軍人たちも足しげくやってきました。

明治19年、清水波止場に開業した次郎長の船宿「末廣」
徳川慶喜撮影。
img754.jpg

平成13年に復元された「末廣」です。
CIMG1555.jpg
静岡市清水区港町

清水港の発展は、次郎長のおかげといっても過言ではありません。
その陰に女房の三代目お蝶がいたことも忘れてはなりません。
この女性は三河国西尾藩の武士の娘です。

ちなみに作家の諸田玲子さんは、なんと次郎長の末裔だそうです。
諸田さんは吉川英治文学新人賞や新田次郎文学賞などの受賞作家です。

こちらは、その諸田さんが清水波止場を舞台に書いた「波止場浪漫」
次郎長の娘おけん(実在の人物)の恋物語です。
img751.jpg
日本経済新聞社 2014

まあ、どう考えても奈良原繁の、
「土地買収などで面倒が起きた時、ヤクザなんだから役に立つだろう」
という人を小馬鹿にした認識は、見当はずれもいいところですね。

この男、静岡県令として赴任してきたとき、こう言い放ったそうです。

「勝海舟や山岡鉄舟は、おのれのみの栄達を望んで旧幕臣たちを裏切り、
新政府の役人になり背信行為をなす日和見主義者である。
それに取り入っている次郎長は信用できぬ要注意人物である」

写真は34歳でになった天田五郎です。
初めは鉄眼、のちに愚庵と改名。次郎長の死後11年目に51歳で没しました。
img748.jpg

慶喜公のみならず静岡学問所の教授たちにまで政府の密偵が張り付く、
そういう新政府のしつこい監視や猜疑心を回避させるべく、
勝や山岡はあえて政府中枢に入っていったと私は思うのです。

だから、大久保利通などに揺さぶりをかけて、
牧之原入植者の中条や大草たちへ救済金を出させることもできたのです。

明治20年、その大草たちの天覧流鏑馬(やぶさめ)を企図したのも、
慶喜公の朝敵の汚名を削ぎ名誉回復をはかるための、
勝海舟の考えであったといいます。

その同じ明治20年、山岡鉄舟は子爵になった。

それを伝達に来た元長州藩士の井上馨に山岡が尋ねた。
「井上さんはどんな功労があって一番上の侯爵になられたのか」
すると井上が、
「お国のために満身創痍の働きをしたからだ」と答えた。

それを聞いた山岡が、
「それなら自分の体には傷一つないから爵位をもらう資格はない。
次郎長なら体中傷だらけだ。爵位ならその男だ」とからかったとか。

次郎長の生家
CIMG1570 (2)
静岡市清水区美濃輪町・次郎長通り。

そのとき、山岡はこんな狂歌を詠んでいます。

    寝て起きて働きもせぬご褒美に
         蚊属(華族)となりてまたも血を吸う


その翌年、山岡は病死した。享年52歳。

次郎長はこの大恩人「やまおかせんせいさん」の葬儀に、
雨の中、旅姿で参列したということです。


<つづく>


※参考文献/「次郎長の風景」深澤渉 静岡新聞社 2002
※参考文献・画像提供/「清見潟」第24号「天田五郎(愚庵)が次郎長に
               出会うまでの遍歴と清水港時代をめぐる人々」
               山田倢司 清水郷土史研究会 2015

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

フリーエリア
お願い
このブログに掲載されている 写真・記事等には著作権があります。 無断使用はご遠慮ください。
カレンダー
09 | 2020/10 | 11
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新記事
最新コメント
訪問者数
ランキングに参加しています
カテゴリ
月別アーカイブ
最新トラックバック
リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
QRコード
QR