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人権って何だろう

世間ばなし
12 /24 2016
年末なのに、ご近所さんが慌ただしく引っ越していきました。
受験生の中高生二人を女手一つで育てていたお母さんです。
ここへ来てまだ2年足らず。
カーテンも新調しエアコンもつけて母子3人の新生活をスタートさせたばかり。

原因は真上の最上階からの騒音。こちらは母子(高校生?)2人住まい。

私が住む家はエレベーター付きの5階建て28世帯の公営住宅です。
行き届いた設備、日光・風通し.・交通の便など申し分のない環境。
怪しげな訪問客にはうんざりしていますが、まあまあ快適に暮らしています。

そんな私の所に夏ごろ、住宅公社から一本の電話がきました。
「何軒もの家から、音がうるさくてたまらないという苦情がありますが、
お宅はどうでしょうか?」

ほとんど音が漏れない建物だから、そんなうるさいはずはない。
「神経質な人もいますから」なんてのんきに返事をしたが、
ふと、気になっていたことを思い出した。

夜中の1時から3時ごろ、通路を頻繁に歩く人がいるー。
人が通るとより明るい電気がパッとついて、それが窓に映るからすぐわかる。
それを告げると公社の方が、
「そうなんですよ。それでみなさんのドアをコンコン叩くらしいんです」

でもまあ、眠ってしまえば気にならないや、となおも私は全く他人事でした。

でもそれが、引っ越さなければならないほど大変な事態だったとは。
さらに、問題の家の直下に住むもう一組のご夫婦、80代の方ですが、
そのお二人の憔悴しきった顔を見て、その深刻さにやっと気付かされた。

「毎晩バットみたいなもので床や壁を叩くんです。一晩中です。
こんなことがもう1年も」

最上階の5階で発した音が、
隣家はもちろん、1階までの8軒の家にまで響くという。
直下の家は、壁に亀裂が入るぐらいひどいらしい。
夜中、水道管から変な音が響いて不安になるともいった。

「公社には何とかしてほしいと何度も足を運びましたが、
障害者がおられる家なので、人権問題になりますからと。
人権人権って、じゃあこっちの人権はどうなるんですか。

夜になると始まるから、もうノイローゼ。公社ではそんなにうるさいんなら
騒音を器械で計れっていうけど、裁判でもしろというのでしょうか。
夫婦最後の住まいと思ってここに来ましたが、もう限界です。
うちも引っ越しを考えています」

引っ越しともなればお金がかかる。保証人も探さなければならない。
ましてや80を過ぎての引っ越しは体調を崩して命取りになりかねません。
先日出て行ったあのお子さんたち、転校ともなれば精神的負担は甚大です。

5階にある4軒だけは階下の家の倍近い広さがありますが、
障害者が一人でもいれば最優先で入居できるという公社の方針で、
だから、たった二人でも入居ができたのでしょう。
その半分の間取りに家族4人で住んでいるという家が大半なのに。

車椅子専用の部屋は1階に設置されているし、
老人向けのバリアフリーの部屋も用意されている。
知的・精神的障害者は最上階優先ってどんな意味があるのでしょう。

やっぱりこれっておかしいよ。
だって逆に、障害者がいない家庭の方が差別されているみたいじゃない。

私の上階では、
広い間取りを希望して5人家族が入居したものの1年で出て行きました。
そんな家が2軒。

なぜか。
どんどん家賃があがって、夫婦二人で働いてもやっていけないから、と。
家のない家族が出て行かざるを得ないなんて、やっぱりおかしいよ。

だから、今ここは働き盛りの若い夫婦、中堅の家族が消えていき、
老人と障害者ばかりのコミュニィティになりつつあります。
とっても不自然です。

共に生きるって何でしょうね。弱者って誰のことでしょうか。
高騰する家賃に収入が追い付かず出て行かなければならない家族も、
弱者じゃないでしょうか。

以前から床を叩くクセがあるのなら、なぜ1階に住まなかったのか。
公社はなぜ、影響を最小限にとどめる1階を勧めなかったのか。
現に1階に住んで、うまく集団にとけ込んでいる障害者は何人もいます。

共に生きるって、
お互いが相手のことを思いつつ行動することだと私は思うんですよね。
100対0なんていう、100%相手に押し付ける関係は、
絶対おかしいと思うんですよ。どんな人だって心に重いものを抱えていますし、
それに、どんな人でも他人のためにできることってあると思うから。
障害者だって誰だって。

彼がこれほどに床や壁を叩くのは、
転居という環境の変化への不安や動揺の現れかもしれないとも思うのです。
それをうまく表現できない、わかってもらえない。
私は全くの素人ですが、
そのもどかしさが強烈な行動に走らせてしまうのかもとも考えました。

だったらなおのこと、そんな彼のためにも、お母さんは「音はウチではない」と
ご近所さんを門前払いするのではなく、理解や協力を求めなくては。
集合住宅への入居にあたっては、事前に、
支援学校の先生や専門家のアドバイスを受けるべきではなかったか、と。

かつて周囲のいじめで精根尽き果てた私は、
県弁護士会の人権擁護委員会に助けられた。
そのときの弁護士さんは根気よく当時の町内会長を説得してくれて、
そのおかげでいじめは鎮静化して、加担した住民の中には、
自分のやったことは恥ずべき行為だったと謝罪してくれた人がいた。

だから私は、
「人らしく生きる権利」や「その権利を踏みにじったらいけない」という
そういう「人権」を尊重しているつもりです。

引っ越しして行った母子3人も80代のご夫婦も、そしてここに住む誰もが、
障害者差別とか障害者の人権を踏みにじろうとするつもりなんてない。
安心して眠れる夜を、静かに勉強できる時間を、
音に脅かされない暮らしを望んでいるだけなのです。

「人権問題」に発展するのを恐れて、ひたすら被害者住民を我慢させて、
憎しみを増幅させるような公社のやり方は間違っていると思うし、
障害者にとっても不幸なことだと強く思うのです。
障害者とその家族にしても、
加害者になったり憎しみの対象になるつもりなどなかったはずです。

日々、障害者と向き合っておられる方々には、
また別の言い分があるかもしれません。
ですが、
この年の瀬に安住の住まいを出て行かざるを得なかった母子3人の無念を、
私は忘れるわけにはいきません。同じ母子家庭の母親としてなおさら。

80代のご夫婦がおっしゃっていました。
「公社では何食わぬ顔で、また新しい家族を入れるんでしょうね。
そうしてまた、同じ悲劇が繰り返される」
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コメント

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No title

こんばんは
ご無沙汰してました。
前は東京だったのでわかる気がします。壁一つ隔てて顔の見えない隣人がいる。今の環境を考えるとそれだけでも気になってしまいそうです。
明後日には東京に行きます。それからインド、来年帰ってきたらゆっくり遊びに来ます。それではそれまで風邪などひかないように。よいお年をお迎えください。

おはようございます

sukunahikonaさま
コメントありがとうございます。

ここは元からの住民は2割ほどで、ほとんどが外から来た住民、私もその一人。
緑豊かで子供も多い、ほどよい田舎町です。

ドル箱線といわれるバスが頻繁に行き来し、年末には酔っぱらい用の深夜便が走ります。でも夜の9時にはもう静か。ゆったりとした時間が流れています。

集合住宅では誰もが自然に挨拶をかわしていますが、お互い干渉しないところがいいなあと思っています。でも私は困っている人を見ると黙って見ていられなくて自分が悩んでしまうんですね。お節介な、それでいてバカを見る、ホントのアホ?

インド、楽しんできてください。
ブログにはまた遊びに来てください。
ベランダの干し柿はお正月には食べごろになっています。
私は干し柿を食べながらのんびり新年を迎えます。

おはようございます

障碍者を優先する公営住宅の事は知りませんでした。

一戸建てが並んでいるところも、トラブルはありますし、
ましてや集合住宅も問題が多いと聞きます。

で、特に最近は被害者より、加害者が保護されていて、
事件などの後も、被害者はさらし者状態。
TV筆頭にマスコミは、被害者には人権が無いように思います。
顔写真も出しっぱなし、加害者は匿名だったりします。

それにしても、厄介な住民が居ると困りますが、
人権問題になると、加害者が有利の事が多いようです。

それにしても、公的な住宅まであって障害者には、
親切な自治体ですが、民事には面倒なので介入しないですね。
他の住民にも、細かい配慮が出来ないのは可笑しな話で、
何とか丸く収まるように願っています。

暗い気持ちです

one0522さま
コメントありがとうございます。

さわらぬ神に…というのでしょうか。公的機関が逃げてしまうんですね。
長屋のご隠居さん的な人がいたらいいんですが。

記者をやっていたころは差別用語に気を使いました。八百屋、魚屋と書いてはいけないといわれて、八百屋さんというようになんでもかんでも「さん」を付けたり、鮮魚商に書きなおしたり、運転手はドライバーと書いたり。

ある画家から「ぼくは画家ではない。絵描きだよ。絵描きがなんで差別用語なんだよ」と言われてデスクとの板挟みになったこともありました。

江戸時代の記事で「大井川の川越人足」と書いたら「人足は差別用語だ」と怒鳴られました。いくら「これは江戸時代の話ですよ」と言ってもダメ。「川越しに従事した男たち」と書き直されて、さすがに私は怒りました。
歴史家たちには大笑いされるし、踏んだり蹴ったりでした。

気を使いすぎてかえっておかしくしてしまっているような気がします。
差別って用語ではなく使う人の心の問題だと思うのですが。

私も事件の被害者の扱いは問題だと思っています。新米記者は被害者の顔写真を取ってこいと言われますが、身内が殺されて悲歎のどん底にいる家族には非常識な要求です。それがいやで記者をやめた人もいます。

ここの問題は見通しがつきません。暗澹とします。
また、夫婦で懸命に働くと家賃が上がって退去に追い込まれるけど、働くのをやめて保護を受ければ居続けられる、なんだかなあという気がしています。

m(__)m

\(^o^)/ 今日は。

>人権って何だろう<

行政もマスコミも「共生」を、まるで「これが正しいのだ」と言わんばかりです。

「共に」ということは、「区別」であれ「差別」であれ、そこに明確なる「別の存在として認めている」のです。
つまり、同じ仲間ではないのです。

元々左系の人間が言い出し、マスコミが煽り、行政をはじめ企業や追従し、それが正しいとされています。

それに異議を唱えようとすれば、マスコミなどが寄ってたかって叩きまくる・・・現状があります。

結果、明確に区別することで、ある一部の団体や区別された人々の既得権益が保たれました。

共生と言っている限り、行きつくところは新たなる差別を生み、新たな既得権が発生します。

この件で、行政が動けば、「共生」を旗印にしている障がい者団体や人権派と称する弁護士たちが、ここぞとばかりにねじ込んでいくでしょうね。

結果、こういう問題は、「触らぬ神に祟りなし」となり、事なかれ主義が蔓延していくことになりますね。

人権という点だけで考えると、「共生という概念」がある限り、人権は守られないと思います。

無責任男 拝

難しい問題ですが

minekazeyaさま
コメントありがとうございます。

公営の団地ということで福祉的要素が強いのは当然だと思っています。ただ問題なのは役所が、親も手に負えなくなった精神障害者を単身、こうしたところに「放り込む」ことです。
そのため、建物全体の住民が悩まされるはめになります。

新聞社にいたころ、障害者団体の取材は御法度でした。詳しくは書けませんが、一度、仕事ができない状態になったことがあったとかで。
でも私はやったんです。
こちらも詳しくは書けませんが、記事は成功。依頼を受けたボランテイアさんも充分集まって催しは大成功。しかしそのあと「もうコリゴり」というボランティアさんから一部始終を聞いて愕然。理想と現実が違いすぎました。

その後同じ団体から「寄付をしたいという企業がある。新聞に金を渡している写真を載せるのが条件だからカメラもって来てくれ」と。
即座に断ったら会長さん、烈火のごとく怒りましたが、私も負けじと「新聞はあなた方のためにあるわけじゃない。記事にするかどうかはこちらが決めることだ。あなたの指図は受けない」と。

今思えば冷や汗もんです。デスクが、それみたことか、と。
でもそのあとが面白いんです。会長さん、私に会うとニコニコ顔で。記事はそれっきり書きませんでしたが、新聞社を辞めるまで仲良くしていました。もう20年も前のことですけど。

「共生」、おっしゃる通りですね。

母子3人を見送った人の話では、引っ越し社の小さな車でひっそりと出て行ったとのこと。離婚経験やらいじめやらDVやらで傷だらけの私には、何か事情があってやっとこの住まいにたどりついた母子かもな、との思いがありました。
今も上品で美しいお母さんの顔がチラついて仕方がありません。




雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞