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いつの間にか「傘寿」㊳

いつの間にか傘寿2
02 /12 2024
罠にはめられたと思った。

母は次から次へ苦情や要求を突き付けてきた。
「あんたの息子がW子の部屋へ入った」「懐中電灯を壊した」

それから何やら細かく数字を書きつけた紙片を突き出すと、こう言った。

「あんたとあんたの息子の分の食費を徴収するから」


食費を徴収…、私は呆気にとられた。
呆然としている私を見下ろしながら、母はさらにこう付け足した。

「全額、前払いしてちょうだい」

「あんたの息子」って、この子はお母さんの孫ではないですか。
以前はあんなに可愛がっていたのに、なんでそんな言い方をするの?


まして食費を払えだなんて。
こんな親がいるなんて想像もしていなかった。

今、孫たちを迎える立場になった私には、とうてい考えられないことだ。

困惑して父に打ち明けたら、感情を出すことのないあの父が、
烈火のごとく怒り「どういうつもりだ」と母を𠮟りつけたので、
食費の件は立ち消えになった。


食費の請求書の文字は母の筆跡ではなかった。
短歌や俳句を詠む母は、その歌のように流れるような文字を書くが、
姉の文字はチマチマした神経質な文字だったからすぐわかった。


寡黙だった父は愛情も黙って示した。
私の実家にいい印象を持たなかった長男に、
「おじいちゃんはあなたをおんぶして、どんど焼きに行ったんだよ」
と言ったら、「そんなことがあったのか」とホッとした顔になった。
父と良太

それにしても何かがおかしかった。

10歳以降、母は人が変わったように優しいお母さんになった。
短大生の時も就職したあとも、私を気遣う手紙を頻繁に寄越した。


長男を出産したときは店番を終えたその足で上京した。

たぶん節約のため鈍行列車に揺られてきたのだろう。
慣れない都会でようやく病院に辿り着いた母は、その疲れた体のまま、
まだエアコン設備のなかった産院で暑くてぐずる息子を抱き、
病院の長い廊下を一晩中、「ねんねんよう」と行ったり来たりしてくれた。

そしてついこの間まで、
雑誌の記事を書く私のために助言してくれていたではないか。


そのころ私は料理雑誌に「食べ物歳時記」を連載していて、
母から年中行事を教えてもらっていた。
手紙には母が祖母から伝授された行事やおまじないが綴られていた。


そんな一つにこんな「おまじない」があった。

≪盗難予防のおまじない≫
「寝るぞ根太、頼むぞ垂木、梁も聞け、何事あれば起こせこうべり」

その祖母は母が10歳の時亡くなったという。
幕末、廃藩のため藩主と共に流浪したが、
貧すれど武士の娘としての気概を終生失わなかったという。
母は尊敬していた祖母を自叙伝にこう記している。

「今もおまじないを呟くと、
祖母の面影が偲ばれて懐かしさで胸がいっぱいになります」


母からの年中行事の手紙。苦手な横書きで書いてきた。
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子供の頃母は、どんなに忙しくても年中行事は欠かさなかった。

お正月は近所の子供も呼んで百人一首をやった。
上の句を母が独特の節回しで詠むと、年長者が「はい」と取る。
するとすかさず母が下の句を詠みあげた。

おかげで私は小学校に上がる頃には、百人一首を諳んじるようになった。

七草の日はまな板に七種の野菜を載せ包丁やすりこ木を両手に持ち、
「ななくさなずな、とうどのとりが」と歌いながら、ストトンのトンと叩いた。


3月は「女の節句」
母が詰めてくれたお重を持って、女の子だけで裏山に登って宴会をした。
白酒を飲み過ぎた次姉が派手に嘔吐したのもこのとき。

母は私の求めに応じて、雄弁に手紙で語ってくれた。


「七夕の早朝、芋の葉に溜まった露を硯にとって墨をすり短冊に書きます。

七夕の今宵逢ふ瀬の行く末は 
      よろずよかけてなほちぎるらん


「10月20日 えびす講
えびす・大黒を残してほかの神様は全部出雲に集まり、
全国の縁結びの会を開くので、この月はえびす・大黒をまつる。

祭壇を作りえびす・大黒を並べ、かけ魚といって頭付きの魚に藁を通して
二匹下げ、大根二本、赤飯、なます、おひら、吸い物、みかん、落花生、
柿、りんごなどを供える。その後、くじ引きで家中の者に分ける」

母の手紙を読みながら、そうそう、みんなでくじを引いたっけと
私は過ぎた日々を思い出して懐かしさにひたった。


「どんど焼きの日には米の粉で作った「繭玉」を作り、玄関に飾る。
この日は「成木責め」も行われた。

”大の木、小の木成らすと申せ 末(うら)から元(もと)まで
千百俵万百俵 成らすと申せ”と唱えながら、
家の周りの木を叩いてそのあとへ「小豆粥」をつけて歩く」


左は「繭玉」。右は初午の日に作った幟。五色の紙で作った。
私もこの幟を担いで近所の子供達と稲荷様をまつる家に持っていき、
「おぶく」(お仏供。赤飯の握り飯)をいただいた。
新聞紙にじかに包むので、おぶくに文字が写っていた。
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母が豊かさ溢れるこの手紙を送ってきたのは、つい去年のことだ。
その続きみたいに、「こっちで産んだらどうか」と言ってきたから、
私は何の疑いもなく誘いに乗った。

だが来てみればその母が、
「デカイ腹をしてよくも来れたな」などと思いもしなかった言葉を吐き、
次々と理不尽な要求を突き付けてくる。


ひょっとして姉が言わせているんじゃないだろうか。

姉は背後霊みたいに母の背中にくっ付いていたし、
その姉が離れると母の態度が変わった。

まるで二人羽織か腹話術師とその人形みたいじゃないか。


そういえば姉はいつからこの家で暮らし始めたのだろう。

あれは確か私が社会人になったころだった。
帰郷した私に母が「W子は離婚したから」と興奮気味に告げた。
「あの男がW子にとんでもない思想を吹き込んで。
だからここに呼んで離婚届に判を押させたんだよ」と。


父(60歳)と母(53歳)が一番穏やかに暮らしていたころ。
長姉の登場でこの生活は一変した。
父と母

W子姉は仕事で不在以外の時間には自室にこもっていたから、
会うことは全くなかったし、存在すら訪問客から忘れられていた。

のちにアルバムを見たら、
私の結納の日にみんなの陰にひっそり写っていた。


あれはいつのことだったか、
その姉がいきなり部屋から出てくると赤い小冊子をヒラヒラさせ、
ハイテンションでわめきだした。

「清子、ブルジョワのアンタこそ、これを読みなさい!」

赤い冊子には「毛沢東語録」と書かれていた。


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コメント

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No title

奇しくも本日は「初午」。
数十年前、あの幟を担いで近所の子供たちと行ったんですね。

昔、こちらでもお稲荷さんのある近所の家は、幟を立てて太鼓をたたいて祝っていました。私ら子供たちや皆さんに、甘酒をふるまっていた記憶が蘇りました。
その家ももうありません。

夏目さんへ

今日は初午だったんですね。
昭和前期の子供ですから、もう年中行事はたくさん経験しています。
母の手紙を改めて読んでみると、もう消えてしまったり現代には通じなく
なったりするものばかりになりました。
でも今は大きな神社に行かれたりして、形を変えて祝っているみたいですね。

お月見団子は夜なら盗んでも良いことになっていて、
それが子供たちの楽しみでした。
私の家では2階の腰かけ窓に飾ったので、子供達は長い竿を振り回していました。
年中行事ではないのですが、
新築の家の棟上げのときの餅投げも楽しみの一つでした。
手も洗わず食べていましたが、病気にもならず。
免疫がいっぱいついたんだと思います。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞