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兄と妹

柴田幸次郎を追う
08 /06 2016
幕末から明治、大正、昭和初年を生きた江戸和竿師・中根忠吉。
その生きざまを綴った「竿忠の寝言」の中に、
探していた人物がひょこっと出てきました。

その人の名は「柴田幸次郎」
あの「大王石」を持った人です。
怪力ゆえに「鬼柴田」とも「鬼幸」とも呼ばれていたそうです。

さてさて、佳境に入りかけたところで恐縮ですが、
「鬼柴田」のことはちょっとおいといて、
ブログ「竹林舎 そばバカ日誌」の記事をお借りして、
「竿忠」四代目の中根喜三郎氏についてお伝えしたいと思います。

喜三郎氏は父・音吉が刊行した「竿忠の寝言」復刻版に、
「寝言以後」という一文を載せています。
その中に昭和20年3月9日の東京大空襲での体験が綴られていました。

こちらは体験者が描いた静岡空襲の絵です。
焼夷弾に油が仕込まれていたため、川一面が火炎地獄となり、
川へ逃げた人はみんな焼け死んだそうです。

CIMG2290 (2)
昨年、静岡市民ギャラリーで開催された
静岡市平和資料センターと市共催の「戦争と静岡」展より

東京がB29の大空襲を受けたその日、
喜三郎さんは両親、祖母、兄たち7人で焼夷弾の中を逃げ惑います。
たどりついた先は小学校。喜三郎さんは迫りくる炎が熱くてたまらず、
校舎へよじ登り中へ入ります。


下の絵は、静岡空襲で逃げる人々を警防班の人が、
「逃げるのは非国民だ」と言って蹴りつけた実話です。

「弾にはめったに当たらない。
焼夷弾も心がけと準備次第で火災にならない。
弾に当たったり火災になるのは、お前らの心がけが悪いからだ」と。


当時、そう書いた国民の心得手帳が配布されており、
蹴った人は、お上の言いつけを忠実に実行したまでだ、ということでした。

戦争のおぞましさは、
「狂気」が「正常」とされてしまうところだと、私は思っています。

上官が若い兵隊をレイプするのは、日常茶飯事だったそうですね。

学生時代のドイツ語教授の話は今でも忘れられません。
「上官からタン壺を渡され、新兵同士で三々九度をしろと飲まされた。
だから今もって、ぬるぬるした食べ物は見ることもできない」と。

CIMG2349 (2)
2015年、個人商店「がれりあ布半」が開催した「戦後70年」展より
画/ウルシ・ヒロ

さて、昭和20年3月9日の大空襲で、校舎へ逃げ込んだ喜三郎少年は、
B29の爆撃音が止み、あたりの奇妙な静けさに気づきます。


恐る恐る外へ出てみると、、校庭には夥しい焼死者。
一緒に逃げた家族はどこにも見当たりません。
わずか13歳の喜三郎さんは、一瞬にして家族6人を失ってしまったのです。


この手記の中で、私は喜三郎さんの妹さんは、
故林家三平師匠の奥さま、香葉子さんであることを知りました。
テレビでお見かけした香葉子夫人はえくぼが印象的な方で、
このご一家はいつもまばゆいばかりの「明るさ」を放っていました。

その香葉子さんは静岡県沼津市の親戚に疎開していたため、
空襲をまぬがれたそうですが、
戦後の混乱の中、13歳と11歳の兄と妹が歩んでこられた道は、
想像を絶するものだったに違いありません。

下の写真の建物は、
東京からの疎開児童約120人が暮らした
「旧赤坂沼津臨海学園」です。
戦後は戦災児童を収容する施設となりました。
現在は「沼津市文化財収蔵庫」になっています。

CIMG2101.jpg
沼津市下香貫

昨年は戦後70年の年でした。
私は可能な限り各展示会場へと足を運びました。
ちょっぴり関わっている静岡市文化財資料館でも、
「知っていますか? すべてが戦争のためにあった時代を」
と副題をつけた「静岡の戦争」展を開催しました。

この副題を見たご高齢の方が感慨深げにおっしゃった。
「本当にすべてが戦争のためにあった時代でしたねえ。つろうございました」

圧巻は体験者の語りでした。語りの会場へは3日間通いました。
語り部はみなさん、ご高齢です。今しか聞くことができません。

「母がおんぶしていた弟の頭に焼夷弾が直撃したんです」
男性は少年だったあの日の出来事を、ポツリポツリと話し始めました。
「弟が死んだときも母が亡くなった時も、ぼくは泣くことができなかった。
ぼくは泣けなくなっちゃったんだ。それが戦争なんだね」


インパール作戦で武器も食料も与えられず、ジャングルに放り出されて、
そのジャングルを4年間彷徨った92歳の男性の話は凄惨でした。
「みんな空腹に耐えかねて、倒れている仲間を…。
こいつ、まだ温ったかいぞって。地獄でした」


付添いの男性が言いにくそうに、「つまりそのう、食べたということです」

会場に持参したのは、どんなときでも手放さなかった当時の飯盒と水筒です。
しかしその飯盒と共に過ごした戦後70年間は、
忘れようとしても蘇える悪夢との闘いだったのではないでしょうか。

思いのたけを話し終えたあと、声をふりしぼるようにおっしゃいました。
「戦争はいやだ」

今年もあの戦争を振り返る夏がやってきました。
ここに掲げた写真は、これまでブログでご紹介してきた写真ばかりですが、
また出すことにしました。

これはトラック島で戦病死した23歳の若者の墓所です。
墓石のかたわらに若者が生前愛用した力石が置かれています。

CIMG1069.jpg
東京都江戸川区南小岩・円蔵院

日露戦争で亡くなった223人の若者を模した人形です。
親たちが「この子たちをいつまでも覚えていてほしい」と、
息子たちの遺影を人形師に託して製作されたものです。

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静岡県藤枝市岡部・常昌院(兵隊寺)

現在84歳の兄の喜三郎氏は昨年、名誉都民になられ、
妹の香葉子さんは長年、エッセイストとして活躍。
ご子息たちも噺家になられるなど、素敵な人生を送られています。

「江戸和竿師「竿忠」のことを、
たくさんの人に知ってほしい、覚えていてほしい」

そういう思いでブログに「竿忠の寝言」を載せたブログ主さんは、
喜三郎氏や香葉子さんのいとこさんで、
現在、石川県白山市で、蕎麦屋さんを営んでおられます。

その方がおっしゃっていました。
「喜三郎さんは僕より12歳、香葉子さんは10歳年上です。
喜三郎さんはまだまだ元気で、今も現役の竿師です。
一日でも長生きしてくれって、いつも思っています」

<つづく>
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コメント

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おはようございます

貴重な話をありがとうございます。

何度か、上野公園の「時忘れじの塔」を訪れました。
香葉子さんの願いが篭っています。
ここの「母子像」は、当初もんぺ姿だったのを、
都庁当たりで許可されず、スカートにされたとか。

このお二人は、亡くなった家族の分まで、
幸せに長生きして欲しいですね。
香葉子さんの談話は、当時を語っています。

http://www.nhk.or.jp/shutoken/miraima/articles/00294.html

力石も歴史の中に深く関わっていると、
あらためて認識しました。
戦争の最たる被害者は、女性と子供です。
戦争は絶対に避けるべきですね。

姫の熱心な仕事に感謝しています。

No title

「徹子の部屋」(2015.12月)に中根喜三郎・海老名香葉子兄妹が出演してましたね。
YouTubeで観られます。

親の愛情

one0522さま
コメントありがとうございます。

香葉子さんのインタビュー記事、読ませていただきました。
教えていただきありがとうございました。

あのお二人は「蛍の墓」の兄と妹みたいですが、喜三郎さんも香葉子さんも生き抜いて…。本当によかったと思いました。

「母子像」、モンペでよかったのに。
なんかお堅いというかお役所仕事というのか。

お墓の力石、ほかにもあります。
ご住職は力石の事をご存じなくて「初めて知りました」とおっしゃって。
お訪ねした日は大雪の翌日で、積雪のため門扉が開かず、ご住職と二人で雪かきをしました。「遠くからきてくださったのだから。きれいに写してもらいなさい」といいつつ、力石にかぶさっていた雪をきれいに取り除いてくれました。

息子さんの力石をお墓に置いたのはご両親だと思います。子を亡くした親の寂しさと愛情がひしひしと伝わってきて、私もご住職もしんみりしてしまいました。

ストラディブァリウス

弥五郎丸さま
コメントありがとうございます。

「徹子の部屋」、見ました。ありがとうございました。
子供の頃、二人で寄り添っている写真にジンときました。

和竿は本当に美しいですね。

初代「竿忠」のお父さんは「泰地屋東作」という竿師のお弟子さんだったそうですが、昭和11年に来日したロシアの歌手が和竿に魅せられ、その東作四代目のことを「釣り道具のストラディブァリウスだ」と絶賛したそうです。

日本の素晴らしい技、ずっと残してほしいです。

訂正

ストラディブァリウス → ストラディヴァリウス

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞