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いつの間にか「傘寿」㊲

いつの間にか傘寿2
02 /09 2024
3月下旬、
私はもうすぐ5歳になる息子の手を握り、実家の玄関の前に立った。

その月に入ったら実家の母から突然電話が来て、
「こっちへ来て産んだらどうか」と言う。
「一人ぐらい孫をここで産んで欲しいってお父さんが言うんだよ」

思いがけない母からの申し出だった。
私はそれを素直に受け入れ、出産まじかのこの日、故郷へ向かった。
懐かしい駅に着いた頃は、日はとっぷり暮れていた。

タクシーの音を聞きつけたのか、
玄関のガラス戸の向こうがパッと明るくなった。暖かい光だった。

だが、ガラス戸を開けると状況は一変。
そこに仁王立ちした母がいて、険しい顔でこう怒鳴った。


「そんなデカイ腹をしてよくも来れたね! 
ここには子供を産みたくても産めない姉さんがいるってのに!」

お正月には大きなおなかを抱えて長男と凧揚げをした。
私の手編みのセーターを着せて。
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思いもよらない暴言だった。

母の顔が子供の頃、私を憎々し気に罵ったあの顔になっていた。

私はたじろいだ。意味が掴めなかった。どういうこと? なんなのこれ。
こっちへ来いと言ってきたのはお母さん、あなたではないですか。


私は一気に、あの暗く寂しかった10歳の少女に引き戻された。

母は理由もなく私を殴った。その理不尽さ、恐ろしさに耐え切れず、
私は電車に飛び込もうとした。今でもあの時の光景を忘れはしない。

裏木戸を開けると冷さが足元から這い上がってきた。
闇夜だった。
そのどんよりと重たい黒い世界へ迷わず足を踏み出し、
踏切めざして歩き始めたとき、
背後から「ごはんだよー」と呼ぶ母の声を聞いた。
私に掛けた呼び声でないことはわかっていたが、なんだか胸が熱くなり、
その声に引き寄せられるようにふらふらと舞い戻った。

義兄の娘とアメリカンショップで買ったデニムの上下を着た長男。
娘さんは今はもう還暦を過ぎたころ。幸せになっていると信じて…。
このデニムを着せて里帰りしたら、実家の母が
「作業着なんか着せてみっともない。ちゃんとした服を着せなさい」と。
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自殺を思いとどまったその日以来、
私は働き詰めの母を助けるために夕食作りを始めた。
いつも母のしぐさを見ていたから、ご飯炊きもおかずも難なく出来た。

この逆転の発想が功を奏したのか、以来母は怒りの対象を、
私から切れた電球に代え、力まかせに石垣にぶつけ始めた。


そのとき思った。
「人に優しくすることは自分を助ける事なんだ」と。

当時高校生だった長姉のW子は、
10歳の妹が作った夕ご飯を当然のように食べ、
食い散らかしたまま二階の自室へ上って行った。


あれから18年たったこの日、私は再び悪夢を見た。
険しい顔で立ち尽くす母がいて、その母の背後に長姉のW子がいた。

姉はまるで背後霊のように母にピタッとくっつき、
肩越しに目だけ出して私を凝視していた。
黒目が溶けて灰色一色になったガラスのような目だった。

カナダへ移住した次姉のY子が、
「W子姉は氷のような女」と言っていたが、まさにその目だった。

雰囲気を察したのか、息子が私の手を固く握りしめた。

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身軽なら踵を返して「サヨナラ」が言えるのに、
すでに東京の産院はキャンセルしていたし、保育園にも届けを出してきた。
なにより出産が迫っている。

呆然と立ち尽くしていた時、W子姉がふいに母の背後から離れ、
そのまま自室へ向かって去っていった。

その姉が自室に入るのを見届けると、母が小声で言った。


「来ちゃったものは仕方がないね」

そう言いながら私と長男を部屋へ招じ入れた。


部屋のソファベッドにはすでに布団が敷かれ、
息子用のベッドも用意されていた。
よく見るとたくさんのおむつがきちんとテーブルに置かれていた。

紙おむつがないころだったから、母は古い浴衣をほどいたり、
新たにさらし布を買って毎晩、縫っていたのだろう。

その母が息子に言った。


「いいかい。隣はおばちゃんの部屋だからね。
おばちゃんは毎日お仕事で疲れて帰ってくるんだから、
声を出すんじゃないよ。この部屋から出るんじゃないよ」


2歳ごろの長男と母。優しいおばあちゃんそのものだったのに。
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そう言ってから私に向き直ると、こう言い放った。

「妊婦は汚いからお風呂は最後に入ってちょうだい」


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞