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年が合わない

柴田幸次郎を追う
08 /16 2016
「寛政の三美人」の一人、高島屋おひさ。
この方は両国橋角の釣具店「東屋」の初代茂八の女房になった。

のちにおひさは、鬼柴田とも鬼幸とも呼ばれた
怪力・柴田幸次郎が持った「大王石」のかたわらに水茶屋を出した。

「大王石」は75貫目(約280Kg)もの巨石だったそうですが、
そのころのおひささんも負けず劣らず、
28貫目(約105Kg)の巨漢に変貌していたという。


img188 (12)

初代忠吉さんがなぜこんなに詳しいかというと、
忠吉さん15、6歳のころ、この「東屋」に奉公していて、
このおひささんを知っていたからなんです。

「竿忠の寝言」の「白魚と道行」から引用します。

忠吉さんは、
「東屋では昼間は釣り船の船頭をし、夜分は釣竿づくりをしていた。
両国橋のたもとに井戸があって、
十六貫からする担ぎ桶で水汲みに行くのが日課だった」


2竿忠

「これがなかなかの辛苦であった。
だから、
なにか機会があったらこの家を飛び出そうとする腹であった」


その忠吉さんには苦手なものがもう一つあった。

「この東屋には大きいお内儀さんのお角力おひささんがいて、
この人はなかなか小喧しい婆さんであったから、これも嫌気の種であった」


楚々とした美女が肥満体の酒豪になり、
ついには小やかましい婆さんになった…。
考えさせられます。
さて、
ある朝、忠吉さんはのちに東屋三代目となる政次郎に誘われて、
白い靄が立ち込める海へ白魚すくいに出掛けます。
この政次郎は忠吉より一つ年長。

その政次郎を舟に残し、忠吉は獲れた白魚を売りに陸へあがり、
そのまま「ズラカッた」


白魚の入れ物はこれとは違いますが、とりあえず「魚売りの図」
img101.jpg

で、忠吉さんは「竿忠の寝言」にこう書いています。

「おひささん、八十四歳で没す」

おひささんがこの世を去ったのは、仮に忠吉が奉公中の15歳頃だとすると、
忠吉は元治元年(1864)生まれだから、おひさ没年は明治12年(1879)となり、
ここから逆算すると、
おひささんは寛政7年(1795年)生まれということになります。

でも歌麿が「寛政の三美人」を描いたのは
寛政5年~12年ごろとされており、
おひささんは当時17歳だったといわれているんです。
歌麿の絵の完成がギリギリの寛政12年(1800)としても、
その時おひささんは、まだ5歳にしかならず…。

年が合わない…。うーむ?

<つづく>
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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞