特別な思いで…
柴田幸次郎を追う
幕府崩壊で江戸城を官軍に明け渡した最後の将軍・徳川慶喜は、
その足で上野・寛永寺へ入ります。
慶喜、32歳。
その慶喜公の護衛のため、「精鋭隊」が結成されます。
精鋭隊頭は中条金之助景昭。40歳。一刀正伝無刀流達人。
精鋭隊頭取は大草多喜次郎高重。33歳。騎射の名門・和田家に生まれ、
本来は将軍家の所有で、朝廷の綸旨がなければ所持できないという
「重籐弓(しげとうのゆみ)」の所持を許された名人。
中条景昭の像 鎌倉装束の大草高重真影

坂本・種月院蔵 大草家蔵 いずれも「遺臣の群像」より
ほかに北辰一刀流の山岡鉄太郎(鉄舟)、直心影流の榊原健吉、
関口艮輔(隆吉)=のちの静岡県令=など剣豪揃いの旗本70余名。
彼らは慶喜公と共に上野から水戸、その水戸から駿府へとやってきた。
江戸火消し「を組」の親分、新門辰五郎もまた子分ともども、
付かず離れず一行のあとを追ってきた。
慶喜公は二代将軍秀忠の生母・西郷の局の菩提寺・宝台院に入り、
新門一家はそこからほど近い常光寺を宿にして護衛にあたった。
一方、精鋭隊は名を「新番組」と改め、
久能山周辺の寺や民家に間借り。肩身の狭い「お泊りさん」になった。
幕臣たちを受け入れた家々では、この人たちを「お泊りさん」と呼んだのです。
慶喜公が謹慎生活を送った宝台院です。赤→が西郷局の墓石。

静岡市葵区常磐町
明治元年7月。
この日から慶喜公の静岡市での30年に及ぶ生活が始まり、
「新番組」もまた、想像もしなかった苦難の道を歩むことになります。
新門辰五郎が建立した戊辰戦争で亡くなった子分たちの供養塔。

静岡市葵区常磐町・常光寺
職を失った旧幕臣たちの中には、
困窮のあまり妻や娘を遊女屋に売る者が続出。そのため「禁止令」まで出た。
生活苦は新番組の元旗本たちも同様だった。
そのころ、私の母方の実家も同じ憂き目にあっていたようで…。
母方は田中藩(藤枝市)の藩士で、曽祖母の父親は柔術師範だった。
幕府崩壊で藩主とともに房総へ移住。
若くして未亡人になった曾祖母は長男を農家へ養子に出し、
父親と共に房総へ行ったものの、のちに二人の子を連れて戻ってきた。
極貧にあっても常に懐剣を帯に差し、物静かに和歌を詠むという人で、
凛として近寄りがたかったと孫にあたる叔母たちから聞いた。
臨終を迎えたとき、養子に出した長男が、
「ひと目会いたい」と尋ねてきたのを、
すでに親子ではないと突っぱねた、とも。
曾祖母は最期まで武士の娘を貫いたのでしょう。
田中藩「田中亀城之図」 明治元年
「田中城内 ○○様だけで郵便が届いたんですって」と叔母たち。

藤枝市西益津町 藤枝市郷土博物館発行のパンフレットより
ひっくり返った時代の波を、官軍に味方した父方も武士だった母方も、
ともに等しく被ってしまったんだと思います。
さて、「新番組」のその後はどうなったかというと、
駿府移住の翌明治2年7月、新番組は廃止され、
同時に中条や大草は「金谷原(牧之原)開墾方」を命じられます。
茶園を作るための入植です。
しかしそこは、農民たちも匙を投げるほどの荒れた台地だったといいます。
入植士族二百数十人。
そこに掘立小屋を建て、刀を鍬に代えて彼らは原野に挑みました。
殿様と言われた男たちは、木を切り倒し切り株を掘り起こす作業に明け暮れ、
千石取りの旗本の奥方や娘たちも大井川流域の川根茶の産地へ行き、
茶のイロハを教えてもらう日々。
下の絵は、牧之原に入植した大草高重のかつての晴れ姿です。
将軍上覧の流鏑馬で、実父・和田勝正、実兄・和田勝信と、
親子競演「三騎揃え」を果たしたときの流鏑馬絵巻です。

東京・高田馬場・穴八幡宮所蔵 「遺臣の群像」より
お茶は種を蒔いてから茶葉の収穫まで4年もかかります。
新政府の役人になった勝海舟や山岡鉄舟の力で資金をつなぐものの、
相変わらずの貧乏暮らし。入植した士族の数も減り続けます。
そんな中、明治6年、とうとう初めての収穫を迎えます。
その初収穫の新茶は、まずは徳川宗家へとの思いから、
中条と大草は新茶を入れたふろしき包みを背負い、
牧之原から徒歩で清水湊へ向かい、船と汽車を乗り継いで東京へ。
その東京・新橋から再び徒歩で、徳川邸のある千駄木まで届けたそうです。
静岡の茶畑です。牧之原大茶園でなくてごめんなさい。

静岡市葵区有東木
「徳川慶喜家扶日記」というものがあります。
明治5年から慶喜公が亡くなる前年の大正元年までの41年間を、
慶喜家の使用人たちが書き継いできた日々の記録です。
その中の明治5年から30年までの静岡時代を、
前田匡一郎氏が「慶喜邸を訪れた人々」という本にまとめています。
前田氏は「人のやれないことをやれ」と誰も手を付けなかった分野に挑み、
「駿遠に移住した徳川家臣団」を著した方です。
この「慶喜邸を…」に、
牧之原に入植した中条や大草たちがたびたび登場します。
日記に出てくる彼らは、大井川を越えてはるばる静岡の慶喜公の元へ、
茶はもちろん、さつまいもや枝豆、胡麻など自分の畑の収穫物を、
姿は変われど武士の魂を忘れず、誠実な腹心のまま、
万感の思いを込めて献上にきています。
ちなみに中条景昭は、明治29年にこの世を去るまで、
ちょんまげを切らなかったそうです。
事実だけを箇条書きにして淡々と構成していく前田氏が、
中条らの姿に胸を熱くしたのか、ここばかりはこう書き添えてありました。
「原野を開拓していた腹心だった彼らからの献上品は、
特別な思いで受け取ったであろう」
<つづく>
※参考文献・画像提供/「牧之原開拓秘話 遺臣の群像」塚本昭一
初倉郷土研究会 平成23年
※参考文献/「侍たちの茶摘み唄」江崎惇 鷹書房 平成4年
/「慶喜邸を訪れた人々」前田匡一郎 羽衣出版 平成15年
その足で上野・寛永寺へ入ります。
慶喜、32歳。
その慶喜公の護衛のため、「精鋭隊」が結成されます。
精鋭隊頭は中条金之助景昭。40歳。一刀正伝無刀流達人。
精鋭隊頭取は大草多喜次郎高重。33歳。騎射の名門・和田家に生まれ、
本来は将軍家の所有で、朝廷の綸旨がなければ所持できないという
「重籐弓(しげとうのゆみ)」の所持を許された名人。
中条景昭の像 鎌倉装束の大草高重真影


坂本・種月院蔵 大草家蔵 いずれも「遺臣の群像」より
ほかに北辰一刀流の山岡鉄太郎(鉄舟)、直心影流の榊原健吉、
関口艮輔(隆吉)=のちの静岡県令=など剣豪揃いの旗本70余名。
彼らは慶喜公と共に上野から水戸、その水戸から駿府へとやってきた。
江戸火消し「を組」の親分、新門辰五郎もまた子分ともども、
付かず離れず一行のあとを追ってきた。
慶喜公は二代将軍秀忠の生母・西郷の局の菩提寺・宝台院に入り、
新門一家はそこからほど近い常光寺を宿にして護衛にあたった。
一方、精鋭隊は名を「新番組」と改め、
久能山周辺の寺や民家に間借り。肩身の狭い「お泊りさん」になった。
幕臣たちを受け入れた家々では、この人たちを「お泊りさん」と呼んだのです。
慶喜公が謹慎生活を送った宝台院です。赤→が西郷局の墓石。

静岡市葵区常磐町
明治元年7月。
この日から慶喜公の静岡市での30年に及ぶ生活が始まり、
「新番組」もまた、想像もしなかった苦難の道を歩むことになります。
新門辰五郎が建立した戊辰戦争で亡くなった子分たちの供養塔。

静岡市葵区常磐町・常光寺
職を失った旧幕臣たちの中には、
困窮のあまり妻や娘を遊女屋に売る者が続出。そのため「禁止令」まで出た。
生活苦は新番組の元旗本たちも同様だった。
そのころ、私の母方の実家も同じ憂き目にあっていたようで…。
母方は田中藩(藤枝市)の藩士で、曽祖母の父親は柔術師範だった。
幕府崩壊で藩主とともに房総へ移住。
若くして未亡人になった曾祖母は長男を農家へ養子に出し、
父親と共に房総へ行ったものの、のちに二人の子を連れて戻ってきた。
極貧にあっても常に懐剣を帯に差し、物静かに和歌を詠むという人で、
凛として近寄りがたかったと孫にあたる叔母たちから聞いた。
臨終を迎えたとき、養子に出した長男が、
「ひと目会いたい」と尋ねてきたのを、
すでに親子ではないと突っぱねた、とも。
曾祖母は最期まで武士の娘を貫いたのでしょう。
田中藩「田中亀城之図」 明治元年
「田中城内 ○○様だけで郵便が届いたんですって」と叔母たち。

藤枝市西益津町 藤枝市郷土博物館発行のパンフレットより
ひっくり返った時代の波を、官軍に味方した父方も武士だった母方も、
ともに等しく被ってしまったんだと思います。
さて、「新番組」のその後はどうなったかというと、
駿府移住の翌明治2年7月、新番組は廃止され、
同時に中条や大草は「金谷原(牧之原)開墾方」を命じられます。
茶園を作るための入植です。
しかしそこは、農民たちも匙を投げるほどの荒れた台地だったといいます。
入植士族二百数十人。
そこに掘立小屋を建て、刀を鍬に代えて彼らは原野に挑みました。
殿様と言われた男たちは、木を切り倒し切り株を掘り起こす作業に明け暮れ、
千石取りの旗本の奥方や娘たちも大井川流域の川根茶の産地へ行き、
茶のイロハを教えてもらう日々。
下の絵は、牧之原に入植した大草高重のかつての晴れ姿です。
将軍上覧の流鏑馬で、実父・和田勝正、実兄・和田勝信と、
親子競演「三騎揃え」を果たしたときの流鏑馬絵巻です。

東京・高田馬場・穴八幡宮所蔵 「遺臣の群像」より
お茶は種を蒔いてから茶葉の収穫まで4年もかかります。
新政府の役人になった勝海舟や山岡鉄舟の力で資金をつなぐものの、
相変わらずの貧乏暮らし。入植した士族の数も減り続けます。
そんな中、明治6年、とうとう初めての収穫を迎えます。
その初収穫の新茶は、まずは徳川宗家へとの思いから、
中条と大草は新茶を入れたふろしき包みを背負い、
牧之原から徒歩で清水湊へ向かい、船と汽車を乗り継いで東京へ。
その東京・新橋から再び徒歩で、徳川邸のある千駄木まで届けたそうです。
静岡の茶畑です。牧之原大茶園でなくてごめんなさい。

静岡市葵区有東木
「徳川慶喜家扶日記」というものがあります。
明治5年から慶喜公が亡くなる前年の大正元年までの41年間を、
慶喜家の使用人たちが書き継いできた日々の記録です。
その中の明治5年から30年までの静岡時代を、
前田匡一郎氏が「慶喜邸を訪れた人々」という本にまとめています。
前田氏は「人のやれないことをやれ」と誰も手を付けなかった分野に挑み、
「駿遠に移住した徳川家臣団」を著した方です。
この「慶喜邸を…」に、
牧之原に入植した中条や大草たちがたびたび登場します。
日記に出てくる彼らは、大井川を越えてはるばる静岡の慶喜公の元へ、
茶はもちろん、さつまいもや枝豆、胡麻など自分の畑の収穫物を、
姿は変われど武士の魂を忘れず、誠実な腹心のまま、
万感の思いを込めて献上にきています。
ちなみに中条景昭は、明治29年にこの世を去るまで、
ちょんまげを切らなかったそうです。
事実だけを箇条書きにして淡々と構成していく前田氏が、
中条らの姿に胸を熱くしたのか、ここばかりはこう書き添えてありました。
「原野を開拓していた腹心だった彼らからの献上品は、
特別な思いで受け取ったであろう」
<つづく>
※参考文献・画像提供/「牧之原開拓秘話 遺臣の群像」塚本昭一
初倉郷土研究会 平成23年
※参考文献/「侍たちの茶摘み唄」江崎惇 鷹書房 平成4年
/「慶喜邸を訪れた人々」前田匡一郎 羽衣出版 平成15年
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コメント
徳川様
今、尾張の徳川さんちの幕末明治を調べておりまして。
北海道の八雲町に入ったんですよね、尾張は。
鮭と豆を必ず徳川様へ贈り続けた八雲の旧尾張藩士。
地元名古屋よりもずっとずっと徳川様を慕っています。
自分の故郷と静岡での徳川主従のお話が重なって、誇りに思うやら寂しいやら、です。
2017-01-24 21:32 つねまる URL 編集
No title
コメントありがとうございます。
以前「北海道・八雲へ渡った尾張藩士たち」のことをお聞きして、すごい興味を持ちました。ブログ記事、楽しみにしています。
確か当時の尾張藩主・徳川慶勝は新政府に忠誠を誓い、積極的に討幕へと加担した人でしたね。
この人の命を受けた家臣が静岡県内の藩主たちに官軍への加担を工作して歩き、神主たちの官軍への加担もそんな力が働いたということを本で読みました。
八雲へ移住した尾張藩士たちはどういう人たちだったのか、早く知りたい!!
2017-01-24 22:02 雨宮清子(ちから姫) URL 編集
きゃー
そうなんです。ちょっとごめんなさいな感じなのですが、尾張には幕府に対する長年の恨み辛みがありまして。
私のモットーは現地へゴーなので、GWになりますが、調べるにつれどんどん尾張の徳川様を慕う気持ちが膨らみます。
2017-01-24 22:47 つねまる URL 編集
大政奉還プロジェクト
いよいよ今月から会津若松市~鹿児島市までの21都市をめぐるスタンプラリーがスタートです。
題して「幕末維新・大政奉還150周年記念スタンプラリー」
全制覇特別賞は二条城二の丸御殿大広間で記念撮影だそうです。
1都市は軽い(旅行券1000円分)。3都市(旅行券5万円分)も可能だなんて思っていますが、
幕末とか明治維新をもう一度考えてみるというのが、一番うれしいです。
2017-01-25 17:41 雨宮清子(ちから姫) URL 編集