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「まだまだ…」

慶喜さんは祖先・家康の隠居地・静岡市で30年も過ごしたわけですが、
何ゆえ、謹慎生活がそれほど長きにわたったのか。

「そろそろ東京へ帰ってもいいのでは」という話が出ると、
決まって現れるのが勝海舟で、その都度、「まだまだ」と押しとどめていた。

明治元年・江戸開城のころの勝海舟(45歳)肖像画。
img738.jpg
「静岡史跡めぐり」より

宿敵だった長州の木戸孝允は明治10年に病死し、
東京招魂社(靖国神社)を実現させた大村益次郎は、
同じ元長州藩士に暗殺されて、すでにこの世にいない。

もう一方の宿敵だった薩摩はというと、明治10年、西郷隆盛が自死。
翌年には慶喜公に非常な憎しみを抱いていた大久保利通が暗殺された。
倒幕の急先鋒だった公卿・岩倉具視も明治16年に鬼籍に入った。

それでも海舟は「まだまだ」と言い続けた。

晩年の勝海舟。
img311 (2)

海舟がこんなふうに慎重にしていたのには、いくつか理由がありました。

「慶喜を護衛していた元精鋭隊の中条景昭や大草高重らが牧之原にいる」
として、
政府は警戒を怠らなかったそうですから、
明治も半ばになっても「朝敵」として狙われる心配は充分あった。

また、旧幕臣たちが慶喜公を担ぎだして再び兵をあげる心配や、
逆に旧幕臣から「裏切り者」として狙われる危惧もあった。

以前、会津へ行ったとき、私は地元の方から
「慶喜は会津藩を捨てて大阪城から一人で逃げた卑怯者
と言われたぐらいだから、
明治のころの恨みつらみはもっとひどかったのではないでしょうか。

静岡市の自宅で弓を引く慶喜公。
img726.jpg
徳川慶朝氏所蔵  「慶喜邸を訪れた人々」より

全国22都市を結んで行われる「大政奉還150周年記念」スタンプラリーが、
始まりました。私のスタートはやっぱり静岡から。スタンプの慶喜さんです。
img733 (2)

「明治は遠くなりにけり」どころか、平成の世にもこんなことがありました。
平成13年、作家・早乙女貢が長編小説「会津士魂」を刊行。
その出版記念会で、早乙女がこんな挨拶をした。

「会津の悲劇は会津攻防戦で終わったわけではない。
倒幕に成功した薩長は、憎悪をあらわにして、
徹底的に敗戦の会津に弾圧を加えた。
その結果、薩長藩閥政府による欺瞞の歴史が正史とされ、
御用学者によって真実が抹殺された。

その歴史の仮面をはがすことは大変でした。
連載中に受けた迫害は編集者にも及びました」

誰が何のためにそのような脅迫や迫害をしたのか知りませんが、
平成13年といえば維新から133年、一世紀以上もたっているというのに、
凄まじいというほかありません。

「真実の暴露」を恐れるあまり、とでもいうのでしょうか。
人間の性(さが)の底知れぬ闇の深さ。ゾッとします。

さて、明治時代の慶喜さんはというと、
市内だけではなく、電車に乗って県西部まで気ままに出歩いていたし、
子供たちものびのび過ごしていました。
でも、一見、平穏そうな慶喜家ですが、
実は、2度も土蔵破りの被害に遭うという物騒な事件も起きていました。

慶喜さんは3度転居。これは静岡での最後の住まいです。
土蔵破りが入ったのはこの家。
img740.jpg
静岡市西草深  「深草」でなくて「草深」です。時々間違える人がいます。

2回目の盗賊は二人組で、のちに東京で捕まります
山形県出身の「最上小僧」と異名をとる名うてのドロボーでした。
ただ、邸内には複数の警備官が昼夜常駐し猟犬もいるというのに、
犬は吠えず誰も気付かなかったというのも不思議な話です。

しかし、「次郎長の風景」(深沢渉)という本に、
「政府は慶喜の屋敷にスパイを大勢送り込んでいた」とありますから、
そういうスパイが手引きしたことも考えられます。

そんなこんなで、
海舟の「まだまだ」の判断は正しかったのかもしれません。

明治7年、元薩摩藩士の大迫貞清が静岡県令として赴任してきます。
慶喜さんはさっそく大迫のもとへ、就任のお祝いに出掛けています。

大迫は大変温厚な人で、敵対した旧幕臣たちの巣窟・静岡市へきても、
大勢の人たちと交わり、あの清水次郎長とも仲良くなります。
そして9年もの長い県令時代をここで過ごします。

そのあとにやってきたのが、同じ元薩摩藩士の奈良原繁です。
コワモテの猛者、奈良原が慶喜公の住む静岡へなぜやってきたのか、
「次郎長の風景」の深沢氏はこう分析しています。

「明治10年ごろになると、
薩長藩閥政府の傲慢な政治に対して、各地で人々が不満を持ち始め、
それが「自由民権運動」として全国に広がっていった。
その摘発と弾圧のために選ばれてここへやってきた」というわけです。

この人はその後県令として赴任した沖縄でも、苛酷な弾圧をしています。

下の絵は、言論弾圧の諷刺画です。明治21年、「トバエ」掲載。ビゴー画。
「トバエ」はフランス人の画家・ビゴーが横浜で発行していた諷刺雑誌。

警官がトバエ片手に、「民権論」を唱える新聞記者にさるぐつわを噛ませて
弾圧している。それを右上の窓からビゴーがのぞいて苦笑しています。

img739.jpg

奈良原県令は、「ヤクザが自由民権運動と結託する可能性大」として、
着任2か月後の明治17年2月、次郎長を捕えて監獄にぶち込んだ。
まずは「博徒を自宅に招いた」という罪で…。
次郎長さん、もしかして「共謀罪」適用?

次郎長はこの監獄で、前島豊太郎という人物と出会います。

弁護士で静岡県議会議員の前島は、自由民権運動の活動家でもありました。
その前島は次郎長より3年も前の明治14年、
「すべての人間は平等でなければならない。天子さまも同じだ」と演説して、
「不敬罪」で捕まっていたのです。

温厚といわれた大迫県令時代に捕縛されていたわけですが…。

で、次郎長は監獄でその前島と初対面。
奈良原県令がわざわざ引き合わせたようなものです。

CIMG2224.jpg
静岡市清水区・次郎長通り

こうして元ヤクザの次郎長と弁護士の前島は、
この監獄で「臭い飯」を食う仲間となり、
その前島から聞かされた「自由・平等・博愛」の話は、
次郎長が「新しい世界」を考えるきっかけになりました。


<つづく>

※参考文献・画像提供/「慶喜邸を訪れた人々」前田匡一郎 
               羽衣出版 平成15年
※参考文献/「次郎長の風景」深澤渉 静岡新聞社 2002
※画像提供/「静岡の史跡めぐり」安本博 静岡県地方史研究会 昭和50年 

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No title

>その歴史の仮面をはがすことは大変でした。
連載中に受けた迫害は編集者にも及びました」
誰が何のためにそのような脅迫や迫害をしたのか知りませんが、平成13年といえば維新から133年、一世紀以上もたっているというのに、凄まじいというほかありません。

・・・・・・・・・
逆説的に、奥羽越列藩同盟の末裔の私は、薩長に対する恨みは消えておりません。仮にこの後300年ほど生きるとしても、、、。

ま、冗談ですが、明治維新後の何年間か、この国のカオスは酷いものだったようですね。地方地方のお城に立てこもった反乱者?を抑えるためにその基地となる「お城」が全部壊されてしまった・廃城令の話を聞いたことがありますが、情けないなぁ。貴重な文化財が消えていったのですね~

最近、江戸文化を評価する動きがあるそうですね。明治期以降、新政権によって意図的にこきおろされた江戸文化は世界的に見ても華麗で先進的なところがおおかった。ペリーが浦賀に来た時に、(シーボルトが国外に持ち出したものを手に入れていた)日本地図の正確さに驚いたと言われます。国民の識字率はおそらく世界一だったんじゃないかなぁ。

こんばんは

会津士魂、発売と同時に全巻購入しました。
力作でしたが、ばかな人間は何処にでも居るようですね。

あまり、日本人同士で争うのもいかがかと。
長州など非人道的でしたが、勝てば官軍を地で行ったような。

最近は、徳川政権を見直す本が多いようです。

「明治維新という幻想」
「大西郷という虚像」
「幕末の大誤算」などでています。

No title

kappaさん、
コメントありがとうございます。

バーミヤンの遺跡でしたか、爆弾で一瞬にして破壊されましたが、人間って以前の人たちが築いた文化を壊したがるものなんですね。
全部否定したいということなんでしょうが、本当にもったいない。

どの時代もいろんな問題があったのでしょうが、明治時代というものの面白さをちょっぴり味わっています。
面白さというと語弊がありますが、現代日本はすべて、外圧とか何もかもが明治維新から始まった。歴史は過去と現在のキャッチボールといいますが、過去とボールをやり取りして初めて今を知ることができることを痛感しています。

識字率の統計の本をちょっと読みましたが、確か西高東低だったかと。京阪は高いですね。大阪は商人の町ですし、数学にも強かったんじゃないでしょうか。

No title

one0522さま
コメントありがとうございます。

「会津士魂」、読まれましたか。私はまだ。ダメですね。
one0522さまのような維新に造詣の深い方に、このにわか勉強のつたないブログをお読みいただいて、ちょっと恥ずかしいです。

静岡はかつては「蝦夷地」に含まれていました。大井川がその境目だそうです。
また日本のほぼ中央にあるため「ただ通り過ぎるだけの町」でもありましたから、家康が隠居地にしたりその子孫の謹慎場所にしやすかったのだと思います。

会津などのような強烈な体験もなく、薩長のような憎悪の対象にもならない、いってみれば覇気のない土地柄ですが、でもそれだけに時代の哀しみの吹き溜まりのような、そういう澱のようなものが根強く残っています。

明治の政治の方針は、ほとんど旧幕臣たちの新時代構想を乗っ取ったものと言われていますが、私はこの歳になってやっと、明治維新の本当の姿は学校で教えられたのとは違うことを知りました。

西郷さんもよくわからない。
今井信郎はなぜ追い詰めた西郷の命を取らずに見逃したのか、今井はなぜ慶喜に会いにいかなかったのか、その辺も知りたいところです。

現在の官僚主義は明治政府に始まるそうですね。
とにかく日本文化を浸食されたくない、そんな気持ちがどんどん強くなってきます。

歴史はー、

こんにちは。いつもお世話になっております。
さっちょー、きらーい。ものすごく根っこのとこで、きらーい。

教科書は結局勝者に都合の悪いことは教えず、習ったことが正史だと思い込んでしまうとこが罪だと思います。

幕末明治は先日ご紹介した先様の記事でお勉強してます。
ほんとの歴史を学ぶ事が出来る時代まで、あと少し。

徳島の板東ドイツ人収容所を調べた時も、会津出身の所長の言葉

『薩長人ら官軍にせめて一片の武士の情けありせば』

が、忘れられません。所長は訓示として

『武士の情け』これを根幹として俘虜を取り扱いたい。

と、述べています。

No title

つねまるさま
コメントありがとうございます。

薩長、特に長州嫌いが多くて山口県の方が気の毒になってきます。

会津へ行ったとき、地元の方が「昔は長州人とわかったら泊めない旅館もあった」というので驚きました。そのときは友人3人で会津にきていて、中の一人が山口出身。
たまたま現地で別行動をしていたので「不測の事態」にならずにすみました。

でも維新前は、薩摩も長州も穏健派が占めていたんですよね。それが強いのに押し切られた。

明治政府の主だった人たちはもともと下級武士で、権力を握ったら今度は徳川関係の姫様との婚姻を望み始めた。で、ある家では「自分の目の黒いうちは絶対させない」と。そんな話が残っています。

「武士の情け」。そうですよね。

田中光顕なんか「税金をかすめ取って建てた泥棒御殿」と新聞に書かれた豪邸を静岡に2軒も持っていたんです。
記者の給料が20円だった当時、この屋敷一軒の建築費が30万円もしたそうです。毎晩、妓楼でドンチャンやって、70歳近くになって二十歳の娘と結婚。

「武士の情け」なんてバカバカしくて考えもしなかったことでしょう。
プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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