福島正則の力石
柴田幸次郎を追う
ケーキさんのお話の途中ですが、
「木戸孝允日記」に、
思いがけなく力石が出てきましたので、ちょっと横道。
木戸孝允は桂小五郎の名で知られた長州藩士です。
激しい倒幕運動を展開して、維新後は新政府の首脳の一人になります。
西郷隆盛、大久保利通とともに明治維新の三大功臣といわれていますが、
大久保よりずっと人間味のある穏やかな人柄だったそうです。
また反征韓論の立場に立ったため、のちに西郷と袂を分かちます。
明治7年(1874)、
この年の2月には江藤新平の「佐賀の乱」が起り、
この3年後に西郷隆盛の反乱、「西南戦争」が勃発します。
佐賀の乱。

「名ごりの夢」の今泉みねさんの夫で佐賀藩士の今泉利春は、
これに加担して検挙されてしまいます。
首謀者の江藤新平は刑死のうえ、さらし首。
そのむごたらしい写真が残っていますが、
明治も7年もたっているのに、まだこんなことをやっていたんですね。
これが文明開化なの?
さて、力石です。
木戸孝允はこの年の5月30日、雨の箱根峠を越え、夕刻、三島へ。
かつてこの三島宿で本陣を営んでいた世古六太夫の家でしばし休憩。
伝え聞く力石を見て、
「この庭中に、往昔、福島正則の抱えしという石あり」と日記に記します。
この「福島正則の力石」、実は現在、2ヵ所に存在しています。
一つは沼津市我入道の浜町公民館前。
これです。

静岡県沼津市 54×26×30㎝
「二十貫」
碑文にはこうあります。
「天正時代、豊臣秀吉の小田原征伐のおり三島世古本陣に寄宿した
武将福島正則がこの石を持ち上げたという伝承から、
『福島正則の力石』と呼ばれている。
平成12年10月吉日 我入道連合町内会 浜町自治会」
しかしこの石、平成10年発行の「香貫・我入道の石仏・石神」には、
「不動堂のがけ下に馬頭観音などの石仏群と一緒に祀られている」
とありました。
力石だけ移動したということでしょうか。伝承は同じです。
そしてもう一つは、三島市塚原新田の個人宅にあります。
それがこちら。

静岡県三島市 杉本宅
少し黄色っぽい大きな石で、瓦葺のお堂に大切に保存されています。
お訪ねしたとき、この家の奥さんがこんなことをおっしゃった。
「私が嫁にきたとき、おじいさんから、これは大切なものだから
ちゃんと守っていってくれよと、よくよく言われました」
この石について「ふるさとの街道」という本には、
「ふくしま十郎さゑもん」と刻まれているとありました。
確かに「ふくしま」の下に「十」のような文字が見えますが
でも、自信はないけど私には、
「ふくしま左ゑ門大夫」のように読めました。
福島十郎左衛門(助昌)なる人物は存在しましたが、
この人は今川家臣で、高天神城で切腹しています。
名前の右横に「大正」の年号が入っています。
大正はあり得ませんから、現在の石の刻字は、
大正時代の杉本家のご当主が、追刻したものと思われます。
福島正則は自慢の槍の先で文字を刻んだとされていますので、
元の字が消滅したため追刻したのかも。(ちょっと好意的過ぎか?)。
さてさて、この二つの石、みなさまはどちらが本物と思われますか?
どちらも、
世古氏が明治半ばごろ、
本拠地を三島から沼津へ移した際、運んできたと言っています。
そこで、もしやと思い、
幕末の世古本陣当主の懐古録「松翁六十路の夢」を読みましたが、
残念! 出てきません。
世古本陣最後のご当主・世古直道です。

じゃあ架空の力石かというと、それがそうでもない。
「槃游余録」(ばんゆうよろく)という本があります。
江戸幕府役人の吉田百樹が書いた伊豆の旅行記ですが、
それにちゃんと出てきます
寛政4年(1792)閏2月、吉田百樹は伊豆への旅に出ます。
15日に三嶋大社に詣でたあと、世古本陣へ立ち寄り、
そこで庭の池のほとりに立つ巨石を見つけます。
駅(うまや)の長(おさ)の世古が言うには、
「60年ほど前、備前岡山藩主の池田侯がこの本陣に泊まった折、
土の中から大石が突起しているのを見つけて、戯れに石を動かした。
力自慢の藩主だったので石は動き、埋没していた石の部分に、
『天和二年閏二月 福島左衛門大夫正則之を立つ』
と刻んだ文字が見つかった。
ここで初めて石の由来を知ることができた。
石を立てるのに18人ほどでやっと、というほどの巨石だった」
ちなみに天和2年は1616年。家康が没した年です。
沼津市の説明板に書いてある秀吉の小田原攻めは天正18年(1590)。
26年もの開きがあります。
天和と天正、それに大正、うーん、ややこしい。
広島県にも福島正則の力石伝説があります。
その「大夫戻しの石」伝説のある求聞持堂です。


「厳島図会」より。 広島県宮島
百樹さん、石の寸法を旅行記に書き留めています。
「石の高さおよそ六尺(180㎝)、その地上に露出するもの四尺、
地下に二尺(60㎝)。苔鮮密封古色愛すべし」
二十貫の刻字がある沼津市我入道の石は、本物の力石ですが、
ただし54㎝しかないので、福島正則の石ではないことになります。
師匠の高島先生も、
「伝説上の力石のように保存してあるが、大きさと重量からして、
誰もがチャレンジしたことは充分考えられる」としています。
本陣の庭で、備前の池田侯が見てから60年後に吉田百樹が見て、
その82年後に木戸孝允が見た「福島正則の力石」、
ここまできたら、もう真贋なんてどうでもいいですね。
どちらも力石として末永く大切に、と願っています。
さて、明治7年、三島の世古邸で力石を見た木戸孝允。
さらに床の間に、自らが滅ぼした徳川慶喜の短冊を見つけます。
それにはこう記されていました。
布(し)かぬ夜も草葉に風の色みへて
露よりさきにちる蛍かな
<つづく>
=場違いですがちょっと言いたいこと=
NHK職員が解約などで生じた返金をネコババしていた事件。
10数年前、私もやられました。テレビが壊れたのを機にテレビを止めたとき。
年払いの口座引き落としの確か9か月分ほどの返金。
そのとき職員はこう言いました。
「いったん払った受信料は返さない規則になっています」
この事件って今に始まったことではないような気がします。
※参考文献・画像提供/「木戸孝允日記」日本史籍協会叢書 昭和7、8年
復刻 筑摩書房 昭和39年
/「香貫・我入道の石仏石神」
市史編さん調査報告書第1集沼津市教育委員会
平成10年
/「松翁六十路の夢」原本所蔵者 植松徳
沼津市立駿河図書館 昭和59年
/「日本名所風俗絵図」「厳島図会 巻之四」
角川書店 昭和56年
※参考文献/「江戸時代の伊豆紀行文集」「槃游余録」吉田百樹 寛政4年
復刻 長倉書店 昭和63年
/「ふるさとの街道・箱根路」伊豆郷土史研究会
稲木久男・土屋寿山 長倉書店 昭和57年
「木戸孝允日記」に、
思いがけなく力石が出てきましたので、ちょっと横道。
木戸孝允は桂小五郎の名で知られた長州藩士です。
激しい倒幕運動を展開して、維新後は新政府の首脳の一人になります。
西郷隆盛、大久保利通とともに明治維新の三大功臣といわれていますが、
大久保よりずっと人間味のある穏やかな人柄だったそうです。
また反征韓論の立場に立ったため、のちに西郷と袂を分かちます。
明治7年(1874)、
この年の2月には江藤新平の「佐賀の乱」が起り、
この3年後に西郷隆盛の反乱、「西南戦争」が勃発します。
佐賀の乱。

「名ごりの夢」の今泉みねさんの夫で佐賀藩士の今泉利春は、
これに加担して検挙されてしまいます。
首謀者の江藤新平は刑死のうえ、さらし首。
そのむごたらしい写真が残っていますが、
明治も7年もたっているのに、まだこんなことをやっていたんですね。
これが文明開化なの?
さて、力石です。
木戸孝允はこの年の5月30日、雨の箱根峠を越え、夕刻、三島へ。
かつてこの三島宿で本陣を営んでいた世古六太夫の家でしばし休憩。
伝え聞く力石を見て、
「この庭中に、往昔、福島正則の抱えしという石あり」と日記に記します。
この「福島正則の力石」、実は現在、2ヵ所に存在しています。
一つは沼津市我入道の浜町公民館前。
これです。

静岡県沼津市 54×26×30㎝
「二十貫」
碑文にはこうあります。
「天正時代、豊臣秀吉の小田原征伐のおり三島世古本陣に寄宿した
武将福島正則がこの石を持ち上げたという伝承から、
『福島正則の力石』と呼ばれている。
平成12年10月吉日 我入道連合町内会 浜町自治会」
しかしこの石、平成10年発行の「香貫・我入道の石仏・石神」には、
「不動堂のがけ下に馬頭観音などの石仏群と一緒に祀られている」
とありました。
力石だけ移動したということでしょうか。伝承は同じです。
そしてもう一つは、三島市塚原新田の個人宅にあります。
それがこちら。

静岡県三島市 杉本宅
少し黄色っぽい大きな石で、瓦葺のお堂に大切に保存されています。
お訪ねしたとき、この家の奥さんがこんなことをおっしゃった。
「私が嫁にきたとき、おじいさんから、これは大切なものだから
ちゃんと守っていってくれよと、よくよく言われました」
この石について「ふるさとの街道」という本には、
「ふくしま十郎さゑもん」と刻まれているとありました。
確かに「ふくしま」の下に「十」のような文字が見えますが
でも、自信はないけど私には、
「ふくしま左ゑ門大夫」のように読めました。
福島十郎左衛門(助昌)なる人物は存在しましたが、
この人は今川家臣で、高天神城で切腹しています。
名前の右横に「大正」の年号が入っています。
大正はあり得ませんから、現在の石の刻字は、
大正時代の杉本家のご当主が、追刻したものと思われます。
福島正則は自慢の槍の先で文字を刻んだとされていますので、
元の字が消滅したため追刻したのかも。(ちょっと好意的過ぎか?)。
さてさて、この二つの石、みなさまはどちらが本物と思われますか?
どちらも、
世古氏が明治半ばごろ、
本拠地を三島から沼津へ移した際、運んできたと言っています。
そこで、もしやと思い、
幕末の世古本陣当主の懐古録「松翁六十路の夢」を読みましたが、
残念! 出てきません。
世古本陣最後のご当主・世古直道です。

じゃあ架空の力石かというと、それがそうでもない。
「槃游余録」(ばんゆうよろく)という本があります。
江戸幕府役人の吉田百樹が書いた伊豆の旅行記ですが、
それにちゃんと出てきます
寛政4年(1792)閏2月、吉田百樹は伊豆への旅に出ます。
15日に三嶋大社に詣でたあと、世古本陣へ立ち寄り、
そこで庭の池のほとりに立つ巨石を見つけます。
駅(うまや)の長(おさ)の世古が言うには、
「60年ほど前、備前岡山藩主の池田侯がこの本陣に泊まった折、
土の中から大石が突起しているのを見つけて、戯れに石を動かした。
力自慢の藩主だったので石は動き、埋没していた石の部分に、
『天和二年閏二月 福島左衛門大夫正則之を立つ』
と刻んだ文字が見つかった。
ここで初めて石の由来を知ることができた。
石を立てるのに18人ほどでやっと、というほどの巨石だった」
ちなみに天和2年は1616年。家康が没した年です。
沼津市の説明板に書いてある秀吉の小田原攻めは天正18年(1590)。
26年もの開きがあります。
天和と天正、それに大正、うーん、ややこしい。
広島県にも福島正則の力石伝説があります。
その「大夫戻しの石」伝説のある求聞持堂です。


「厳島図会」より。 広島県宮島
百樹さん、石の寸法を旅行記に書き留めています。
「石の高さおよそ六尺(180㎝)、その地上に露出するもの四尺、
地下に二尺(60㎝)。苔鮮密封古色愛すべし」
二十貫の刻字がある沼津市我入道の石は、本物の力石ですが、
ただし54㎝しかないので、福島正則の石ではないことになります。
師匠の高島先生も、
「伝説上の力石のように保存してあるが、大きさと重量からして、
誰もがチャレンジしたことは充分考えられる」としています。
本陣の庭で、備前の池田侯が見てから60年後に吉田百樹が見て、
その82年後に木戸孝允が見た「福島正則の力石」、
ここまできたら、もう真贋なんてどうでもいいですね。
どちらも力石として末永く大切に、と願っています。
さて、明治7年、三島の世古邸で力石を見た木戸孝允。
さらに床の間に、自らが滅ぼした徳川慶喜の短冊を見つけます。
それにはこう記されていました。
布(し)かぬ夜も草葉に風の色みへて
露よりさきにちる蛍かな
<つづく>
=場違いですがちょっと言いたいこと=
NHK職員が解約などで生じた返金をネコババしていた事件。
10数年前、私もやられました。テレビが壊れたのを機にテレビを止めたとき。
年払いの口座引き落としの確か9か月分ほどの返金。
そのとき職員はこう言いました。
「いったん払った受信料は返さない規則になっています」
この事件って今に始まったことではないような気がします。
※参考文献・画像提供/「木戸孝允日記」日本史籍協会叢書 昭和7、8年
復刻 筑摩書房 昭和39年
/「香貫・我入道の石仏石神」
市史編さん調査報告書第1集沼津市教育委員会
平成10年
/「松翁六十路の夢」原本所蔵者 植松徳
沼津市立駿河図書館 昭和59年
/「日本名所風俗絵図」「厳島図会 巻之四」
角川書店 昭和56年
※参考文献/「江戸時代の伊豆紀行文集」「槃游余録」吉田百樹 寛政4年
復刻 長倉書店 昭和63年
/「ふるさとの街道・箱根路」伊豆郷土史研究会
稲木久男・土屋寿山 長倉書店 昭和57年
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