由比の力石めぐり⑤
由比の力石
「豊積神社に力石のような石があるんですよ」
由比在住の郷土史家、望月久代さんからの電話です。
オッ、あの有名な「豊積(とよづみ)神社」に!
胸が高鳴ります。
この神社はやたら古いんです。
なにしろあの「延喜式神名帳」に載る「延喜式内社」ですから。
これは延喜年間に時の醍醐天皇が全国の神社を調べさせ、
「由緒ある神社である」とのお墨付きを与えたものです。
「延喜式神名帳」の完成は延長5年(927)。
ということは、この豊積神社は1100年もの昔から、
すでにこの地に存在していたということになります。
豊積神社・本殿です。

「ふるさと・ゆい 郷土史・文化財 源蔵先生講義録」
(望月一成監修、望月良英編著)より
望月良英さんによると、現在の本殿は文政8年(1825)、
伊豆・土肥町八木沢の宮大工と地元の大工が手がけたものだそうです。
土肥町には力石調査で行きましたが、
それよりはるか昔、新聞の取材で訪れたことがあります。
県内の演劇人などを訪ね歩く「ライブの創り手たち」の連載のため、
その日は昼間は伊豆・旧韮山町の「韮山時代劇場」へ赴き、
夕方から土肥町の菜の花畑で行われる「菜の花舞台」を訪ねました。
これは俳優の橋爪功さんと演劇集団「円」、
それに地元の人たちが共に作り上げた珍しい試みの舞台でした。
プロの役者はプロらしく、
地元の大人や子供たちは素人そのままの姿で無理なく溶け合い…。
真っ暗闇の中、おぼろ月だけが頼りのぞくぞくわくわくするひとときでした。
そうそう。歌手のかまやつひろしさんがギター抱えて飛び入りしましたっけ。

旧土肥町小土肥 菜の花畑の特設舞台での橋爪さんと子供たち。
年のせいですねえ。このごろは昔のことをよく思い出してしまうんです。
ここに写っている子供たちも、すでにお父さんお母さんになっているはず。
この土肥町にも力石はたくさんありますが、それはまたの機会にして、
まずは豊積神社へ。
境内の大イチョウの根元に置かれた石です。

静岡市清水区由比町屋原
「これ、どうでしょうか? 力石みたいですけど」と久代さん。
確かに!
特にイチョウの根元の丸い石はもう力石そのもの。
「でもねえ、できるだけたくさんの地元の人に聞いたんだけどわからないって」
久代さんはとても残念そう。
高島愼助教授に問い合わせるも、
「証言が得られなければ力石とは認められません」とのつれないお返事。
散逸を恐れた昔の人がご神木の根元に置いたことは充分考えられますが、
証言者がいなければやはり諦めるしかありません。
東山寺の力比べを描いた「望嶽亭」の松永宝蔵さんがご存命ならなあと、
二人して嘆息しました。
推定1200年もの歴史のあるこの豊積神社には、
奇祭と呼ばれる「お太鼓まつり」があります。

延暦16年(797)、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征伐に向かう途中、
この神社に立ち寄り戦勝祈願をしたとの伝承があります。
その願いが叶って帰路、ここで神楽を催したのがこの祭りの始まりとか。
江戸時代になるとこれが男女の出会いの祭りになります。
老若男女が太鼓の後について、歌を掛け合うわけです。
男女が輪になって踊る旧中川根町・佐沢薬師のひよんどりや、
静岡市の小野薬師の歌垣に似たものです。
でも私が取材に入ったころは、
15歳になった若者の「若衆入り」の行事になっていて、
先輩たちが歌う「めでた歌」と水祝儀を浴びながら、
少年たちが大太鼓を叩くという勇壮な祭りになっていました。
正月二日目の「入り太鼓」

氏子さん提供
当時の新聞記事です。
このころは、大晦日も元旦も飛び回っていました。
思えばよく働きました。
由比在住の郷土史家、望月久代さんからの電話です。
オッ、あの有名な「豊積(とよづみ)神社」に!
胸が高鳴ります。
この神社はやたら古いんです。
なにしろあの「延喜式神名帳」に載る「延喜式内社」ですから。
これは延喜年間に時の醍醐天皇が全国の神社を調べさせ、
「由緒ある神社である」とのお墨付きを与えたものです。
「延喜式神名帳」の完成は延長5年(927)。
ということは、この豊積神社は1100年もの昔から、
すでにこの地に存在していたということになります。
豊積神社・本殿です。

「ふるさと・ゆい 郷土史・文化財 源蔵先生講義録」
(望月一成監修、望月良英編著)より
望月良英さんによると、現在の本殿は文政8年(1825)、
伊豆・土肥町八木沢の宮大工と地元の大工が手がけたものだそうです。
土肥町には力石調査で行きましたが、
それよりはるか昔、新聞の取材で訪れたことがあります。
県内の演劇人などを訪ね歩く「ライブの創り手たち」の連載のため、
その日は昼間は伊豆・旧韮山町の「韮山時代劇場」へ赴き、
夕方から土肥町の菜の花畑で行われる「菜の花舞台」を訪ねました。
これは俳優の橋爪功さんと演劇集団「円」、
それに地元の人たちが共に作り上げた珍しい試みの舞台でした。
プロの役者はプロらしく、
地元の大人や子供たちは素人そのままの姿で無理なく溶け合い…。
真っ暗闇の中、おぼろ月だけが頼りのぞくぞくわくわくするひとときでした。
そうそう。歌手のかまやつひろしさんがギター抱えて飛び入りしましたっけ。

旧土肥町小土肥 菜の花畑の特設舞台での橋爪さんと子供たち。
年のせいですねえ。このごろは昔のことをよく思い出してしまうんです。
ここに写っている子供たちも、すでにお父さんお母さんになっているはず。
この土肥町にも力石はたくさんありますが、それはまたの機会にして、
まずは豊積神社へ。
境内の大イチョウの根元に置かれた石です。

静岡市清水区由比町屋原
「これ、どうでしょうか? 力石みたいですけど」と久代さん。
確かに!
特にイチョウの根元の丸い石はもう力石そのもの。
「でもねえ、できるだけたくさんの地元の人に聞いたんだけどわからないって」
久代さんはとても残念そう。
高島愼助教授に問い合わせるも、
「証言が得られなければ力石とは認められません」とのつれないお返事。
散逸を恐れた昔の人がご神木の根元に置いたことは充分考えられますが、
証言者がいなければやはり諦めるしかありません。
東山寺の力比べを描いた「望嶽亭」の松永宝蔵さんがご存命ならなあと、
二人して嘆息しました。
推定1200年もの歴史のあるこの豊積神社には、
奇祭と呼ばれる「お太鼓まつり」があります。

延暦16年(797)、征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征伐に向かう途中、
この神社に立ち寄り戦勝祈願をしたとの伝承があります。
その願いが叶って帰路、ここで神楽を催したのがこの祭りの始まりとか。
江戸時代になるとこれが男女の出会いの祭りになります。
老若男女が太鼓の後について、歌を掛け合うわけです。
男女が輪になって踊る旧中川根町・佐沢薬師のひよんどりや、
静岡市の小野薬師の歌垣に似たものです。
でも私が取材に入ったころは、
15歳になった若者の「若衆入り」の行事になっていて、
先輩たちが歌う「めでた歌」と水祝儀を浴びながら、
少年たちが大太鼓を叩くという勇壮な祭りになっていました。
正月二日目の「入り太鼓」

氏子さん提供
当時の新聞記事です。
このころは、大晦日も元旦も飛び回っていました。
思えばよく働きました。
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