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研究者・伊東 明上智大学名誉教授

力石の研究者
06 /27 2014
平成5年に亡くなるまで、力石の研究に尽力された上智大学名誉教授、
伊東 明先生をご紹介します。
ご専門の「体育史学」の立場から、力石に光をあてられた方です。
先生の残された資料は、青森県から沖縄県にまで及びます。

伊東 明先生です。
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写真提供/高島愼助・四日市大学教授

「力石は、ほとんどの全国各地の神社仏寺などの境内で見かけることができる。
それでありながら、文献資料としては番附などを除いて全くないし、
規則ややり方に関するものも皆無に等しい」

という状況の中で、先生は、
「大石を高く持ちあげて群がる敵に投げつける大力無双の豪傑物語
といういわゆる伝説上の力持ちから掘り起こし、
東京都江東区の志演神社内にある寛文4(1664)年の切り付け(刻字)の石が、
刻字の力石としては、都内で最古のものであることを突き止めます。

「力石による力持ちの最盛期は江戸中期から明治初年
「演技の様式も一応決まり、神社の神賑わしの行事、花相撲の余興、
大都市では曲俵、曲持ちなどを加えて、力持ちの興行として行われるようになった」
農山漁村の若者たちによる力石は、都会の興行化とは異なり、
生活に密着して発達した」
と述べています。

東京都江東区・亀戸天神社の力石と伊東先生のスケッチです。
CIMG0869 (3)img184 (2)

写真とスケッチは違う力石です。
伊東先生は、1988年当時、亀戸天神社で4個の力石を発見していますが、
その後新たに2個見つかり、現在では6個保存されています。
写真の力石は新たに見つかった石の一つです。

そして写真の石は文化9年に、またスケッチの石は寛政8年に亀戸天神社に
奉納されたものです。そのどちらにも名前が刻まれているのは、
石の平蔵と異名をとった「八丁堀亀嶌平蔵」です。

こちらは熱海市上多賀・多賀神社の力石です。
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寸法は53×32×24㌢

伊東先生が、昭和54年7月に調査したときのスケッチです。
「若衆力石」と墨書があります。

ところが昨年、再調査したときには、
この力石はすでに行方が分からなくなっていました。
まだどこかにあるのではないかという淡い期待と寂しい思いを抱きながら、
神社を後にしました。

資料/上智大学研究紀要。伊東 明。1968年、1988年。
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コメント

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No title

このブログで伊東先生のことを初めて知りました。
立派な研究をされている高島先生先輩がおられたのですね。力石に関して静岡が後発県なのでしょうか。
力姫様、これからも大いに頑張って下さい。それにしてもひつこいですが、「力石」の熟語が広辞苑にないのは残念です。静岡出身の新島出は知らなかったのでしょうか。

No title

s.h..様
コメントありがとうございます。

静岡県は、ダメなんです。
力石の認知度は低いし、行政でも歴史民俗の学芸員さんでも、無関心な人が多いです。

でもまあ、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、です。がんばります。

広辞苑には見捨てられても、ポルトガル語の辞書には載っています。

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坊主さんへ

貴重なコメント、ありがとうございます。
私が力石に入ったのは伊東先生亡き後のはるか後で、
先生のご功績は残された論文などで知るだけでした。
ただその行間から見えてくるのは、探求心とフットワークのよさ、優しさでした。伊豆の力石も丹念に歩かれていますが、別荘があったからなんですね。車の運転をされなかったと聞いていますが、本当でしょうか。
アカデミックな場から力石という名もなき庶民の持った石を紹介・発信され、研究されたことは本当に凄いことで、各地の神社などが保存に動いたのは先生のおかげと言っても過言ではありません。
一度はお目にかかりたかったと常々思っております。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞