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まな板になっていた版木

三ノ宮卯之助
06 /05 2015
今から64年前の昭和26年(1951)、
高崎 力氏は郷土史家で大袋村の元村長、瀬尾哲太郎氏から、
「浮世絵を見せる」との連絡を受けました。

この時、高崎氏、24歳。
埼玉県越谷市内の中学校の社会科教諭でした。

高崎氏は瀬尾氏とともに「浮世絵」があるという三野宮の農家に出向きます。
そのとき目にしたのが、
今まで見たこともない人の群像が陽刻された版木。

これです。
img669.jpg
撮影/S氏 =向佐家蔵=

高崎氏が訪ねた三野宮の農家というのは、
日本一の力持ち力士、三ノ宮卯之助の生家
「向佐(むかさ)家」だったのです。
版木はまな板代わりに使用されていたので
裏面は包丁の傷だらけ、中心部は横一線にひび割れていたという悲惨な状態。

しかし、この版木との出会いが、
高崎氏を卯之助研究へ駆り立てたきっかけになりました。

上の写真は、
高崎氏が版木を目にしてから59年後にS氏が撮影した版木です。
S氏によると、
この家のおばあちゃんが市へ貸したら、青く塗られて戻ってきたと言い、
少々立腹気味だったとか。

そんなわけで、黒かった版木がごらんのように青くなっちゃったんです。
まな板にされたり青く塗られたり、版木も数奇な運命をたどっています。

版木に彫られていたがこちらです。
img673.jpg
三ノ宮卯之助の興行引札  =高崎力氏・高島愼助教授蔵=

高崎氏が郷土史の研究を始めたのは、22歳のとき。
昭和41年には大相模見田方遺跡の発掘調査、その後は「越谷市史」の編さん、
「越谷市郷土研究会」など、
郷土にしっかり根を下ろした活動をされてきました。

そうした中で卯之助と出会い、
この埋もれた郷土の偉人を世に知らしめる調査に没頭。
卯之助研究の第一人者として、数々の成果をあげてきました。

高崎氏が調査のために歩いた行程です。

img658 (2)

高崎氏は、「力なし(弱虫)」と笑われていた少年卯之助が、
やがて、江戸力持番付の東の大関となり、
11代将軍家斉のご上覧の栄を受けるなど出世の階段を登る中で、
卯之助に影響を与え行動を共にした3人の力持ちと、
多くの力石を見出していきます。

三ノ宮卯之助
文化4年(1807)の卯年、
岩槻藩領三野宮村(現・越谷市三野宮)に生まれる。
虚弱体質で周囲から「力なし」とあだ名され、
その悔しさから鍛錬に励み、村一番の力持ちになった。

10代半ばごろ、米俵を積んだ舟が浅瀬に乗り上げて動かなくなったとき、
卯之助が川へ潜り舟底を押し上げ、とうとう舟を深みへ動かした、
そんなエピソードも残っています。

img675.jpg
今はお菓子やお守りになって生まれ故郷に貢献しています。

次回は、
この稀有の力持ち力士の栄光の時代から、
その真っただ中、毒殺されたとのうわさのある48歳での謎の死までを、
高崎氏の調査論文に即してたどってまいります。

<つづく>

※参考文献・画像提供
/「日本一の力持 三ノ宮卯之助の生涯」高崎力 平成16年の講演記録より
/四日市大学論集「三ノ宮卯之助の力石(2)」 高島愼助・高崎力 2004
※画像提供/S氏
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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞