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恩人

柴田幸次郎を追う
01 /29 2017
牧之原へ入植した中条景昭は、
明治8年3月、今は新政府の役人になっている山岡鉄舟から、
「神奈川県令になっていただきたい」と要請されます。

県令とは、現在の県知事のことです。

しかし中条さんは、これを蹴ったんです。
「わしはこの荒野に骨を埋める。お茶の肥やしになるのですよ」と。

下の写真は、牧之原産を中心にブレンドした煎茶です。
世界緑茶コンテストで通算連続で最高金賞と金賞を8回受賞した
お茶屋さんの製品です。

金賞なので、袋も
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お茶は農家自慢の単品もおいしいですが、ブレンドこそ命だそうで、
お茶屋さんはご自分の五感と培った技で自慢のブレンド茶を作ります。

さて、入植から13年目の明治15年、こんなことが起きました。

大草高重は山梨県で開催されたお茶の品評会に、
牧之原特産として「大草組」のお茶を出品しました。
ところが、下された判定は「粗悪品」。


手塩にかけて育てたお茶が「並以下の粗悪品」とされて、大草は憤慨。
そりゃそうですよね。粗悪品を徳川家へ献上していたことになりますから、
忠実勤勉な腹心にしてみれば一大事です。

中条とともに時の県令・大迫に抗議に行きます。大迫県令は大弱り。
そこで助け舟を出したのが、三重県の茶師・酒井甚四郎という人です。

酒井は牧之原まで足を運び、茶園から茶工場を見て回り、
このお茶は決して粗悪品ではない。ただ栽培上に問題があるとして、
魚肥の入れ方、新芽をもみ上げる時間など、
代表者たちを集めてきめ細かく指導。

いわれてみればもっともなことばかりです。

酒井甚四郎のこの親切に感激した中条や大草は、
白隠禅師の画や徳川家達の書をお礼に差し上げたそうです。

ところが今度は酒井の方がこれに感激。
農商務省の茶業課を訪れ、品評会の審査長だった多田元吉に、
牧之原の入植者の話を伝えました。

多田元吉も元幕臣で、明治2年、
静岡市丸子の徳川家の土地を譲り受けて茶の栽培を始めた人です。

のちに新政府に登用され、インドや中国へ紅茶製法の調査に出かけます。

多田元吉の著作です。
img705.jpg img705 (2)

右は徳川慶喜公から贈られた短冊。
「雪中求若菜」

雪の中にあっても、力強く芽吹いてみずみずしい若菜になって欲しいー。

禄を失い厳しいこの時代にあっても、力強く芽吹いてくれよという希望を、
旧幕臣たち、あるいは自分自身へ込めた言葉なのでしょうか。

こちらは多田元吉の弟子で、茶樹「やぶきた」の発見者・杉山彦三郎
藪の北側に生えていたので「やぶきた」と命名された、と聞いたときは、
まさか!と笑いましたが、それは本当のことだった。

本物                  銅像
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静岡市葵区・駿府城公園

酒井が多田に伝えた牧之原開拓の中条、大草たちの話は、
今度は多田から農商務大臣の西郷従道(つぐみち)へと伝わりました。
西郷従道は西郷隆盛の弟です。
牧之原に入植した侍たちの苦闘を知った西郷は心を打たれ、
これがきっかけで、のちに牧之原を訪問します。

その折り、従道は兄・隆盛の旧知・今井信郎を訪ねます。
今井信郎は元・京都・見廻組。
あの坂本龍馬を斬った男と言われた人です。
今井も中条を頼って、ここ牧之原に入植していたのです。

10数年前、私は今井信郎の旧居があったという場所へ行きましたが、
竹林を背にした寂しい場所でした。
その侘び住まいで従道はお茶をいただき、往時を偲んだそうです。

屋敷跡に今井信郎の顕彰碑を建立したときの新聞記事です。
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(静岡新聞・平成15年2月24日)

さて、静岡県のお茶の関係者がお世話になった三重県人は、
この酒井甚四郎だけではありません。
日本茶の振興に一生をささげた大谷嘉平も静岡県人にとっては恩人です。

静岡市の中心地に谷津山という標高100㍍ほどの小山があります。

こちらは、そのふもとの清水山公園に建つ大谷嘉平の像です。
CIMG3577.jpg
静岡市葵区・清水山公園

実はこれ、昭和40年に新たに建てた大谷嘉平の2つ目の銅像なんです。

この谷津山には静岡県最古の前方後円墳があります。

郷土研究家の安本収氏によると、
「お茶の貿易でお世話になった大谷への恩返しに銅像を建てようとしたら、
古墳がある山だとわかった。
それを知った大谷が、古墳に自分の銅像などとんでもないといい、
逆に、古墳の保存と公園整備のための費用を申し出た」
そうです。

大正6年、その感謝をこめて公園内に最初の大谷嘉平の銅像を建立。
ところが太平洋戦争の勃発で、
銅像は軍に供出されて台座だけになってしまいます。

そして戦後13年たった昭和33年
この台座は駿府城公園に運ばれ、あらたな像を乗せることになりました。
像は、戦争中、軍需工場で亡くなった勤労奉仕の学生をモデルにしたもので
「やすらぎの塔」(岸信介・筆)と名づけられました。

戦没学生たちの名前を刻んだプレート。
CIMG3601.jpg

台座にはこう刻まれています。

「凛々しかった君たち若人らは、国家と運命を共にして、
一片の名誉すらなく、献身の二文字に消えた」

で、この台座はまたまた悲運に遭遇します。

台座の上に凛々しく立っていた男女二人の学生像が、
6年前の東北大地震で亀裂が入ったため、
市で撤去してしまったのです。

市民からの補修や再建の声も届かず…。

台座だけになった「やすらぎの塔」です。
高さ6.6㍍。両サイドの灯火台も破損。
近くにいる人と比べて見てください。かなりの大きさです。

CIMG3602.jpg
静岡市葵区・駿府城公園、「やすらぎの塔広場」

大谷嘉平の銅像は台座だけ残して軍に供出され、
その台座に今度は戦没学生の像が乗せられた。
そしてその像も地震で撤去されて、また台座だけになりました。

嘉平翁もまさかの展開ですが、思えば数奇な運命ですね。

これはおまけ。巨大な石のわさびです。
CIMG3595.jpg
駿府城堀端

このそばを通るたびに、なんとなく妙な気分になります。

<つづく>

※参考文献/「侍たちの茶摘み唄」江崎惇 鷹書房 平成4年
     /「牧之原開拓秘話 遺臣の群像」塚本昭一 初倉郷土研究会
      平成23年
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コメント

非公開コメント

こんにちは

私には珍しい話や、興味津々の話です。
幕末期の話を見ながら楽しんでいます。

大谷嘉平氏の銅像も数奇な運命があったのですね。

「やぶきた茶」・・・なるほど!
今度飲む時に感慨深いでしょう。

西郷さんが、今井氏と繋がっているようなことに??
兎に角、西郷隆盛は陰謀・計略の第一人者ですからね。
江戸での強奪・殺人、あらゆる悪行の指揮ともききます。
徳川討伐に中岡・坂本が邪魔になったから・・・


No title

one0522さま
コメントありがとうございます。

こちらの郷土史家の書かれた本には、今井信郎と西郷隆盛とのつながりは、今井が京都見廻組にいたとき、西郷を追い詰めたが斬らずに見逃してやったことに始まるとあります。

今井はのちに龍馬暗殺の容疑で捕まりますが、斬首にならず釈放されたのはかつて今井に助けられた西郷の意思が働いたため、としています。

明治10年、西南戦争が勃発したとき、今井は新政府の西郷軍討伐隊に志願したそうですが、今井の息子の健彦氏の話では、「これは龍馬事件で恩顧を受けた西郷を助けるため表向きは討伐隊となり現地で寝返るつもりだった」となっています。

ただし今井が浜松市まで行ったところで西南戦争は終了したので戦わずに帰京。今井は静岡へ帰ります。
なお息子の健彦氏は高橋是清の秘書から国会議員になった人です。

西郷は大久保利通と共に徳川つぶしのワナをかけた人ですから、快く思えませんが、とにかくこの時代、敵味方が入り乱れていて、浅学の私には理解するのが難しいです。が、面白いです。

こんばんは

詳しくありがとうございます。

私的には、西郷は信じられませんが、
二人がこの宿に居ることを教えたのは、誰?
などと詮索したりと。
後の人の書いた書物は、勝海舟もそうですが、
自慢が殆ど、あるいは都合の良い様に書いているかと。
実際の事を書けば、相当なあくどい事があったと思っています。

独断ですし、徳川=東軍贔屓が強くてすみません。

No title

贔屓があって当然だと思います。
私も徳川贔屓ですから。

慶喜邸を訪問した人を記した「徳川慶喜家扶日記」に、同じ見廻組の石坂周造はでてくるのに今井信郎は出てこないんです。
慶喜さんははっきりした人のようで、面会拒絶をよくしているのですが、今井は訪問した形跡すらありません。行けない理由があったんだと思います。

勝海舟という人は狡賢いというか、でも目先のきく人だったみたいですね。
困窮した牧之原開拓団のために大久保利通から2万両出させたりしています。ただし、大久保からといったら中条らは拒否するので、徳川宗家からの支給にしています。
勝海舟自身も500両、自腹で寄付しています。

いずれにしても私が目にするのはひと様の著作で、一次資料ではないので偏りがあるかもしれません。参考資料など教えていただけたら嬉しいです。

参考までに

磯田道史先生の説は、以下の通りです。

「会津藩の首脳部の手代木直右衛門と見廻組の組頭・佐々木只三郎が相談し、藩主・松平容保が承認して見廻組が決行した。理由はあとから容保の褒状が出ていること」(龍馬史)

追記

磯田先生の説で、書き忘れました。

「龍馬暗殺の黒幕」についてです。

m(__)m

\(^o^)/ 興味津々、読ませていただいております。

牧之原と金谷原は同じところだったのですね。24日の記事で知りました。

内閣文庫第壱号に、勝安房(海舟)が、金谷原の中条家に3日程泊まったとか徳川慶喜方にて3泊・・・云々と記載されていました。

こういう背景があったのですね。

残照

minekazeyaさま
コメントありがとうございます。

牧之原はもとは「諏訪原」といったようです。その一画に武田信玄が築城した諏訪原城という城がありました。家康と攻防戦を繰り広げた城です。
家康時代になると「諏訪原」は「牧野ケ原」と変わります。現在の「牧之原」になったのは明治4年からです。

「金谷原」という言い方は、中条たちが辞令をもらったとき「金谷原開墾方之頭」というふうに出てきます。

ここは大井川西岸に広がる大茶園ですが、この台地に立つとはるか眼下に大井川が見えます。台地なので水はけの良い地層でお茶には最適だそうですが、逆に住むには適さず、苦労したそうです。元は徳川家の土地でただの荒地でした。
海寄りに近年、静岡空港ができました。

時代が変わることは仕方のないことですが、滅びゆく者の哀しみがあっちこっちに沁みこんでいて、なんともいえない気持ちになります。

そうか…

こんにちは。いつもお世話になっております。
そうかぁ。静岡で大切なものは、わさびなのかぁ。
・・・えーっ。

育った土地柄か徳川様には自然と親しみと畏敬ぽい思いがありますが、殿様の周りの家臣団をもっと知りたくなります。

粗悪品と言われた時の当事者のお顔が想像できて、泣き笑いです。


尾張の殿様

つねまるさま
コメントありがとうございます。

牧之原に入植した大草高重は尾張のお殿様と親しかったそうですよ。共に名馬の語り相手とかでウマが合ったー。
木曽産の馬も拝領。いつのころかわかりませんが、維新後、屋敷に招かれてお酒をいただいたそうです。

尾張侯は玄同=己の才知をひけらかさず、上下差別をしない=人だったとか。

牧之原入植者には奥医者とか右筆の人もいましたが、なんと能楽師も。名簿で調べているのですが今の所名前はわかりません。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞