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追いかけて追いかけて

柴田幸次郎を追う
08 /24 2016
柳の木の下にあった「大王石」は今どこにあるのだろうか。
これを持った柴田幸次郎とはどんな人だったのだろう。


75貫目、約280㎏もの巨石で、しかも立派な刻字まである石が、
そう簡単に姿を消すはずはないし、
怪力ゆえに鬼を冠して呼ばれた柴田幸次郎が、
人々から、こんなにきれいさっぱり忘れられるなんてありえない。

猫もやります、石担ぎと足差し
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江戸川区郷土資料室のキャラクター猫ちゃん  

でも、明治3年生まれの江戸文化・風俗研究家の<三田村鳶魚や
「きわもの」といわれた見世物を庶民文化と捉え、
文献的資料として名著「見世物研究」を完成させた
朝倉無声(明治10年生まれ)の著作にも柴田幸次郎は出てこない。

ただ無声の「見世物研究」に面白い記述があった。
それは明治時代の郷土玩具研究者の清水晴風への聞き書きです。

清水晴風は嘉永4年(1851)の生まれで、幼名は半七、通称・仁兵衛。
家は神田で車力(しゃりき。運送業)を営んでいた。
先祖は明暦の頃、駿河国(静岡県)清水から江戸へきたという。

ちなみに「そんなの当り前じゃないか」というときに使われた
「あたりきしゃりき」はこの車力からきています。

車力
img106.jpg
「近世風俗事典」より

本業は車力だが、書画・俳諧をたしなみ、戯作者の仮名垣魯文
児童文学作家の巌谷小波などと「竹馬の友」を結成。
また、人類学者の坪井正五郎らの「集古会」にも参加した文化人です。

その晴風にはもう一つ、力持ちという顔があった。
無声はいう。

「晴風は力持ち番付の幕の内に列したほどの力量の持ち主で、
それゆえ、幕末から明治へかけての素人力持ちについては、
生き字引ともいわれるほど精通していた」

私が注目したのはそれではない。
晴風が力持ちの真打について話したこのセリフです。

「三百貫目と称する大王石(実は百五十貫程)を足にて差し上げ…」

探していた「大王石」が、サラッと出てきたからです。

晴風が住んでいた神田と幸次郎の大王石があった元柳橋は近い。
間違いなくこれは同じ石だ。
とは思うものの、残念ながら晴風はこれ以上の情報を残してはくれなかった。

また、平成5年に亡くなるまで力石の調査に奔走した
伊東明上智大学名誉教授の調査論文にも幸次郎の名はなく、
その伊東教授をして、

「江戸川区内の力石研究としては、ほとんど完璧といえる」と絶賛された
鷹野虎四の調査記録にも幸次郎は姿を現さない。

下の写真は、2015年に開催された
「まるいし おもいし ちからいし」展での鷹野虎四氏の調査記録です。

CIMG2423.jpg
東京都江戸川区松島・グリーンパレス内 江戸川区郷土資料室

伊東先生没後、その師の跡を引き継ぎ、
全国規模の調査報告を成し遂げて、いまなお調査を続けている
高島愼助四日市大学教授も、「幸次郎の名は初耳だ」とおっしゃっる。

でも和竿師の「竿忠」初代忠吉はその名を知っていた。
忠吉自身、力持ち連中の仲間に入って石を担いでいたとも言い残している。

ならばその忠吉ゆかりの洲崎神社にもう一度戻ってみようと思い立ちました。
「たかが石一つに」とお笑いくださいますな。

笑われようともマイナーな研究だと言われようとも、
先人たちはそれこそ、「細大もらさず、しらみつぶしに」
調査に労力を費やしてきたのですから。

とはいうものの我ながら、ちょっと力み過ぎかも。

<つづく>

※画像提供/「近世風俗事典」監修・江馬務 西岡虎之助 浜田義一郎
        人物往来社 昭和42年
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コメント

非公開コメント

No title

~恋の手管に かけたなら 誰にも負けない ボクだもの あたりきしゃりき~

1962年ごろ(古いね~)の大ヒット曲、飯田久彦の「ルイジアナ・ママ」の一節に出て来ますが、「車力」から出ているとは・・・。

No title

弥五郎丸さま
コメントありがとうございました。

飯田久彦さん! 確かに古い、けど懐かしい。
4年前には紅白でこの歌を歌ったんですね。
ピーナッツの二人もこの世を去ってしまい、
昭和はすっかり遠くなってしまいまいした。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞