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いつの間にか「傘寿」㊷

いつの間にか傘寿3
02 /24 2024
出産予定日に、この町に古くからあるM医院に入院した。

M医院は内科を標榜していたが先生の専門は産婦人科で、
この人は同級生のK子さんのお父さんでもあった。

彼女は色白の少しふくよかな物静かなお嬢さんで、
お医者のお父さんもゆったりした優しい人だった。

子供の頃、医院の前を通るとよくピアノの音が聞こえてきた。
きっとK子さんが弾いているのだろうと思いつつ、歩いたものだ。

そのころ貴重な玉子焼きがK子さんのお弁当にはいつも入っていると、
みんなが羨ましそうに話していた。


助産婦さんは「野村とら」さんといった。
母から「あんたを取り上げてくれた人」と言われてびっくりした。

28年前、母から赤ん坊の私を取り上げてくれた人が、
今度はその私の子供を取り上げてくれる、
母子二代が同じ人のお世話になる、とらさんがすごく身近に感じられた。

入院した部屋は8畳ほどの畳敷きで、
そこで私は、M医師と助産婦のとらさんの二人に見守られて出産した。

元気な男の子だった。


今、手元にある「臍帯」を納めた小箱を見ると、
私の小箱には「産婆 野村とら」、
二男の箱には「助産婦 野村とら子」とある。


左から私、二男、長男のへその緒。
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都会の病院で生まれた長男の小箱には「産毛」はなかったが、
とらさんは私と二男の箱には産毛も真綿にくるんで納めてくれていた。

ちなみに出生時の私の体重は940匁、身長は「三壁」とある。
この「壁」とは何を指すのか、お分かりの方ぜひ教えてください。


さて、当時すでに老境に入っていたとらさんだったが、
深夜の出産にも関わらず、テキパキと手際よく処置してくれたので、
私はなんの不安もなく二男を産んだ。

長男の時は大きな病院での出産だったが、
そのときの医者よりとらさんの技量の方が格段に勝っていたし、
なによりも私に掛けてくれるひと声ひと声が優しく甘美に響き、
産みの苦しみも遠のいて、母になる喜びが自然と沸き上がってきた。

こんな安らぎは故郷に戻って初めて味わうものだった。

今までとらさんの手で産声を上げた赤ちゃんは、何千人にもなるだろう。
片田舎の一隅で、とらさんはそれを一人でこなしてきた。
すごいな、尊いなと思った。

生後4か月の二男。あんなにお世話になったのに私は「とらさん」に、
その後を一度も報告しなかった。今さら悔やんでももう遅い。
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翌日夫のSが来たが、そのままとんぼ返りで東京へ帰った。

夜、母が来た。怖い顔をしていた。
とらさんが遠慮して席を立ったのを確認すると、
生まれた孫を見ることもなく枕元に座り、声を押し殺して言い始めた。


「あんたが来たお陰で、
W子と行く予定だった旅行に行けなくなったじゃないか」

旅行! 思いもしなかったことを言い出した。


母は寝ている私の頭の真後ろに座っていたので姿が見えない。
姿を見せないまま、声だけが落ちてきた。

「今からでも行きたいから、2週間でも3週間でもここに置いてもらいなさい」

頭に血が昇りそうになったが堪えた。

それにしても母は、出産したばかりで身動きの出来ない娘に、
なんでこんな酷い言葉を平気で浴びせられるのか。

姉からそう言えと言われてきたのだろうが、今この場に姉はいない。
人形遣いがいないのだから自分の本心に従えばいいものを。

現代の言葉に置き換えるなら、「洗脳」という状態だったのだろうが、
あまりにもひどすぎる。

お母さん、私、子供を産んだばかりだよ。胎児が産道を通るとき、
全身の骨が砕けてしまうのではないかと思うほどつらかったよ。

今、その大役を無事終えて、私は力尽きた体をこうして横たえている。
それを一番知っているはずのなのに、それなのにお母さん、あなたは…。

産室の黒々と広がる天井が、今にも覆いかぶさってくるような気がした。

姉は来なかった。
勤務先の学校はすでに春休みだったから家にはいるんだろう。

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父は来た。父は毎日来た。
隣町への仕入れの帰りだろう、毎日同じ時刻に部屋のふすまを開け、
そこから顔だけのぞかせて私と赤ん坊をかわるがわる見た。

部屋には一歩も入らないまま、
これ以上ないというほど顔をほころばせて赤ん坊を見ると、
喜びを顔いっぱい浮かべたままそっと襖をしめて立ち去った。

入院中の一週間は、助産婦のとらさんとの幸せな日々になった。

とらさんはご自分の知恵を惜しみなく与えてくださり、
毎日、こまごまと赤ん坊と私の世話をしてくれた。

授乳の指導、産後の過ごし方、体調の変化。
「おお、よく出る。でも初めの母乳は汚いからこれは飲ませてはいけないよ」

今でもそのときの情景が昨日のことのように浮かんでくる。

退院後の不安はあったものの、乗り切れると思った。
母親の私がこの子のそばにいる限り、姉だって変な手出しはできないだろう。

その姉に洗脳された母だって孫と接しているうちに、
祖母としての愛情が自然と出てくるだろう、そう思った。

だが、その望みはすぐに砕かれた。

姉と母からの「いじめ」は退院後、すぐ再開された。
父にはそれを止める力がなかった。

父は最大限、私に気を遣ってくれた。
依頼してあった授乳用のミルクの缶を差し出して、
「これでいいかね?」と。

父のあんな明るい声は初めて聞いた。

兄と弟
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「一人ぐらい家で孫を産んで欲しい」という父の気持ちは本心で、
それに応えた私に父はできる限り心を配ってくれた。
だが、次々と「いじめ」を考え出す姉やそれを実行する母を止める力は、
残念ながらそのときの父にはなかった。

いじめの実態が見えていなかったのか、それとも、
姉のあの自制心を失くした「狂気」の前ではどうしようもなかったのか。

入院中、こんな出来事があった。

夕方だった。
医院の玄関の方角から「うーん、うーん」といううめき声が微かにして…。
しばらくすると救急車のサイレンが聞こえてきて、
慌ただしい気配がしたが、すぐまたいつもの静けさに戻っていった。

8畳間の真ん中に寝ながら、
私は何か大変なことが起きたんだなと思っていたが、
とらさんは何も言わなかった。

だが退院後、母は私の顔を見るなり言い出した。
田舎ではめったにないビッグニュースを聞かせるように。


「あんたの入院中、M医院の前で交通事故があったけど、
知らなかったのかい。
〇〇さんとこのお母さんだったって。
出産した娘の家にお祝いに行く途中、車に轢かれちゃったんだって。
死んじゃったんだって」

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞