♪人のやれないことをやれ~
柴田幸次郎を追う
昨年のうちに終了するはずだった「柴田幸次郎」の「大王石」話。
外国奉行・柴田剛中から幕末へと話が飛び、思わぬ長話になりました。
幕府崩壊後の徳川家臣団を続けます。
「駿遠に移住した徳川家臣団」の著者、前田匡一郎氏が、
家臣団に興味を抱いたのは蓮永寺に眠る墓塔群だったという。
蓮永寺です。

静岡市葵区三松
「没年は明治初期に集中している。
これはいったい、どのようなお人たちなんだ?」と。
調査に着手したものの、ローカルの文献では限りがある。
そこで東京の公文書館や青山墓地へと通い始めた。
「世界でたった一つの資料を作り上げてみよう。
風が吹けば飛んでなくなるような年金暮らしの私の寿命など知れている。
だが、筆跡は五十年、百年も生きる」
前田氏は当時の意気込みをそう記しています。
静岡県への移住者は家族も含めると3万人以上といわれています。
駿府へ移住した旧幕臣たちです。
左から松岡万30歳、山岡鉄太郎(鉄舟)32歳、村越蠖堂(かくどう)27歳。
驚くほど若い。
こういう若い人たちが命がけで、歴史の表舞台で動いたんですね。

「駿遠へ移住した徳川家臣団」より
旧・浪士組取締役だった松岡万は、
大茶園・牧之原開拓や新門辰五郎との製塩事業などに着手。
人望があったためか、静岡県磐田市には、この人を祀った神社があります。
村越蠖堂は元・黒鍬の者。
移住後は松岡万に付属して製塩方記録係や静岡新聞縦覧場社員に。
駿府城堀端の教導石にその名を残しています。
話を戻します。
さて、路頭に迷った旧幕臣は、なにも静岡県ばかりではなかった。
「武士の家計簿」(磯田道史)という本があります。
映画にもなったのでご記憶の方もおいでかと思いますが、
この本には、静岡の移住者に負けず劣らずの、
加賀藩士たちのさまざまな実情が記されています。
興味深いのは、維新後の混乱を乗り切れた家臣と、
没落していった家臣のその差について考察されていることです。
平成13年の酷暑の中、
磯田先生は銀行で下したばかりの16万円を持って、
神田神保町の古書店へ駆け込みます。
そこで興奮しつつ購入したのがこの「金沢藩士猪山家文書」です。

「武士の家計簿」より
探し求めていた「武士の家計簿」は37年間という完璧な記録だったそうです。
著者は藩の御算用者(会計係)だった猪山家に焦点をあて、
その成功の鍵をこう分析しています。
それはこの家が、由緒だけに頼ってきた士族と違い、
藩という組織以外でも通用する「ソロバン役」という実務家で、
その有益な学識才能を持っていた。
そのことが新政府の目指す近代化に合致したー。
落ちぶれて犀川の橋詰めで、
ドジョウやトウモロコシを焼いて売っている元士族を尻目に、
実務官僚がいない新政府からヘッドハンティングされた猪山家当主は、
最重要組織の日本海軍の会計を担当するまでになり、
年収3600万円(2003年換算)もの支配エリートになります。
質素な下級武士から新政府の官僚となった猪山家当主です。

「武士の家計簿」より
この本によると、
明治7年の猪山家の年俸は当時のお金で1235円。
これに対して金沢製紙株式会社の雑務係りに採用された元士族の親戚は、
日雇いにしかなれず、年俸はたったの48円であったという。
著者はいう。
「これが士族にとっての明治維新の現実であった。
新政府を樹立した人々は、お手盛りで超高給をもらう仕組みをつくって、
さんざんに利を得たのである」
「官僚が税金から自分の利益を得るため、好き勝手に制度をつくり、
それに対して国民がチェックできないというこの国の病理は、
すでにこの頃にはじまっている」
あれ? それって平成の今もいえますよね~。
高級官僚と非正規雇用…。う~ん、官僚ってやつは…。
著者はこんなことも言っています。
「幕末は政治の季節であり、有能な者はみな政治に走った。
しかし猪山親子には全く政治的な動きをした形跡はない。
機械的な官僚としてひたすら業務をこなす。意見はいわない。
これが藩に受け、新政府にも受けた」
「家臣団」の著者、前田匡一郎氏は調査がつらくなると、
水前寺清子が歌った「いっぽんどっこの唄」の
「♪人のやれないことをやれ~」のメロディに、
励まされつつがんばったという。
レコードの発売は1966年。ってことはうわわ、半世紀も昔の唄なんだ。
水前寺さんも年とっだだろうなあ…。

さて、この著者は「武士の家計簿」をこんな言葉で締めくくっています。
「武士のその後を追いかけなければ、
維新後の士族の本当の姿はわからない。
これから解明していかなければならない課題です」
まさに前田氏はその解明のため、
武士のその後を16年も追い続けたのです。
こういう「人のやれないこと」をやった人たちはほかにもいます。
それは、消えゆく庶民遺産の力石を残そうと全国行脚を続けた
四日市大学の高島愼助先生と、
その先生を支えてきた過去現在の調査・研究者たちと、
岐阜の大江さんや兵庫の浪速の長州力さんに代表される現役の力持ち、
そして、今なお伝統を守り、
石や俵や鏡餅による力持ち大会を続ける全国各地のみなさまたちです。
「幕末から今度は力石かい?」なあんてお笑いくださいますな。
力石担ぎ挑戦の最年長者の浪速の長州力氏(左)と、
若手の実力者・大江誉志氏。

こちらは毎年「播州秋祭り」に行なわれる姫路市大津区の天満力持ち。
果敢に挑む若者と指導する高校教師の三輪光先生です。

こちらも毎年恒例の「力石総社」
子供からお年寄りまで楽しんでいます。

岡山県総社市・総社宮
調査中の高島先生です。

静岡県御殿場市柴怒田(しばんた)・古道道端
「阿吽の呼吸という言葉がある。力石という重い石を担ぐときの思いは、
この「吽字義」の世界であると思う。
著者がそこに感じるのは、
農耕民としての日本人の、精神的生活の原型である」
=「力石ちからいし」「高島愼助・考察」より
長年の調査研究の集大成「力石 ちからいし」です。
しょっちゅう手にしているのでボロボロになりました。

表紙に書かれている言葉は、
兵庫県姫路市網干区津市場「稲荷神社」の力石の碑文です。
朝は朝星 夜は夜星を頂く迄働き
粗食に耐え乍ら鍛えた往時の人の
旺盛なる体力と気力を此の石は語る
高島先生は今月、長い教員生活に別れを告げ退官されます。
「お疲れさまでした。
今後は在野の研究者としてなお一層がんばってください」
頼りない自称弟子は心からそう願っています。
フーッ。長い文章になっちゃって…。
新年早々、ちょいと頑張り過ぎました。
<つづく>
※参考文献・画像提供/「駿遠へ移住した徳川家臣団」前田匡一郎
1~4巻自費出版 5巻 羽衣出版 平成19年
/「武士の家計簿」磯田道史 新潮社 2003
※参考文献/「力石 「ちからいし」」高島愼助 岩田書院 2011
外国奉行・柴田剛中から幕末へと話が飛び、思わぬ長話になりました。
幕府崩壊後の徳川家臣団を続けます。
「駿遠に移住した徳川家臣団」の著者、前田匡一郎氏が、
家臣団に興味を抱いたのは蓮永寺に眠る墓塔群だったという。
蓮永寺です。

静岡市葵区三松
「没年は明治初期に集中している。
これはいったい、どのようなお人たちなんだ?」と。
調査に着手したものの、ローカルの文献では限りがある。
そこで東京の公文書館や青山墓地へと通い始めた。
「世界でたった一つの資料を作り上げてみよう。
風が吹けば飛んでなくなるような年金暮らしの私の寿命など知れている。
だが、筆跡は五十年、百年も生きる」
前田氏は当時の意気込みをそう記しています。
静岡県への移住者は家族も含めると3万人以上といわれています。
駿府へ移住した旧幕臣たちです。
左から松岡万30歳、山岡鉄太郎(鉄舟)32歳、村越蠖堂(かくどう)27歳。
驚くほど若い。
こういう若い人たちが命がけで、歴史の表舞台で動いたんですね。

「駿遠へ移住した徳川家臣団」より
旧・浪士組取締役だった松岡万は、
大茶園・牧之原開拓や新門辰五郎との製塩事業などに着手。
人望があったためか、静岡県磐田市には、この人を祀った神社があります。
村越蠖堂は元・黒鍬の者。
移住後は松岡万に付属して製塩方記録係や静岡新聞縦覧場社員に。
駿府城堀端の教導石にその名を残しています。
話を戻します。
さて、路頭に迷った旧幕臣は、なにも静岡県ばかりではなかった。
「武士の家計簿」(磯田道史)という本があります。
映画にもなったのでご記憶の方もおいでかと思いますが、
この本には、静岡の移住者に負けず劣らずの、
加賀藩士たちのさまざまな実情が記されています。
興味深いのは、維新後の混乱を乗り切れた家臣と、
没落していった家臣のその差について考察されていることです。
平成13年の酷暑の中、
磯田先生は銀行で下したばかりの16万円を持って、
神田神保町の古書店へ駆け込みます。
そこで興奮しつつ購入したのがこの「金沢藩士猪山家文書」です。

「武士の家計簿」より
探し求めていた「武士の家計簿」は37年間という完璧な記録だったそうです。
著者は藩の御算用者(会計係)だった猪山家に焦点をあて、
その成功の鍵をこう分析しています。
それはこの家が、由緒だけに頼ってきた士族と違い、
藩という組織以外でも通用する「ソロバン役」という実務家で、
その有益な学識才能を持っていた。
そのことが新政府の目指す近代化に合致したー。
落ちぶれて犀川の橋詰めで、
ドジョウやトウモロコシを焼いて売っている元士族を尻目に、
実務官僚がいない新政府からヘッドハンティングされた猪山家当主は、
最重要組織の日本海軍の会計を担当するまでになり、
年収3600万円(2003年換算)もの支配エリートになります。
質素な下級武士から新政府の官僚となった猪山家当主です。

「武士の家計簿」より
この本によると、
明治7年の猪山家の年俸は当時のお金で1235円。
これに対して金沢製紙株式会社の雑務係りに採用された元士族の親戚は、
日雇いにしかなれず、年俸はたったの48円であったという。
著者はいう。
「これが士族にとっての明治維新の現実であった。
新政府を樹立した人々は、お手盛りで超高給をもらう仕組みをつくって、
さんざんに利を得たのである」
「官僚が税金から自分の利益を得るため、好き勝手に制度をつくり、
それに対して国民がチェックできないというこの国の病理は、
すでにこの頃にはじまっている」
あれ? それって平成の今もいえますよね~。
高級官僚と非正規雇用…。う~ん、官僚ってやつは…。
著者はこんなことも言っています。
「幕末は政治の季節であり、有能な者はみな政治に走った。
しかし猪山親子には全く政治的な動きをした形跡はない。
機械的な官僚としてひたすら業務をこなす。意見はいわない。
これが藩に受け、新政府にも受けた」
「家臣団」の著者、前田匡一郎氏は調査がつらくなると、
水前寺清子が歌った「いっぽんどっこの唄」の
「♪人のやれないことをやれ~」のメロディに、
励まされつつがんばったという。
レコードの発売は1966年。ってことはうわわ、半世紀も昔の唄なんだ。
水前寺さんも年とっだだろうなあ…。

さて、この著者は「武士の家計簿」をこんな言葉で締めくくっています。
「武士のその後を追いかけなければ、
維新後の士族の本当の姿はわからない。
これから解明していかなければならない課題です」
まさに前田氏はその解明のため、
武士のその後を16年も追い続けたのです。
こういう「人のやれないこと」をやった人たちはほかにもいます。
それは、消えゆく庶民遺産の力石を残そうと全国行脚を続けた
四日市大学の高島愼助先生と、
その先生を支えてきた過去現在の調査・研究者たちと、
岐阜の大江さんや兵庫の浪速の長州力さんに代表される現役の力持ち、
そして、今なお伝統を守り、
石や俵や鏡餅による力持ち大会を続ける全国各地のみなさまたちです。
「幕末から今度は力石かい?」なあんてお笑いくださいますな。
力石担ぎ挑戦の最年長者の浪速の長州力氏(左)と、
若手の実力者・大江誉志氏。


こちらは毎年「播州秋祭り」に行なわれる姫路市大津区の天満力持ち。
果敢に挑む若者と指導する高校教師の三輪光先生です。

こちらも毎年恒例の「力石総社」
子供からお年寄りまで楽しんでいます。

岡山県総社市・総社宮
調査中の高島先生です。

静岡県御殿場市柴怒田(しばんた)・古道道端
「阿吽の呼吸という言葉がある。力石という重い石を担ぐときの思いは、
この「吽字義」の世界であると思う。
著者がそこに感じるのは、
農耕民としての日本人の、精神的生活の原型である」
=「力石ちからいし」「高島愼助・考察」より
長年の調査研究の集大成「力石 ちからいし」です。
しょっちゅう手にしているのでボロボロになりました。

表紙に書かれている言葉は、
兵庫県姫路市網干区津市場「稲荷神社」の力石の碑文です。
朝は朝星 夜は夜星を頂く迄働き
粗食に耐え乍ら鍛えた往時の人の
旺盛なる体力と気力を此の石は語る
高島先生は今月、長い教員生活に別れを告げ退官されます。
「お疲れさまでした。
今後は在野の研究者としてなお一層がんばってください」
頼りない自称弟子は心からそう願っています。
フーッ。長い文章になっちゃって…。
新年早々、ちょいと頑張り過ぎました。
<つづく>
※参考文献・画像提供/「駿遠へ移住した徳川家臣団」前田匡一郎
1~4巻自費出版 5巻 羽衣出版 平成19年
/「武士の家計簿」磯田道史 新潮社 2003
※参考文献/「力石 「ちからいし」」高島愼助 岩田書院 2011
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コメント
家老と足軽
昭和20年までのことを書きます。
ワタクシの住んでいた町は主馬町といいました。
主馬之介は加賀藩で鉄砲隊の隊長をしていたので、所属の足軽などを主馬町の長屋に住まわせていたのだと思います。
ワタクシの曾祖母という人は安政元年(1854)の生まれで、ワタクシが小学校の3~4年生の頃に90何歳かで死んだので、ワタクシも黒塗りのハイヤーに乗って金沢市郊外の焼き場まで行ったことを覚えております。
ここまでは全く余分なことです。
ワタクシの家の筋向いに、陸軍大佐の住んでいる官舎がありました。毎朝、下士官が馬を引いて官舎の前に止まって敬礼をしていると、大佐殿が馬にヒラリと乗って、日本帝国陸軍第九師団三十二連隊の場所までご出勤になります。
その家に、ワタクシと同い年の子供がいたのです。ワタクシは尋常小学校に通学するのだが、その子供は、金澤高等師範学校付属小学校に御通学になります。
大佐殿の奥方は加賀藩の家老である本多家(金沢市の中心部に本多町という大きな区画があります)からきていました。本多家は加賀藩時代には10万石の禄をはむ(普通の大名以上ですよ)家柄で、明治維新後は男爵という爵位でした。
大佐殿の家のお嬢様は、戦争中でもピアノを習っていました。庭園には犀川から水を引いた川が流れていて、川の対岸には築山とお亭があるのです。
戦争がすんだ時には大佐殿はすでに軍人恩給をもらう身分であり、ワタクシと同い年のガキは金沢大学付属の高等学校から東京大学に入学し、その一家は東京へ引っ越したのでした。ワタクシといえば旧制の中学校に試験を受けてどうやら入学して今までどうやら生き延びている有様でございます。
ワタクシの曾祖母、この人は多分加賀藩鉄砲隊に属する足軽の娘であったのだろうと思います。
明治になり年頃の娘になっても結婚できずに、それでも家名を継ぐために、大乗寺というお寺の下にあった家の娘を養子にもらって、その娘に婿を取らせて、細々と90歳を超える年まで生きていたのでした。今は主馬町という町名は、幸町というばかげた名前になって、本多町のすぐ近くに存在しています。
ワタクシは金澤の町を逃げ出してしまったのだが、そんなことをしないでしぶとく金澤に住んで、自分の出自を調べておけばよかったと思うこのころです。妄言多謝。
2017-01-04 21:56 ヨリックです URL 編集
No title
うわー、力石を上げているー!
すごいすごい!
吽字義・・・検索してみました。
む、む、難しいです。眠れない夜にもう一度検索してみます。
難しいことを難しく解説しないでください、っと泣きそうです。
精神的生活の原型、ってなんだろう。うーんうーん。
力石って、すごく難しいものなんですね。
高島先生のますますのご活躍、お祈り申し上げます。
2017-01-04 23:08 つねまる URL 編集
No title
私の大好きな体験談をありがとうございました。
私は新聞の文化欄を14年やっていまして、ほとんど一般市民や芸術家の方々へのインタビューでした。またそういう人の聞き手になるのが好きでした。
ただ演劇人への取材には必ずその人の芝居を見たり、芸術家の取材には展覧会や画集を事前に見たり著書があればそれも読んだりしましたから、事前の準備が大変でした。
伊豆の端から浜松、湖西まで歩き回りました。
大佐殿のガキ一家も上京したとのことですが、ここに登場する猪山家もやはり東京へ出て邸宅を構えています。赤貧洗うがごときかつての上司や同僚を尻目に、有り余る収入で値上がりする土地を見つけては買います。
でも順風満帆だったこの家、最後は痛ましいものになりました。当主の息子の一人は日露戦争で戦死。当主の海軍官僚としての跡継ぎの甥は収賄容疑をかけられ(シーメンス事件)失脚。官界を追われます。
著者によると「猪山家は海軍によって興り、海軍によって苦しめられた。当主はそれらをすべて見届けてこの世を去った」
ヨリックさん、今からでも遅くない。しぶとく出自を調べるのもまた意義あることかもしれません。
2017-01-04 23:17 雨宮清子(ちから姫) URL 編集
解説です
先生の文章を切り取ってお伝えしたので、ちょっと中途半端になってしまいました。「精神的生活の原型」のあとの先生の言葉を書いてみますね。
「力石からは豊作の願いと村一番の力持ちの競いと仕事士の証しとしての踏ん張りの精神力、そこに集まった老若男女の笑いを彷彿させ「生きる喜びの証し」「生命の本質」を感じさせられる」
「吽字義」の世界。
これは私にも解ったようなそうでないような…。難しいです。
そこで「精神的生活の原型」を含め、
先生の文章から私なりに要約してみます。
「日々の激しい労働と我慢の生活を強いられていた若者たちなのに、その上「吽」と歯を食いしばって力石を担ぎあげるなんて、ちょっとムチャではないか。そんなことに無駄な力を出さないで、むしろ体を休めるべきだと現代人は思うだろうが、実は逆で、当時の若者たちはそんなふうには考えなかった。
労働のあと、力石の担ぎ場所にみんなで集まって力石に挑戦したり競い合ったりすることは、娯楽の少なかった当時の若者たちの楽しみであったし、それによって仲間の絆が深まっていった。
彼らはそこで村の出来事や仕事のグチ、好きな女の話や性の相談などをした。
力仕事が主だった昔は、力持ちであればあるほどお給金がたくさんもらえたから、重い石を見事担ぎあげた若者は非常に尊敬され、娘たちにもてた。
力持ち=経済力。
娘たちが経済力のある人と結婚したいと思うのは今も昔も変わらない。
また、力石が置かれていた若い衆宿は自治組織として運営されていたため、彼らはそこで先輩たちから生き方、物事の善悪、行儀作法などを教えられた。つまり石担ぎ場は村の倫理が継承される場所でもあった」
とまあ、こんな感じですがどんなもんでしょう。
2017-01-05 00:43 雨宮清子(ちから姫) URL 編集
追記
追記です。
「阿吽の呼吸」
どういう場面でもこれは起り得ますし大事なことだと思います。
石担ぎの場合もこれが大事で、担ぐ人と観客の呼吸が合わないと危険なんです。
実際に石を担ぐ場にいるとわかるのですが、ここで声をあげてはいけないとか、気を引き締めるために声掛けをするとか、観客が何百人いても絶妙な目に見えない「阿吽の呼吸」を感じます。
また足差しをするような巨石ですと、仰向けになった人の足に石を乗せてやるわけですが、タイミングが狂うと石の下敷きになりますから、ビッと緊張感を走らせて「阿吽」でやるわけです。
石担ぎに限らず、昔の若者の精神的生活は、まさに「阿」と言えば「吽」の狛犬さんの世界に通じると思っています。
これはあくまでも自説。師匠から「それは違うよ」と言われそうですが…。
2017-01-05 08:18 雨宮清子(ちから姫) URL 編集
ありがとうございます
なるほどー!っと思いました。
村の祭りのちょっと裏側のような、あけっぴろげだった時代の息遣いを感じま・・・違うかなぁ。
うまく言えないのですが、昔は、若者が若者らしくいてよかったんだろうなぁと思いました。ちゃんと発散できるというか、うーん。
阿吽のお話も、わかりやすいです。
ここでそんな応援はいらんねん、っと感じる間の悪さというか、そんなものを最近のお相撲に感じます。
静寂は、静寂であるべきときに訪れるはず。
能の道成寺「乱拍子」の場面では、小鼓とシテの一騎討ちです。
小鼓の息遣いとシテの足拍子と装束のすれる音だけが、舞台に響きます。
阿吽の呼吸というには厳し過ぎる空間ですが、巨石をあげる瞬間は、きっと同じなのだろうと感じます。
力石発見!きゃっほー♪だけではなく、そこから学ぶことの奥深さに気づかせてくださり、ありがとうございます。
ちから姫様とお話できる幸せを噛みしめております。
ありがとうございました。
2017-01-05 19:39 つねまる URL 編集
No title
私もつねまるさまのブログからたくさん学ばせていただいています。
PCを持たない友人からは常々「ネットは信用できない。ブログってただの日記でしょ」と言われております。私のような年齢になると新しいことに挑戦したり興味を持ったりは「かんだるい(静岡弁で疲れる)」んです。
世の中、興味深い知りたいことがいっぱいあるのにもったいない。
私は目いっぱい活動して楽しんで楽しんで、花と散りたい。
本日から仕事!
加齢と難聴持ちですが望まれる限りがんばります。3月退職の願いを提出してあったのですが、これで長期旅行はまだ先になりました。
2017-01-06 09:49 雨宮清子(ちから姫) URL 編集